10.明日、また生きるために
「おう、テオ、こっちだ!」
次の町へ入ると、陽射しに焼けた男が、大きく手を振ってこちらへ駆け寄ってきた。真夏の太陽よりも眩しい笑顔。その男の人に、テオも自然と頬をゆるめた。
「アーサー。元気そうでなによりだ」
テオの声に、アーサーは嬉しそうに笑いながら、ぐいと肩を組んできた。その自然な仕草に、二人の付き合いの長さが滲む。
「おまえこそ、無事でよかった。道中、無茶してねぇか?」
「それはこっちのセリフだよ。アーサー、どうせ相変わらず働き詰めなんだろ? 肩、岩みたいに硬いぞ。少しは休め」
冗談めかして言うテオに、アーサーは苦笑して肩をすくめた。
「……はは、分かってるくせに。休むってのが、どうにも苦手でな」
その笑みはどこか張りつめていて、視線はすっと逸らされた。
「……あまり、眠れてないのか?」
テオの問いながら、小瓶を渡す。その声がどこか悲しげで、なぜか、それを聞いた私の胸もつまる。
「これがないと、眠れないんだよ」
アーサーはテオから受け取った小瓶を見つめ、小さく笑った。その一瞬、彼の顔にふっと影が落ちる。
私が何か言いたげな表情をしたのだろう。彼は私を見て微笑んだ後、視線を遠くに向け、ぽつりと語り始めた。
「この町には、戦で心を擦り減らした奴らが多い。俺たちはもともと兵士じゃなかった。剣の訓練も受けず、盾も持たず――ただ、生き延びるために戦ったんだ」
アーサーの手が止まり、目がどこか遠くを見つめている。まだそこに戦場が残っているかのように。
「体の傷は、時間が経てばふさがる。でも、心のほうは……そう簡単にいかない。考える時間があると、いろんなことが浮かんでくる。仲間の顔、叫び声、鉄と血のにおい。あれが染みついて、離れないんだ」
言葉が途切れ、しばらく沈黙が流れる。
「だから働くんだ。朝から晩まで、無心で手を動かして、気づけば日が暮れてるくらいがちょうどいい。立ち止まったら……多分、俺、もう動けなくなる。……怖いんだよ」
その声には、芯のある強さと、同時にどうしようもない弱さが同居していた。それでも、彼は前に進もうとしていた。
「でもな、どんなに体がくたびれても……不思議と、眠れねぇんだ」
私は、言葉を失った。ただ静かに、彼の目を見つめ返すしかできなかった。
——「心の傷」。
悲しみ。怒り。絶望。そして、憎しみ。
「……孤独の痛みは、私にもわかります」
ふと漏れた自分の声に、自分自身が少し驚く。
心が、ほんの少しだけ締めつけられた。けれど、私の孤独と、目の前の人の孤独はきっと違う。深さも、重さも、背負ってきたものも。
――それでも。
記憶を消すことはできなくても。せめて、その痛みだけでも、そっと和らげられたなら。
「……あの、アーサーさん。私、実は……聖女でして。あなたの心の傷を、少しでも癒せるかもしれません」
それを口にするには、思っていたよりも勇気が必要だった。
静かな沈黙のあと、アーサーは目を伏せ、小さく息を吐いた。
「ありがとう。でも……いらないよ」
どこか遠くを見るような、掠れた声だった。
「癒されたくないんだ。忘れてしまいたくないから。俺だけが楽になんて……そんなの、許されない」
その言葉に、空気がひんやりと冷たくなる。けれど、すかさずテオが口を挟んだ。
「……おいおい、アーサー。癒やすだけで、記憶を消すとは言ってないぞ? それにお前、聖女様の施しを断ったら、天罰がくだるかもな」
わざと軽く茶化すような口ぶり。それでも、その言葉には優しさが滲んでいた。アーサーはふと私を見て、ためらいがちに尋ねた。
「……記憶は、消えないのか?」
「ええ。忘れることは、できないと思います。ただ……痛みだけを、少し和らげる。それだけです」
しばし沈黙。そして、小さく頷いた。
「……そうか。そこまで言うなら、頼むよ」
彼の心に、ほんの少しでも触れられるように。私は目を閉じ、両手を胸元で重ねた。
「光よ――」
祈りの言葉が、静かに空気を満たしていく。過去の苦しみも、後悔も、罪も。すべてを否定せず、優しく包み込むように。
「この者の影に染み入りて、古き悲しみを抱きしめよ――」
やわらかな光が、静かにアーサーの胸へと溶けていった。その瞬間、彼の目から、一筋の涙が静かに流れ落ちた。
「……どうですか?」
私はそっと問いかける。
けれど、彼の顔に大きな変化は見えなかった。ただ、どこか、少しだけ表情が穏やかになった気がした。
「……ああ、そうだった。そうだったな……」
ぽつりと、彼がつぶやいたあと、一筋の涙が流れた。
「死んだ親友のマルセルと、約束してたんだ。もし生き残れたら、一緒に酒を飲んで、思いきり笑おうって。――楽しもうってさ。先に逝ったみんなの分まで、生きるって……」
アーサーの瞳が、ほんの少し柔らかくなる。その奥には、遠い日の笑い声と、かつて肩を並べた仲間たちの姿が、確かに揺れていた。
「……もし、マルセルたちが今の俺を見たら、怒ってただろうな。せっかく生きているのに、何やってるんだ、楽しめよってな」
「間違いないな。よし、アーサー、今日は俺が奢る。飲みに行こうぜ」
テオがそっと微笑むと、アーサーもわずかに笑みを返した。
町の飲み屋で、アーサーは大声で笑い、時に涙ぐみながら、懐かしい名前を口にしていた。笑い声と想い出が、夜の空気に滲んでいった。




