安仁 20歳 働き方改革
深夜、鬼の里の執務室には明かりが灯っていた。
安仁二十歳。一児の母であり、鬼の里の長でもある彼女は、山積みの書類と向き合っていた。
「安仁、まだここにいたのですか」
猪八戒が、心配そうに部屋に入ってきた。
「八戒か…やり残した仕事があってな」
安仁は、疲れた笑顔を見せた。
「これを片付けねば……」
だが、その顔色は悪く、目の下には深いクマができていた。
「安仁…」
翌朝、猪八戒は沙悟浄に相談した。
「悟浄、安仁のことが心配なんです」
猪八戒は、深刻な表情を見せた。
「安仁は、毎日早朝から深夜まで働いています。僕がいくら手伝っても、注意しても、休みも取らず、食事も十分に摂っていません。それに……」
猪八戒の声は、悲しげであった。
「星天との時間も、ほとんど取れていないのです」
星天――安仁と猪八戒の三歳の息子である。
猪八戒は、昨夜のことを思い出した。
寝室で、安仁が幼い星天の寝顔を見つめていた。幼い猪八戒に瓜二つの整った容姿に、混血とはいえ、鬼族の証である角が生えている。
「大きくなったのう……」
安仁の呟きは、喜びと共に、深い悲しみを含んでいた。
「儂は、この子の成長を見逃しておる……」
沙悟浄はため息をついた。
「安仁の悪い癖だ。あいつは里への思い入れが強すぎる。分かった、俺からも話をしよう」
しかし、安仁は頑として働き方を変えないまま、日々が過ぎていった。
数ヶ月後、三蔵と孫悟空が里へと戻ってきた。
「姉上、悟空殿!お待ちしておりました…」
姉妹は固く抱き合い、再会の涙を流した。
安仁は三蔵達の定住を心から喜んだ。
その夜は、盛大に歓迎の宴が催された。
弁論大会や唐の都での詳細、鬼の里の日常、話は尽きなかった。
星天は母そっくりの三蔵にすぐに懐き、三蔵も星天の可愛らしさに相好を崩した。
翌朝早く、三蔵は星天に起こされた。
「月人おばちゃん、おなかすいた」
「あれ、お母様は?」
「母上は、お仕事じゃ」
「こんなに早くから?」
三蔵は、星天に食事をさせたあと、星天の手を引いて執務室を覗いた。
安仁の姿に、三蔵は驚いた。
早朝から、次々と持ち込まれる案件。
移民の受け入れ、貿易の交渉、福祉政策の立案、紛争の調停――。
「安仁、これは……」
「おお、姉上、おはようございます。仕事がたまっておってな。星天、おば上に迷惑じゃろうが。乳母のところへ行きなさい」
安仁は、淡々と答えた。その姿に、三蔵は、病に冒されたかつての安仁を重ねていた。疲れがたまっているようだ。
その日、三蔵は星天と遊んでいた。
「母上はいつも、お仕事じゃ」
星天は、寂しそうに呟いた。
「儂、母上と遊びたい……」
安仁そっくりのその口調に、三蔵の胸が締め付けられた。
「安仁、話があります」
三蔵は、再び執務室を訪ねた。
「何じゃ、姉上」
安仁は書類に目を向けたまま答えた。
「あなたは、働きすぎています」
三蔵は、はっきりと言った。
「このままでは、体を壊します。それに……星天くんが寂しがっています」
安仁は目を上げた。その顔が、わずかに曇った。
「……分かっておる」
安仁は、小さく答えた。
「しかし、儂には責任がある。里の民を守る責任が」
「いいえ、安仁は長として無責任です」
三蔵の意外な言葉に、安仁は驚いた。
「あなたが倒れたら、誰が里を守るのですか。星天くんに、かつての安仁のような思いをさせるつもりですか?それに、長が働きすぎていては、家臣にも負担をかけます」
三蔵は正論でまくし立てた。なんといっても、天竺の弁論大会で優勝した腕前である。
「あ、姉上には儂の気持ちは分からん!儂は…」
安仁は何とか言い返そうとしたが、三蔵は怯まなかった。
「安仁…昔、宝石の祠に行った時、『里のためなら何でもする』と言いましたよね?あの言葉に偽りはありませんか」
「偽りなどない!じゃから、こうして儂は…」
「では、姉として命じます。安仁、『里のために』働き方を変えなさい」
三蔵は安仁をじろりと睨んだ。三蔵は、自分の身を省みない安仁に怒っている。普段温厚な分、それは凄まじい迫力であった。
「う、ううむ…」
「安仁、お前の負けだ。大人しく三蔵の言うことを聞くんだな」
孫悟空が苦笑しながら執務室に入ってきた。
「…分かった。姉上にはかなわんわい」
安仁は肩を落とした。三蔵は、安仁を抱きしめた。
「厳しいことを言ってごめんなさい。僕は、安仁が辛そうにしているのが辛いのです。僕達は、安仁が大好きなんです」
「姉上、分かったから…」
安仁は顔を赤らめた。安仁は、三蔵の真っ直ぐな愛情表現に弱いのである。
沙悟浄と猪八戒もやってきた。
「お見事です。三蔵様」
猪八戒は深く感謝し、頭を下げた。
「安仁、お前は有能だ。だからこそ、一人で全部やろうとする。でも、それは間違っている」
沙悟浄は、続けた。
「長の仕事は、全てを自分でやることじゃない。適切に仕事を分配し、組織全体で成果を出すことだ」
「しかし……」
安仁は、躊躇した。
「他の者に任せて、失敗したら……」
「失敗は起こります」
猪八戒が、優しく言った。
「しかし、それは学びの機会です。部下を信頼し、任せる。失敗したら、共に考え、次に活かす。それが、組織を強くするのです」
安仁は、深く考え込んだ。
「…どうすればよいのじゃ」
安仁が尋ねると、沙悟浄が答えた。
「まず、業務の棚卸しだ。どの仕事が本当に長がやるべきことで、どの仕事は他の者に任せられるか――それを整理する」
猪八戒が続けた。
「次に、優先順位をつけます。すべての仕事を同じように扱うのではなく、重要なものに集中する。そして、時間管理です。労働時間を決める。休憩時間を確保する。そして、家族との時間を必ず作る」
安仁は、決断した。
「分かった。やってみよう」
まず、業務を分類した。
長が直接関わるべき重要事項。
部下に任せられる日常業務。
そして、廃止できる無駄な仕事。
「これは……部下に任せる」
「こちらは……移民管理部門の責任者に委任じゃ」
「そして、この定例会議は……本当に必要なのか?」
見直しを進めるうちに、安仁は気づいた。
多くの仕事が、習慣でやっているだけで、本質的には不要だったことに。
「次に、労働時間を設定します」
猪八戒が提案した。
「朝は辰の刻(午前9時頃)から、夜は酉の刻(午後5時頃)まで」
「それ以外は、緊急時を除いて仕事をしない」
「しかし、それでは……」
「大丈夫です」
猪八戒は、微笑んだ。
「無駄を省き、効率を上げれば、十分にできます。それに、あなたが健康でいることの方が、里にとって重要なのです。そして、毎日、星天と過ごす時間を作りましょう。少なくとも、夕食は家族そろって。寝る前に、絵本を読んであげる。休日は、一緒に遊ぶ」
改革が始まった。最初の夕食の時間。
安仁は、星天と向かい合って座った。
「母上!」
星天が、嬉しそうに笑った。
安仁は、幼い息子に食事を取り分けた。
「星天、美味しいか?」
「美味しい!」
星天の無邪気な笑顔に、安仁の心が温かくなった。
こんな幸せな時間を、儂は見逃していたのか――。
夜、安仁は星天に絵本を読んだ。
「昔々、ある所に……」
安仁の優しい声に、星天は目を輝かせた。
「母上、面白い!」
「そうか、気に入ったか」
安仁は、息子の頭を撫でた。
絵本を読み終えると、星天は安仁に抱きついた。
「母上、大好き」
「儂も……儂も、お前が大好きじゃ」
安仁は、涙をこらえながら、息子を抱きしめた。
仕事を委任された部下たちも、成長し始めた。
「長様、この案件、このように処理しました」
「うむ、良くやった」
安仁は、部下の判断を信頼するようになった。
時には失敗もあった。しかし、共に学んだ。
「次は、こうしてみるのはどうじゃ?」
「はい、長様!」
組織全体が、活性化していった。
その夜、星天を寝かしつけた八戒は、安仁とともに川の字で添い寝をしながら、その寝顔を見つめていた。
「母上…父上…」
星天の可愛らしい寝言に思わず目を細める。親子三人の幸せな時間を堪能していた。その時である。
「八戒…星天を起こさぬように部屋を出るのじゃ」
安仁は小声で猪八戒に囁いた。
猪八戒は嫌な予感がした。
「安仁、まさか、今から仕事をするつもりですか?」
猪八戒は、忍び声で心配そうに訪ねる。
「…にぶい奴じゃの」
安仁は拗ねたような声で猪八戒の目を見つめた。
「星天は、弟が欲しいそうじゃ」
猪八戒は目を見開いた後、思い違いに気づいて慌てて頷き、二人はそっと抜け出した。
「…僕の部屋に行きましょう」
二人は、以前猪八戒が寝泊まりしていた部屋に入った。
「そういえば、八戒の部屋に入るのは初めてじゃのう」
安仁は初めての『彼氏の部屋』を興味深く見渡した。大きな書棚には様々な種類の本が並んでいる。その一角に、見覚えのある品々が大切に飾られてある。
落書きされた本、花冠、幼稚な仕掛け箱…そして、旅先で受けとった数々の手紙
「…こんなものを取ってあるのか」
「僕にとっては宝物ですから」
猪八戒は照れたように微笑んだ。
安仁は、改めて猪八戒の深い愛を実感した。
「心配をかけてすまなかった」
安仁は心から反省した。
そしてすぐに顔を上げ、例のいたずらな笑みで猪八戒を見つめた。
「お詫びに、今宵は格別にサービスしてやるのじゃ」
「サ、サービス?!」
安仁は、戸惑う猪八戒に構わず、上機嫌で「支度」を始めた。
その後、夜遅くなってから、二人は星天の元へと戻った。星天は、父と母の夢を見ながら、幸せそうに眠っていた。
「安仁、顔色が良くなりましたね」
数日後、元気そうな安仁の姿に、三蔵が微笑んだ。
「姉上のおかげじゃ」
安仁は、感謝の言葉を述べた。
「儂は、間違っておった。長として、すべてを自分で背負うことが責任だと思っていた」
安仁は、窓の外を見つめた。
「本当の責任は、自分も含めて、皆が幸せに働ける環境を作ることじゃった」
安仁の変化は、里全体に波及した。
改革が軌道に乗り始めた頃、安仁は猪八戒に重要な知らせを伝えた。
「八戒……儂、また子を授かったようじゃ」
猪八戒の顔が、喜びに輝いた。
「本当ですか!安仁!」
「うむ。まだ初期じゃが……」
安仁は、頬を染めながらお腹に手を当てた。
「今度は、ちゃんと向き合いたい。星天の時のように、仕事ばかりで妊娠期間を過ごしたくない」
「もちろんです」
猪八戒は、安仁の手を取った。
「今度は、僕も一緒に育てます」
翌日、猪八戒は三蔵と沙悟浄に相談した。
「実は、育児休暇を取得したいのです」
「育児休暇?」
三蔵は、初めて聞く言葉に首を傾げた。
「はい。子が生まれたら、しばらく仕事を休んで、育児に専念したいのです」
猪八戒は、真剣な表情で説明した。
「星天が生まれた時、僕は仕事を優先しました。安仁も忙しく、結局、乳母や使用人に頼ることが多かった」
沙悟浄が頷いた。
「子育ては、両親がすべきものだ。特に、生まれたばかりの頃は、親子の絆を築く大切な時期だ」
「でも、八戒先生は男性です」
三蔵が尋ねた。
「育児は、母親の役割では……」
「それは古い考えです、三蔵様」
猪八戒は、優しく訂正した。
「育児は、両親の役割です」
「母親だけに負担を押し付けるのは、不公平ですし、父親も子供と関わる機会を失います。それに、安仁は長としての仕事もあります。僕が育児を担うことで、安仁の負担を減らせます」
三蔵は、深く頷いた。
「確かに……その通りですね」
「では、育児休暇の制度を作りましょう」
三蔵が提案した。
「八戒先生だけでなく、里の全ての親が取得できるように」
沙悟浄が付け加えた。
「期間は、最低でも半年。できれば一年」
「その間の給与は?」
「全額保障する」
沙悟浄は、断言した。
「子育ては、社会全体の利益だ。里が支援すべきだ」
安仁も、この提案を喜んで受け入れた。
「素晴らしい制度じゃ。これで、皆が安心して子を育てられる」
出産予定日が近づくにつれ、猪八戒は準備を始めた。
仕事の引き継ぎ、育児の勉強、部屋の整備――。
「八戒、随分と張り切っておるのう」
安仁が微笑むと、猪八戒は真剣な顔で答えた。
「星天の時、僕は十分に父親の役割を果たせませんでした。今度こそ、ちゃんと育児に関わりたいのです」
「お前は、良い父親になるぞ」
安仁は、猪八戒に優しく口づけた。
「そして、儂も今度は、ちゃんと母親になる」
安仁は、無事に男児を出産した。
安仁によく似た、しかし角のない子であった。
「まるで姉上のようじゃのう」
安仁は、生まれたばかりの我が子を優しく見つめた。今や、角なしの忌み子に苦悩する時代ではなくなっていた。
「この子の名は、日天じゃ」
安仁は、幼い息子を抱きしめた。
猪八戒は、正式に育児休暇を取得した。
「では、一年間、よろしくお願いします」
部下たちに頭を下げる猪八戒。
「八戒殿、ご安心ください。私たちに任せてください」
「お子様との時間を、大切にしてください」
温かい言葉に、猪八戒は感謝した。
猪八戒は、育児に全力で取り組んだ。
夜泣きの対応、おむつの交換、授乳の補助――。
「八戒、疲れておらぬか?」
安仁が心配すると、猪八戒は微笑んだ。
「大変ですが、幸せです。日天の笑顔を見ると、すべての疲れが吹き飛びます」
星天も、父親が家にいることを喜んだ。
「父上、一緒に遊ぶのじゃ!」
「ああ、遊ぼう。でもまず、日天の面倒を見てからだ」
「儂も手伝う!」
もはや猪八戒は、かつての父との関係に苦しめられることはなかった。男が育児休暇を取り、妻と子どもに尽くす姿は、父や猪一族には受け入れがたいものだろう。しかし、猪八戒にとって、家族四人の時間は、何よりも大切であり、誇りとなった。
数ヶ月後、猪八戒の育児休暇が終わりに近づいた。
「安仁、この数ヶ月、本当に幸せでした」
「儂もじゃ」
安仁は、微笑んだ。
「お前が家にいてくれて、子どもたちも、とても嬉しそうじゃった」
「僕も学びました。育児がどれほど大変か、どれほど尊いか。これまで、安仁に任せきりだった自分を恥じています」
「いいや」
安仁は、猪八戒の手を取った。
「お主が育児休暇を取ってくれたおかげで、儂も救われた」
「一人で抱え込まず、共に育てる――それが、本当の家族なのじゃな。儂こそ、感謝しておる」
「これからも、よろしくお願いします」
猪八戒が優しく言った。
「うむ、これからも一緒に、子供たちを育てていこうぞ」
安仁は、力強く頷いた。
二人は、静かに抱き合った。
猪八戒の育児休暇は、里全体に影響を与えた。
「私も取得したいです」
「僕の妻が出産するので、休暇を申請します」
次々と、父親たちが育児休暇を取得するようになった。
そして、母親たちも安心して仕事に復帰できるようになったのであった。
「安仁の影響力はすごいですね」
三蔵は感嘆した。
――その安仁を変えたのはお前なんだがな。
孫悟空は、無自覚な三蔵に苦笑した。
「そうだな。もし、俺たちに子供が生まれたら、俺も育児休暇を取りたい。お前と二人で子供を育てようと思う」
三蔵は顔を赤くした。
「そうですね。僕も、家族の時間を大切にしたいです」
二人は手を取り合い、未来に思いをはせた。
タイムリーに、初の女性総裁が誕生しましたね。
女性の社会進出と、ワークライフバランスは教育界でも注目されています。




