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三蔵 7歳

同じ頃、都から遠く離れた山間の古い寺で、一人の子どもが重い水桶を運んでいた。


「玄奘!また水を零しているではないか」


厳しい声に、七歳の少年——玄奘は、慌てて頭を下げた。


「申し訳ございません」


小さな体には重すぎる水桶。しかし、寺の僧たちは容赦なく雑用を言いつける。玄奘は捨て子として寺に預けられた身の上だった。寺の慈悲で養われているのだから、感謝しなければならない。僧たちはそう言って、玄奘にさまざまな労働を課していた。


境内の掃除、薪運び、洗濯、炊事の手伝い。朝から晩まで働かされる玄奘の手は、年齢に似合わず傷だらけだった。


「捨て子のくせに生意気な」


「誰のおかげで食べていけると思っているのだ」


時には理不尽な理由で叱られ、平手打ちされることもある。玄奘はただ黙って耐えていた。捨てられる恐怖が、いつも心の奥底にあったからだ。


もし僧たちの機嫌を損ねたら。

もし役に立たない子だと思われたら。

また捨てられてしまうのではないか。


その恐怖が、玄奘を従順な「よい子」にしていた。


「はい」「申し訳ございません」「ありがとうございます」


玄奘の口から出るのは、いつもそんな言葉ばかりだった。自分の気持ちを言葉にすることは、許されていなかった。


そんな玄奘にも心の支えがあった。弥龍という十五歳の少年僧だった。


「玄奘、大丈夫か?」


ある日、重い経典を運んでいて転んでしまった玄奘に、弥龍が優しく声をかけた。膝を擦りむいた玄奘の傷を、弥龍は丁寧に手当てしてくれる。


「痛かったろう。よく我慢したな」


弥龍の温かい言葉に、玄奘の目に涙が浮かんだ。しかし、泣いてはいけない。弱い子だと思われてしまう。


「大丈夫です。弥龍お兄様」


玄奘は精一杯の笑顔を見せた。弥龍は玄奘の頭を優しく撫でる。


「無理をしなくてもいいんだよ、玄奘」


弥龍だけが、玄奘を一人の子供として扱ってくれた。他の僧たちが雑用係としか見ていない玄奘を、弥龍は大切にしてくれる。


夜、一人で経を読む練習をしていると、弥龍がやってきて教えてくれることもあった。


「ここの読み方はこうだ」


「この経の意味は...」


弥龍の優しい指導で、玄奘は少しずつ読み書きを覚えていった。


「玄奘は頭がいいな。きっと立派な僧侶になれる」


弥龍の言葉が、玄奘の唯一の希望だった。いつか弥龍お兄様のような立派な僧侶になれたら。そうすれば、もう捨てられることはないかもしれない。


しかし、その希望も儚いものだった。


「弥龍、お前を都の大寺に推薦することが決まった」


住職の言葉に、玄奘の心は凍りついた。弥龍が国師となるべく、都の寺へ移ることになったのだ。


「玄奘...」


弥龍は困ったような顔をしていた。玄奘を一人残していくことを申し訳なく思っているのが分かった。


「おめでとうございます、弥龍お兄様。僕は大丈夫です」


玄奘は精一杯の笑顔を作った。弥龍の足を引っ張ってはいけない。


弥龍が去った後、寺での玄奘の扱いはさらに厳しくなった。弥龍という庇護者を失った玄奘に、容赦はなかった。


それでも玄奘は耐え続けた。いつか弥龍お兄様に会えるその日まで。立派になった姿を見せられるその日まで。


ある夜、玄奘は一人で境内を掃除していた。空には満月が浮かんでいる。その月を見上げながら、玄奘は小さくつぶやいた。


「僕はちゃんとよい子にしています。だから...」


だから捨てないでください。


そんな言葉は、夜風に消えていった。


七歳の玄奘は、まだ知らなかった。遠く離れた里で、自分と同じ顔をした少女が、愛する人々に囲まれて幸せに暮らしていることを。そして、その少女こそが自分の双子の妹であることを。


月明かりの下で、玄奘は静かに掃除を続けていた。小さな影が、石畳の上で長く伸びていた。

月人はお寺に拾われ、なんとか生き延びました。しかし、その生活は安仁とは正反対の辛いものでした。施設で虐待にあった子供をイメージしています。(※多くの施設は適切な養育を行っており、特殊なケースです)弥龍という心の支えはあるものの、根本的な解決には至りません。

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