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【完結】明日も、生きることにします  作者: 楽歩


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20/40

20.寄り道の先に

「……何もなかったですよね」


 ルカが静かに、けれど鋭く問い詰めるような声でテオに詰め寄った。彼の眼差しには、どこか確信めいた色が宿っている。



「何の話だ?」


 テオはひらりと肩をすくめ、そしらぬ顔で答えた。絶対に、手を引かれたことは内証にしなくては、テオが怒られる。目が合ったテオに向かって力強く頷く。



「何もないに決まっているだろ? 俺は天罰が怖い、信心深い人間なんだ」


「そんなの、初めて聞きましたけど?」



 呆れたようにルカが言うと、テオは手を叩くようにして話題を変えた。



「さて、出発するか。リイナ、空が晴れてきたな」


「はい、晴れました」



 私は微笑んでうなずいた。どこか不思議なやりとりだったけれど、流れる空気は柔らかかった。馬車がゆっくりと揺れる。窓の外には、鮮やかな緑が流れていく。



「テオ様、もうすぐヴァルモンド領ですが、どうされますか?」


「どう、しようか……」



 テオが腕を組んで少し考える。



「この時期なら、旦那様たちは領地にいるでしょうね」


「知らないふりして通り過ぎたら、あとで文句を言われそうだな。……寄るか」



 小さくため息をついて、でもどこかめんどくさそうに呟いた。



「どうかしましたか?」


 私が尋ねると、テオは少しだけ眉を動かしながら言った。



「ヴァルモンド領を抜けたら、隣の領がルヴェラン領だ。……なあ、リイナ。寄り道していいか?」


「ええ、もちろんです」


「ちょっと、ヴァルモンド領にある実家に寄りたいんだ」


「実家があるのですか? ええと、私も、一緒に行ってもいいんですか?」


「ああ、全くかまわない」




 やがて視界に現れたのは、灰色の石を積み上げた堂々たる屋敷だった。重厚な門の向こうには、季節の花が整然と植えられた庭園が広がり、その奥に白い外壁が陽光を受けて明るく輝いている。


 馬車が敷石を踏んで止まると、扉の奥から慌てた様子の執事が駆け出してきた。年配の細身の男で、濃い灰色の礼服に白手袋をつけている。目を瞬かせながら、テオドールを見るなり深々と頭を下げた。



「アルバート、ただいま」


「テオドール様……! ルーカスも……これは驚きました」


「予定にはなかったのだが、近くまで来たのでな。少し寄っていこうと思って」


「さようでございましたか。旦那様はあいにく外出中でございますが、奥様はご在宅でございます」



 テオドール様――そしてこの邸宅。やはり、テオは高貴な身分の方だったのだわ。


 執事が扉を開け、客人を迎え入れようとしたそのとき――


 奥の回廊から、ひときわ明るく軽やかな声が響いた。



「まあ、騒がしいと思ったら……テオじゃない。ルカもいるのね。久しぶりね」



 声の主が姿を現すと、空気がひときわ華やいだ。


 ふわりと広がるドレスの裾、琥珀色の瞳があたたかく笑う。その女性は、ひと目で“貴族の夫人”という言葉を体現するような存在だった。柔らかなブルーシルバーの髪をゆるくまとめ、耳元に揺れる小さな宝石の飾り。その所作の一つひとつに育ちの良さと品格がにじんでおり、それでいて、どこかおおらかな人柄が感じられる。


 何よりも、その微笑――


 太陽の光を映したようにきらめく笑みに、私はすぐに気づいた。この人は、テオのお母様で、きっと間違いないわ。



「母上、ご無沙汰しておりました」



 テオは一歩進み出て、ほんの少しだけ姿勢を正す。普段と変わらぬ落ち着いた声なのに、その響きの奥に、どこか少年のような気配がまぎれている気がした。



「本当よ。ちゃんと手紙を書きなさいって、いつも言ってるでしょう?」



 夫人が呆れたように言いながらも、目元には柔らかな色が浮かんでいる。その視線がふと私へと向けられた。琥珀色の瞳がまっすぐ私をとらえ、その輝きの中に、わずかな好奇と警戒が混じるのを感じた。


 私は、慌ててスカートの裾を両手でつまみ、深く礼をする。緊張で指先が少し震えていた。



「初めまして。このような格好ではわかりにくいかと思いますが、光耀の癒聖と呼ばれております」



 少し間をおいて、夫人が言葉を繰り返すように呟いた。



「光耀の……癒聖……?」


「はい。一応、聖女です」



 ぽつりと付け加えた瞬間だった。夫人の動きが止まった。笑っていた口元が、ふと静まり返る。目の前の空気が、さっと変わったのがわかった。


 やはり、私の髪の色……平民、ということに気付いたのかしら。



「おい、ルカ。……なんか、思ってた反応と違わないか?」


「ええ。聖女と聞いたら、もっとこう……敬意とか、感激とかあるのかと……」



 小声で交わされるやり取りにそっと目を伏せる。けれど、夫人は、再び微笑み、私から視線を逸らさず、穏やかに言葉を紡いだ。



「まあ……あなたが……そう、なのね。テオの母で、セリーナ・アルフェルトよ。ようこそ、伯爵家へ。けれど、テオ? なぜ聖女と一緒に?」



 伯爵夫人……! ここは伯爵家だったのね、今さらながら胸がどくんと跳ねた。



「ええ。巡礼の旅を一人でしていると聞いて、心配になりまして。一緒に旅をしています」



 さらりとテオが答えると、夫人のまなざしが鋭くなった。



「……一人ですって?」



 今度は、はっきりとわかった。彼女の表情が、すっと強張るのを。それまでの穏やかな笑みが消え、瞳の奥に冷たい光が宿る。琥珀のように温かいと思っていた瞳が、宝石の刃のように凛として――テオへと真っすぐ向けられた。


 美しい人が怒ると、こんなにも威圧感があるのね……。私は思わず、背筋を伸ばして一歩下がった。胸の奥がきゅっとすぼまるような気がする。


 そんな私の前に、一歩、ルカが進み出た。



「奥様、リイナ様がおびえます」



 その言葉に、夫人がはっと目を見開いた。



「はっ……ごめんなさいね、リイナちゃん。あなたに怒ったんじゃないのよ。そうね、テオと会えてよかったわ。いっぱい迷惑、かけていいのよ」



 リイナ、ちゃん……?それは、思っていたよりも、ずっと近くて、あたたかい呼び方だった。



「……もうすでに、たくさん迷惑をかけてしまって……」



 正直にそう口にすると、夫人はくすりと笑った。



「大丈夫よ。この子、意外とお節介なんだから。困っている人を見ると、すぐ口出すの」


「母上、それはだいぶ息子に対して失礼では?」



 テオがむっとした顔で返すが、夫人はまったく気に留めた様子もなく軽やかに続けた。



「ふふ。立ち話も何ですし、お茶の用意をしてもらいましょう。もちろん今日は、泊まっていくでしょう?」




 “テオの帰る場所”


 私とは、まるで違う世界。けれどその温もりは、少しだけ懐かしい気がして――胸の奥で、何かがやさしく鳴った。


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