21.鼓動の音
「それで、テオはリイナちゃんに一目惚れをしたってことね」
さらりと投げられたその言葉に、私はお茶を口にしかけていたのをあわてて止めた。思わず視線をあげると、にこにこと笑うテオのお母様。言葉も仕草も優雅で柔らかいはずなのに、どうしてこんなにも圧があるのだろう。
「は? 母上、話が飛びすぎです」
テオが即座に言うけれど、夫人の笑みは崩れない。
「え? 違うの?」
またそう言われて、私はおろおろしてしまう。
「い、いえ、あの、違うんです。すみません……っ」
声がうわずる。誤解されてしまっては申し訳ない、と思えば思うほど、焦りが募っていく。
「きっとどこかで野垂れ死ぬって思われたのだと思います。だから、面倒を見てくださってて……その、惚れるとか、そういうのでは……ないのです」
しどろもどろになりながらも、私は必死で説明した。
「そうなの? おかしいわね……」
夫人がそう言って、首を傾げる。おかしい? 何が? 私の言い分だろうか、それとも、状況自体が……?
「ねえ、リイナちゃん。恋人は?」
「い、いません」
正直に答えると、夫人の顔がぱっと明るくなった。
「テオのことどう思う?」
……え? 言葉が理解できず、思考が止まった。
「母上、勘弁してください……」
テオの困ったような声がして、ようやく言われた意味に気付いた。
「なによ、大事なことじゃない?」
夫人の声は、いたずらを仕掛ける少女のように軽やかだった。けれどその響きの中には、どこか含みのある艶やかさが混じっていて――私はなぜか、視線を合わせることができなかった。
「大事なこと?」
テオ様が眉をひそめ、警戒するように言う。
夫人は、小さく息を吸い込むと、意を決したように言った。
「ーー実はね、リイナちゃんは、私の、娘なの……テオ、あなたは小さかったから覚えていないのかもしれないけれど」
「は!? 嘘だ! リイナが、そんなーーまさか。俺に妹なんか……」
テオが勢いよく立ち上がった。椅子がぎぃ、と音を立てて後ろにずれ、まるで彼の動揺を代弁するようだった。顔色がみるみるうちに青ざめ、テーブルにすがるようにして立っている。
「……兄と妹?」
私はぽつりと呟いた。頭の中が真っ白になっていた。理解しようとするたび、思考が滑っていく。
私の家? 私の家族? 混乱を極める中心に、嫌だと叫ぶ何かがあった。
優しいテオが兄。
なぜ……こんなにも、嬉しくないのだろう。
夫人は、テオの動揺を見て、ことのほか楽しそうに、くすくすと笑い出した。
「兄妹ではないわ。ふふ、もう、そんなに、慌てて青ざめるなんて、テオったら。自分の気持ちに、正直になったら?」
兄妹ではない。
私は呆然と彼女を見る。けれど、それは確かに、悪戯を成功させた人の笑顔だった。
「母上!! なぜそのような、悪趣味な嘘を!」
テオが怒りをあらわにする。見たことのない剣幕で、夫人を睨みつけた。
「リイナに……リイナに謝ってください!!」
私は、気づけば涙をこぼしていた。
けれど、体がじわりとあたたかくなっていく。ああ、よかった。テオが兄じゃなかった……そう思った瞬間、涙の意味がはっきりした。
これは、安堵。
「っ! ごめんなさい! リイナちゃん、そんなつもりなかったの。本当にごめんなさい!」
夫人があわてて席を立ち、深々と頭を下げる。
「……まさか、そんなに動揺するなんて……本当に、悪かったわ……」
「母上、二度としないでください!!」
テオの声が、いつになく大きかった。彼がそっと私にハンカチを差し出してくれる。私はそれを受け取りながら、かすれた声で言う。
「あの、違うんです。なんだか、あ、安心? して涙が出たのだと思います。娘が嫌なのではなく……テオが兄じゃなくてよかったなって」
「安心? まあ!!」
夫人がぱっと顔を上げる。その目に、今度は真剣な光が宿った。
「ねえ、リイナちゃんにその気があるなら、テオのお嫁さんになってくれると嬉しいわ」
「母上! あなたは言ったそばから……!」
テオが頭を抱える。怒っているのか、照れているのか、自分でもわからないような顔で。
「嘘でも冗談でもないなら、いいでしょ? ね、リィナちゃん。どうかしら?」
「で、でも……私、貴族ではないと思います」
言いながら、胸の奥がずしりと重くなった。
「平民……いえ、孤児の可能性もあります。そんな私が、貴族の方にお嫁にだなんて……」
言葉が自然と小さくなっていく。事実を、自分の口で確認するようで――苦しかった。
ありえない。それが、私の本音だった。夢見てはいけない。現実を、ちゃんと見なければ。
でも。
ほんの少し、ほんのひとしずく、胸の奥に湧いた光が消えてくれなかった。それでも、もし……と願ってしまう私は、どこかで彼を想ってしまっているのかもしれない。
「大丈夫よ、何にも心配いらないわ。それとも、テオは嫌かしら?」
「奥様、お二人とも戸惑っておられます。当事者を無視して話を進めるのは、いかがなものかと」
執事が、静かに指摘してくれて、私は思わず胸をなでおろした。助かった……。
「じゃあ、ゆーっくり考えてね。また、晩餐で会いましょう」
軽やかな足音を残して去っていく母上の後ろ姿を見送って、私は気が抜けたように息を吐いた。
「はぁ、疲れた……やっぱり母上は、母上だったな……」
テオがルカに話しかける。少しだけ頬がゆるんでいた。きっと、本気で怒っていたけれど、どこか安心したのだろう。
「ええ、そうですねテオ様……すみません。混乱しすぎて、口を挟めずにいて……」
「気にするな、ルカ」
短いけれど、静かに、迷いのない声だった。
テオのお嫁さん。
夫人のあの言葉が、頭の中をまだ反響している。
テオとルカのやりとりが、少し遠く感じられたのは――たぶん、自分の鼓動の音のほうが強く響いているからかしら。




