20.寄り道の先に
「……何もなかったですよね」
ルカが静かに、けれど鋭く問い詰めるような声でテオに詰め寄った。彼の眼差しには、どこか確信めいた色が宿っている。
「何の話だ?」
テオはひらりと肩をすくめ、そしらぬ顔で答えた。絶対に、手を引かれたことは内証にしなくては、テオが怒られる。目が合ったテオに向かって力強く頷く。
「何もないに決まっているだろ? 俺は天罰が怖い、信心深い人間なんだ」
「そんなの、初めて聞きましたけど?」
呆れたようにルカが言うと、テオは手を叩くようにして話題を変えた。
「さて、出発するか。リイナ、空が晴れてきたな」
「はい、晴れました」
私は微笑んでうなずいた。どこか不思議なやりとりだったけれど、流れる空気は柔らかかった。馬車がゆっくりと揺れる。窓の外には、鮮やかな緑が流れていく。
「テオ様、もうすぐヴァルモンド領ですが、どうされますか?」
「どう、しようか……」
テオが腕を組んで少し考える。
「この時期なら、旦那様たちは領地にいるでしょうね」
「知らないふりして通り過ぎたら、あとで文句を言われそうだな。……寄るか」
小さくため息をついて、でもどこかめんどくさそうに呟いた。
「どうかしましたか?」
私が尋ねると、テオは少しだけ眉を動かしながら言った。
「ヴァルモンド領を抜けたら、隣の領がルヴェラン領だ。……なあ、リイナ。寄り道していいか?」
「ええ、もちろんです」
「ちょっと、ヴァルモンド領にある実家に寄りたいんだ」
「実家があるのですか? ええと、私も、一緒に行ってもいいんですか?」
「ああ、全くかまわない」
やがて視界に現れたのは、灰色の石を積み上げた堂々たる屋敷だった。重厚な門の向こうには、季節の花が整然と植えられた庭園が広がり、その奥に白い外壁が陽光を受けて明るく輝いている。
馬車が敷石を踏んで止まると、扉の奥から慌てた様子の執事が駆け出してきた。年配の細身の男で、濃い灰色の礼服に白手袋をつけている。目を瞬かせながら、テオドールを見るなり深々と頭を下げた。
「アルバート、ただいま」
「テオドール様……! ルーカスも……これは驚きました」
「予定にはなかったのだが、近くまで来たのでな。少し寄っていこうと思って」
「さようでございましたか。旦那様はあいにく外出中でございますが、奥様はご在宅でございます」
テオドール様――そしてこの邸宅。やはり、テオは高貴な身分の方だったのだわ。
執事が扉を開け、客人を迎え入れようとしたそのとき――
奥の回廊から、ひときわ明るく軽やかな声が響いた。
「まあ、騒がしいと思ったら……テオじゃない。ルカもいるのね。久しぶりね」
声の主が姿を現すと、空気がひときわ華やいだ。
ふわりと広がるドレスの裾、琥珀色の瞳があたたかく笑う。その女性は、ひと目で“貴族の夫人”という言葉を体現するような存在だった。柔らかなブルーシルバーの髪をゆるくまとめ、耳元に揺れる小さな宝石の飾り。その所作の一つひとつに育ちの良さと品格がにじんでおり、それでいて、どこかおおらかな人柄が感じられる。
何よりも、その微笑――
太陽の光を映したようにきらめく笑みに、私はすぐに気づいた。この人は、テオのお母様で、きっと間違いないわ。
「母上、ご無沙汰しておりました」
テオは一歩進み出て、ほんの少しだけ姿勢を正す。普段と変わらぬ落ち着いた声なのに、その響きの奥に、どこか少年のような気配がまぎれている気がした。
「本当よ。ちゃんと手紙を書きなさいって、いつも言ってるでしょう?」
夫人が呆れたように言いながらも、目元には柔らかな色が浮かんでいる。その視線がふと私へと向けられた。琥珀色の瞳がまっすぐ私をとらえ、その輝きの中に、わずかな好奇と警戒が混じるのを感じた。
私は、慌ててスカートの裾を両手でつまみ、深く礼をする。緊張で指先が少し震えていた。
「初めまして。このような格好ではわかりにくいかと思いますが、光耀の癒聖と呼ばれております」
少し間をおいて、夫人が言葉を繰り返すように呟いた。
「光耀の……癒聖……?」
「はい。一応、聖女です」
ぽつりと付け加えた瞬間だった。夫人の動きが止まった。笑っていた口元が、ふと静まり返る。目の前の空気が、さっと変わったのがわかった。
やはり、私の髪の色……平民、ということに気付いたのかしら。
「おい、ルカ。……なんか、思ってた反応と違わないか?」
「ええ。聖女と聞いたら、もっとこう……敬意とか、感激とかあるのかと……」
小声で交わされるやり取りにそっと目を伏せる。けれど、夫人は、再び微笑み、私から視線を逸らさず、穏やかに言葉を紡いだ。
「まあ……あなたが……そう、なのね。テオの母で、セリーナ・アルフェルトよ。ようこそ、伯爵家へ。けれど、テオ? なぜ聖女と一緒に?」
伯爵夫人……! ここは伯爵家だったのね、今さらながら胸がどくんと跳ねた。
「ええ。巡礼の旅を一人でしていると聞いて、心配になりまして。一緒に旅をしています」
さらりとテオが答えると、夫人のまなざしが鋭くなった。
「……一人ですって?」
今度は、はっきりとわかった。彼女の表情が、すっと強張るのを。それまでの穏やかな笑みが消え、瞳の奥に冷たい光が宿る。琥珀のように温かいと思っていた瞳が、宝石の刃のように凛として――テオへと真っすぐ向けられた。
美しい人が怒ると、こんなにも威圧感があるのね……。私は思わず、背筋を伸ばして一歩下がった。胸の奥がきゅっとすぼまるような気がする。
そんな私の前に、一歩、ルカが進み出た。
「奥様、リイナ様がおびえます」
その言葉に、夫人がはっと目を見開いた。
「はっ……ごめんなさいね、リイナちゃん。あなたに怒ったんじゃないのよ。そうね、テオと会えてよかったわ。いっぱい迷惑、かけていいのよ」
リイナ、ちゃん……?それは、思っていたよりも、ずっと近くて、あたたかい呼び方だった。
「……もうすでに、たくさん迷惑をかけてしまって……」
正直にそう口にすると、夫人はくすりと笑った。
「大丈夫よ。この子、意外とお節介なんだから。困っている人を見ると、すぐ口出すの」
「母上、それはだいぶ息子に対して失礼では?」
テオがむっとした顔で返すが、夫人はまったく気に留めた様子もなく軽やかに続けた。
「ふふ。立ち話も何ですし、お茶の用意をしてもらいましょう。もちろん今日は、泊まっていくでしょう?」
“テオの帰る場所”
私とは、まるで違う世界。けれどその温もりは、少しだけ懐かしい気がして――胸の奥で、何かがやさしく鳴った。




