18.光の届かぬ夜に
「すげえ雨だな」
テオの低い声に、思わず馬車の外に目をやった。空は墨を流したように曇り、音を立てて降りしきる雨が、すべてを灰色に包み込んでいた。
「馬車、あの橋渡れるでしょうか?」
目を凝らすと、向こうの橋を流れる川が、じわじわとその幅を広げているのが分かる。水かさが、確実に増している。
「俺が先に行って見に行ってくる」
そう言うなり、テオはマントを翻し、雨の中へと飛び出した。止める間もなかった。
でも、……時間が経っても、帰ってこない。
「テオ様、帰ってきませんね」
「そうですね、あっ! 私見てきますね」
そう言って馬車から降りる。ルカの驚いた声が背後から聞こえた。
「え? あ! リイナ様ーー!」
けれどその声は、雨音にかき消される。髪も裾もすぐに重くなる。けれど、構っていられない。川の流れが、いまにも怒り出しそうに唸っている気がして。
テオが心配だわ。
橋までたどり着くと、向こう岸から戻ってくるテオの姿が見えた。思わず橋を渡り、駆け寄る。
「リイナ! 危ないだろ、待っていないと!」
「すみません、何かあったのではと、心配で……」
ほんの少し睫毛にかかった雨粒が、彼の眼差しを柔らかく揺らした、そのときだった。轟音が川の奥底から響く。
「まずい、鉄砲水だ!」
言うが早いか、私は手を引かれ、橋を駆け抜けた。水飛沫を跳ね上げながら、息を切らして走る。ようやく向こう岸へ辿り着いたとき、反対側の岸辺にいたルカが声を上げた。
「ご無事ですか、二人とも!」
「……ああ、大丈夫だ。だが戻るのは無理だな。ルカ! もうすぐ夜になる。二手に分かれよう。宿を探して、明日ここで落ち合おう」
「分かりました、テオ様。でも……分かっていますよね。手を出したら、軽蔑しますからね!」
手……? 大変だわ! さっき、手を引かれてしまった。
「余計なことを言わずに早く行け! 荷が駄目になる!」
テオの声に、雨音が打ちつける。道は泥に変わり、空気は冷たく湿っていた。
ようやく街の明かりが見えてきたとき、私は小さく息を吐いた。張りつめていた胸が、ほんの少しだけ緩む。冷たい雨が衣の隙間を縫って染み込んでくる。濡れた足元は重く、身体は芯まで冷えていた。ふと横を見ると、テオの肩も濡れていた。
やっとの思いで宿屋の軒先にたどり着いたとき、私たちは互いに目を見合わせて、ほっとしたように小さく笑った。
*****
「この大雨だろ? 宿がいっぱいなんだよ。部屋が一部屋しかないが、どうする?」
宿の女将さんは忙しそうに言う。
「……まあ、一度一緒に野宿してるから、平気だろ。いいか?」
「はい、大丈夫です」
よかった、一部屋あいていて。
「女将、実は着替えがない。なんとかなるだろうか?」
「今日来た客はみんなそうさ。今、服屋が大量に服を持ってくるから、着いたら声かけるよ」
「助かる。……じゃあリイナ、先に部屋に行こう」
部屋の扉を開けると、木製のベッドが一つ。そして壁際に小さなソファ。テオがため息まじりに言った。
「やっぱりベッドは一つか。まあいい。ソファがある。俺はこっちで」
「え? 私がソファです」
「いや、俺は野宿慣れしてる。何なら床でも――」
「お金を出しているのはテオです。それに……そのソファ、テオには小さいです」
「お前は俺が、女を粗末なソファに寝かせて熟睡できる男だと思ってるのか?」
「……頑固ですね」
「そっちもな」
ふたりして目をそらす。どうしましょう。そのとき、階下から女将さんの声が響いた。
「服屋が来たよー! 降りてきな!」
「……とりあえず、服を買って風呂に入ってから相談だ」
*****
湯船の熱が、冷えた体をようやく温めてくれた。部屋に戻ると、机の上に小さな紙切れが。
『食べ物を買ってくる』そう書かれたテオの字。
私は窓の前に膝をつく。手を組み、目を閉じる。
「どうか、この雨が恵みとなりますように。皆が無事でありますように――」
この時期に、これほど激しい雨は珍しい。光の差さない空が、心まで曇らせる。
カタン
扉の開く音。振り返ると、濡れた外套のフードを下ろしたテオが、袋を片手に戻ってきていた。
「――あ、テオ。お帰りなさい」
「……すまない。邪魔したか?」
足音を立てぬように静かに入ってきた彼は、こちらの祈る姿に、どこか申し訳なさそうに言った。
「いいえ。ちょうど祈りを終えたところです」
テオは黙って頷き、濡れた外套を脱ぎながら、そっと問いかけてきた。
「……何を、祈っていたんだ?」
私は少しだけ考えたあと、そっと言葉を紡いだ。
「神に感謝を。そして皆の平和を。……もしかしたら、この光の差さない天気は、神が私を咎めているのかもしれません。聖女として全うしなさい、と。心を曇らせてはいけない、と」
少しだけ震えた言葉に、テオは黙ってこちらを見つめると、静かに言った。
「……そうか。でも、神は――きっとそんなことで、お前を咎めたりしない。むしろ、ちゃんと祈れるお前を、褒めてると思うぞ」
「ふふ。ありがとうございます、テオ」
私はふわりと笑った。
「それで……祈りの最中に、ひとつ思いついたのですが……」
彼に向き直り、切り出す。
「一緒にベッドを使うのは、どうでしょう?」
その瞬間――テオが手に持っていた袋が、指の間から音もなく滑り落ちた。中から、パンとチーズが転がる。彼の目が見開かれ、唇がかすかに震えている。
「お、俺に、今……何と……?」
顔を真っ赤にしながら、固まった彼の様子に、私は首をかしげる。




