月の庭園で君と
序章:白銀の蕾
王立庭園の奥深く、誰も咲かせられない白銀の花があった。
王国の平和を象徴するその花——『月光花』。
何年も前から固く蕾を閉じ、王族の秘密の庭園に鎮座していた。
その世話を任されるのは、十七歳の見習い庭師、リリア・エルンスト。
かつては男爵家の末娘だったが、家は没落の危機に瀕し、王宮に奉公に出された。
魔力は僅か。派手な力はなく、植物の「痛み」を感じ、優しく「癒やす」ことしかできない。
貴族社会からすれば、それは無力に等しい存在だった。
「リリア。月の庭園は、王太子殿下の私的な場所だ。くれぐれも目を合わせるな。貴様のような者が誤解を招けば、エルンスト家ごと消し飛ぶぞ」
庭師長アントニウスの冷たい声が、春の朝日に溶ける。
リリアは知っていた。ここにいる自分は、家の体裁を保つための駒でしかない。
静かに役割をこなす——それだけが、唯一の生き延びる術だった。
だが、背後から柔らかな声が響いた瞬間、リリアの心臓は止まりそうになった。
「驚かせてしまったね、ごめん。その銀葉草、何か言いたがっているように見えたから」
振り返ると、金の髪と夜明けの空の色をした瞳を持つ青年——ルシアン・アストレイヤ王太子が立っていた。
「殿下、ごきげんよう。葉は、少しだけ、水を欲しがっていました」
リリアが膝をつくと、ルシアンは慌てて手を差し出した。
「いいんだ。ここでは形式なんていらない……まるで君が花と会話しているようだね」
その瞬間、リリアはわかった。
ここでは、ただの庭師見習いになれる——二人の秘密の交流が、静かに始まったのだ。
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第一章:身分と境界線
季節は春から夏へと移ろう。
ルシアンは政務の合間を縫い、庭園に現れるようになった。
濃紺の地味なシャツを身に纏い、石造りのベンチに腰を下ろすその姿は、王太子の威厳を忘れさせるほど自然だった。
「リリア。君の癒やしの魔力は、私にも影響するのか?」
突然の質問に、リリアはたじろぐ。
「滅相もございません。私の力は、枯れかけた植物にしか効果がありません」
ルシアンは苦笑した。
「そうか……だが、君と話すと、張り詰めていた義務が、少しだけ緩む気がする」
リリアは知っていた。
王太子には、隣国の姫との政略結婚という、逃れられない運命が待っている。
ディオーネ公女アリシア——美貌と冷徹な知性を兼ね備えた婚約者。
身分という鉄壁の壁は、二人を隔てていた。
ある日、庭園を出る直前、アントニウスが冷たい目を細めてリリアを呼び止めた。
「また、殿下と話していたな。余計な真似は家名に泥を塗る行為と心得よ」
背筋に冷たいものが走る。
この秘密の交流が露見すれば、王族も家族も危うくなる——リリアは強く頷くしかなかった。
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第二章:雨上がりのティータイム
夏、雨上がりの庭園。
ルシアンはリリアのために、王宮のパティシエが作った焼き菓子を用意した。
二人きりのひととき、身分も義務も忘れられる。
「リリアの紅茶は、どうしてこんなに優しいんだろう」
ルシアンはそっとリリアの指先に触れた。
その温もりに、リリアの心臓は恐ろしいほど跳ね上がる。
「この指先から、いつも暖かい光を感じる。君自身の優しさだろう」
雨上がりの光が、彼の瞳に反射してきらめく。
だが、現実は残酷だった。
「私の婚約者が、もうすぐ王都入りする。正式な顔合わせは来月、『月の宴』で婚約が発表される」
リリアの胸に、鈍い痛みが走る。
これが、二人の「終わりの始まり」——
その翌週、アリシア公女が庭園に現れた。
「貴女が、ここで働く下級貴族の娘?」
吐き捨てるような冷たい視線と声。
「殿下が、この花が開かないことを酷く気にしていると聞いたわ。開花させられなければ、貴女の不手際になる——わかっている?」
月光花の蕾を見つめるリリアの心は、恐怖と焦燥で揺れた。
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第三章:最後の賭け
月の宴まで、残り一週間。
リリアは寝食を忘れ、月光花の世話に没頭した。
しかし、蕾は一向に開く気配を見せない。
彼女の魔力は、植物の「心」を開く力。
蕾が開かぬのは——花自身が**「咲くことを拒絶している」**からだった。
古い書物を広げ、リリアは知る。
月光花が咲く条件はただ一つ——「真に心から願う者の、命を懸けた魔力」
命を懸ける……それは、リリア自身の存在証明でもあり、魔力を使い果たせば命も尽きるという、恐ろしくも唯一の希望だった。
その時、ルシアンが現れる。
いつもの穏やかさはなく、彼の目は激しい緊張を帯びていた。
「リリア。今夜、庭園に来たのは、これが最後になるかもしれない」
「……婚約の、儀が」
ルシアンは、もはや義務に耐えかねたように、リリアの肩を掴んだ。
その手は、王太子の威厳を捨て去った、一人の男の切実な熱を伝えていた。
「私は、君を愛している。アリシア公女ではない、君だ。だが、この場でこの言葉を君に伝えること自体が、どれほど君を危うくするか、私は知っている」
ルシアンは目を閉じ、苦痛に顔を歪ませた。
「私の我が儘で王国が傾き、民が苦しむ姿は見たくない。それでも、どうしても君に伝えたかった……」
リリアは胸を押さえ、目に涙を浮かべた。
(愛している——この言葉を、身分も命も顧みず、彼が私に投げつけてくれた……)
ルシアンはそっとリリアを抱きしめた。
その温もりにリリアは安心し、幸福に満たされる。
「殿下。わたくしの魔法は花を咲かせることしかできません。ですが、もしこの花が、殿下の未来を照らす光になれるのなら……わたくしは躊躇しません」
ルシアンが去った後、リリアは月光花の前に一人残った。
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第四章:月の宴の奇跡
月の宴の夜、王宮の広間は貴族で埋め尽くされる。
リリアは裏方として花壇を仕上げ、月光花の前に立つ。
アリシアは吐き捨てるような冷笑で言った。
「まだ蕾ね。貴女の無力の象徴よ」
リリアは恐怖ではなく、ルシアンの決意の強さを胸に、静かに立ち向かう。
小さく息をつき、かすかに声を震わせながら言った。
「どうか、開いて……」
王の合図と共に、ルシアンとアリシアが庭園の中央へ。
ルシアンは庭園の隅に立つリリアを、瞳で見つめている。
リリアは心の全てを注ぎ込み、命の限りの魔力を月光花に届けた。
硬く閉ざされていた月光花の蕾は、断末魔のような音を立てて開き始めた。
光は庭園全体を包み込み、周囲の花々を連鎖的に開花させ、夜空から降り注ぐ星々のような奇跡的な光で満たされた。
ルシアンはアリシアの手を振り払い、リリアのもとへ歩み寄る。
「この花を咲かせたのは、君の勇気と優しい魔法だ。この光は、王国の繁栄を意味すると同時に、私の魂の自由を意味する!」
ルシアンの瞳は、これまでにないほど熱く、真剣だった。
リリアは涙を浮かべ、光に包まれながらルシアンを見上げる。
「殿下……」
ルシアンはそっとリリアを抱きしめた。
二人の距離が近く、胸の高鳴りが静かに波打つ。
「身分を越え、全てを懸けて愛してくれた君を、もう手放せない」
リリアは満たされた幸福を胸に、光の中で花と共に息を整えた。
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終章:君と咲かせた未来
二人は夜の庭園で、そっと手を繋いでいた。
「君が私に教えてくれた。この庭園は、心で育てなければ、何も咲かないと」
ルシアンはリリアの頭をそっと自身の肩に寄せた。
「君の魔法は、義務という名の重圧を払ってくれた。私の命の恩人だよ」
リリアは微笑んだ。
彼女の指先が触れると、月光花の葉が喜びで微かに揺れた。
満月の光の下、二人が初めて咲かせた、あの金色と白銀の花びらが舞い散る。
月の庭園は、真実の愛と、小さな勇気が起こす奇跡を象徴する、王国で最も美しい場所となった。
そして、その庭園を愛と優しさで満たすのは、ルシアンとリリア、二人だけの永遠に続く約束だった。
この物語『月の庭園で君と』をお読みいただき、誠にありがとうございました。
義務や身分という厳しい現実に直面しながらも、小さな魔法と、ただ一人の相手を想う強い心によって、二人が運命を切り開く姿を描きたいと考えました。
もし、この作品があなたの心に少しでも温かい光を届けられたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。また次の物語で、お会いできることを楽しみにしています。




