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天才児 沙悟浄

河童の里は、清流のほとりに広がる学問の都。図書館には古今東西の書物が収められ、幼い河童たちは文字に親しみ、数を数え、星の動きを学んだ。知性を尊ぶ一族にとって、学びは呼吸と同じくらい自然なものだった。


その里でも、沙悟浄は異質な存在だった。


五歳の沙悟浄は、すでに同世代の子供たちが十歳になっても読めないような書物を理解していた。水の流れを見れば天候を予測し、石ころの配置から数学的な美しさを見出し、大人たちの会話から政治の矛盾を指摘した。


「ねえ、沙悟浄。一緒に川で遊ぼうよ」


同い年の河童の子供が誘いにくる。だが、沙悟浄は書物から目を上げることなく答えた。


「今、面白いところなんだ。この古代文字の解読法なんだけど、従来の学説には三つの論理的な矛盾があって……」


「あ、うん……また今度ね」


子供は困ったような笑みを浮かべて去っていく。沙悟浄は首を傾げた。なぜ古代文字より川遊びの方が楽しいのか、まったく理解できなかった。


沙悟浄の孤立は、彼の正論癖によってさらに深まった。


「先生、その計算方法は効率が悪いです。僕が考えた方法なら三分の一の時間で済みます」


「お母さん、その料理法は栄養素を損なうよ。文献によれば……」


「その遊びのルール、矛盾してるよね。こうした方が論理的に正しいよ」


沙悟浄に悪気はなかった。ただ、間違いは正すべきだと思っていた。より良い方法があるなら、それを提案するのは当然だと考えていた。


しかし、周囲の反応は冷たかった。


「あいつ、いつも偉そうに」


「自分が一番賢いと思ってるんだ」


「一緒にいると疲れる」


ひそひそと交わされる声。向けられる冷たい視線。沙悟浄は次第に、自分が何か悪いことをしているのだと気づき始めた。でも、何が悪いのかがわからない。


正しいことを言って、なぜ嫌われるのか。


その答えを見つけられないまま、沙悟浄は人の目を恐れるようになった。


八歳を過ぎた頃、沙悟浄は家から出なくなった。


部屋に籠もり、書物だけを友として過ごす日々。両親が心配して声をかけても、「大丈夫」としか答えない。食事も部屋に運んでもらい、最低限の会話しかしなくなった。


書物の中では、沙悟浄は自由だった。論理は裏切らない。知識は傷つけない。ページをめくるたびに新しい世界が開け、誰にも邪魔されずに思考を深められる。


だが、両親の不安は募る一方だった。


「このままではいけない」


父と母は何日も話し合った。そして、一つの決断を下した。


「沙悟浄、お前を寮に入れることにした」


十歳になったばかりの沙悟浄に、父が告げた。


「でも、同い年の子たちとは……」


「青年クラスだ。十四歳から十八歳の者たちが学ぶ、最高峰の学舎だよ」


沙悟浄の目が輝いた。同世代とは話が合わなかったが、年上の、本当に学問を究めている者たちとなら……。


「そこなら、お前と同じように学問を愛する者たちがいる。きっと、友達ができるよ」


両親の期待を込めた言葉。沙悟浄は小さく頷いた。


心のどこかで、不安がよぎる。でも、ひきこもっているよりはましだと思った。


最初の一週間は、まるで夢のようだった。


高度な数学、複雑な天文学、古代の哲学――沙悟浄が渇望していた知識が、惜しみなく注がれる。難解な問いにも即座に答え、教師たちを驚かせた。


「十歳とは思えない理解力だ」


「将来は里の長老になれるかもしれないぞ」


称賛の声。沙悟浄は初めて、自分が認められたと感じた。


だが、それは長くは続かなかった。


「またあいつが一番か」


「教師たちはあいつばかり褒める」


「十歳のくせに生意気だ」


年上の青年たちの間に、暗い感情が渦巻き始めた。


最初は小さな嫌がらせだった。沙悟浄の教科書に水をこぼす。寝ている間に持ち物を隠す。わざとぶつかって謝らない。


沙悟浄は気づかないふりをした。学問に集中していれば、いつか認めてもらえると信じていた。


しかし、いじめはエスカレートしていった。


「おい、天才くん。この問題、解いてみろよ」


数人の青年に囲まれ、沙悟浄は無理難題を押し付けられる。解けなければ笑われ、解ければ「教師に媚びを売るために予習してたんだろう」と罵られる。


食事の時間には、誰も隣に座らない。座ろうとすると、「ここは空いてない」と拒絶される。


夜、寝床に戻ると、布団が水浸しになっている。訴えようとしても、「自分でこぼしたんだろう」と誰も信じてくれない。


「お前みたいな奴、いなくなればいいのに」


ある日、直接そう言われた。


沙悟浄は何も言い返せなかった。なぜなら、自分でもそう思い始めていたからだ。


自分はどこにも必要とされていない――。


十二歳になった沙悟浄は、ある満月の夜、寮を抜け出した。


行く当てもない。ただ、ここにはいられなかった。家に帰ることもできない。両親の期待を裏切ることになる。


月明かりの下、小さな影が川沿いをさまよう。


一日、二日、三日――。


木の実を食べ、川の水を飲み、ただ歩き続けた。もう何も考えたくなかった。知識も、論理も、何の役にも立たなかった。


四日目の夕暮れ、沙悟浄の足は止まった。


意識が遠のく。空腹と疲労で、体が限界を迎えていた。


「……ここで、終わりか」


目を覚ますと、見知らぬ天井があった。


「気がついたか、坊主」


優しい声。鬼の姿をした老婆が、沙悟浄を覗き込んでいた。


「ここは……」


「鬼の隠れ里だよ。お前さん、川辺で倒れてたところを、うちの者が拾ってきたんだ」


鬼――河童の里では、遅れた存在として語られることが多い種族。だが、老婆の目には優しさがあった。


「家はどこだい?」


「……ない」


沙悟浄は目を伏せた。


老婆はしばらく沙悟浄を見つめた後、穏やかに微笑んだ。


「そうかい。なら、しばらくここにいるといい。元気になるまで、うちで面倒見るよ」


老婆――おばあと呼ぶように言われた――の家で、沙悟浄は静かに暮らし始めた。


最初は警戒していた。また嫌われるのではないか。また居場所を失うのではないか。


だが、おばあは違った。


「沙悟浄、この薬草の効能を教えてくれるかい?」


「ああ、それは……」沙悟浄が説明を始めると、おばあは目を輝かせた。


「なんと!そんな使い方があるのかい!賢い子だねえ」


称賛の言葉。だが、それだけではなかった。


「じゃあ、これはどうだい?」


おばあは次々と質問をする。沙悟浄が答えると、「すごいねえ」と褒めながらも、「でもね、この里ではこう使うんだよ」と実用的な知恵を教えてくれる。


沙悟浄の知識が、押し付けではなく、対話として受け入れられる。


初めて、誰かと「話す」ことができた気がした。


おばあの口から、沙悟浄の才能が里中に広まった。


「川で拾った河童の子がね、とんでもなく賢いんだよ」


最初は半信半疑だった里の者たちも、沙悟浄と話すうちに驚嘆するようになった。


「この建築法、もっと効率的にできますよ」


「その農作物の育て方、文献によれば……」


河童の里では嫌われた正論が、鬼の里では歓迎された。


「なるほど!さすがだな」


「そのやり方、使わせてもらうぜ」


里の者たちは、沙悟浄の意見を実際に試し、うまくいけば感謝し、うまくいかなければ「まあ、そういうこともあるさ」と笑い飛ばした。


沙悟浄は戸惑った。なぜ、ここでは受け入れられるのだろう。


ある日、おばあが沙悟浄に伝えた。

「実はね、長がお前さんに会いたいと言ってるんだ」


「長……?」


「ああ、この里の長だよ。優しくて賢い方でね」


長の屋敷に案内されると、そこには気品のある女性がいた。穏やかな微笑みを浮かべ、幼い娘を膝に抱いている。


「ようこそ、沙悟浄。儂がこの里の長じゃ」


長の隣には、自分と同じ年頃の見目麗しい少年が控えている。猪八戒と名乗った。


そして、長の膝には五歳ほどの少女が座っていた。額に小さな角を生やし、大きな瞳でこちらを見ている。


「こちらが儂の娘、安仁じゃ」


「……」


安仁は黙って沙悟浄を見つめている。


長は沙悟浄に優しく微笑みかけた。


「噂は聞いておるぞ。河童の里から来たそうじゃな。お主はとても賢いと」


「……はい」


「お主と少し話をしたい。のう沙悟浄、この里の財政について、どう思うかの?」


突然の質問に、沙悟浄は戸惑った。だが、この数ヶ月で観察した里の様子を思い出し、答え始めた。


「収入源が限られているように思います。もっと交易を活発にすれば……」


長は静かに頷きながら聞いている。


「それから、資源の配分にも改善の余地があります。具体的には……」


沙悟浄の論理的な説明を、長は真剣な表情で聞いていた。


そして、満足そうに微笑んだ。


「素晴らしいのう。やはり、お主は本物の天才じゃ」


「え……」


「沙悟浄、お主に頼みがある。この子、安仁の遊び相手になってくれぬか?」


長は膝の上の安仁を見つめた。


「同時に、護衛と教師も兼ねていただきたい。猪八戒と共に、この子を守り、育ててほしいのじゃ」


「でも、僕は……」


「お主の知性は、この里の宝。そして、安仁にとっても、きっと良い影響を与えてくれるじゃろう」


長の言葉に、沙悟浄の心が震えた。


宝――自分が、誰かの宝になれる?


「お願いじゃ。この里で、安仁と共に生きておくれ」


長の真摯な眼差し。そして、安仁の好奇心に満ちた瞳。


沙悟浄は、ゆっくりと頷いた。


「……はい」


その日から、沙悟浄は安仁の側で過ごすようになった。


最初は戸惑った。五歳の子供の遊び相手など、どうすればいいのか。


だが、安仁は普通の五歳児ではなかった。


「沙悟浄、これはどうじゃ?」


ある日、安仁がいたずらっぽく笑いながら、複雑な仕掛けを見せてきた。


「これは……トラップ?」


「そうじゃ!八戒が儂に勉強を強要するから、懲らしめてやろうと思うてな」


「でも、これだと猪八戒さんが怪我をしますよ」


「うむ、それは困るのう。どうすればよいと思う?」


安仁は真剣な表情で尋ねてくる。


沙悟浄は考えた。そして、提案した。


「こことここを変えれば、怪我はしないけど驚かせることはできます」


「ほう!さすがじゃ!」


安仁の目が輝いた。


それから、二人はトラップの改良に没頭した。沙悟浄の知識が、安仁のいたずらに活用される。


結果、見事に猪八戒は引っかかり――水をかぶって、教科書をびしょ濡れにした。


「安仁様!沙悟浄殿!これは一体……!」


怒る猪八戒を見て、安仁と沙悟浄は顔を見合わせて笑った。


「ふふふ、成功じゃな」


「うん、計算通りだ」


沙悟浄は思った。


――これが、遊ぶということか。


知識を使って、誰かを傷つけるのではなく、誰かと笑い合う。


初めて知った、温かい感覚。


それからの日々は、沙悟浄にとって驚きの連続だった。


安仁は頭の回転がすこぶる早い。そして、その聡明さをすべて遊びにつぎ込んでしまう。安仁は沙悟浄がもたらす知識をフル活用した。


「この植物の性質を使えば、もっと面白い遊びができるのではないか?」


「沙悟浄の話を聞いていたら、雨を降らせる術の改良方法を思いついたぞ」


安仁の言葉に、沙悟浄の心が満たされていく。


そして何より――安仁は沙悟浄の正論を嫌がらなかった。


「安仁、その計画には問題があるんじゃないか?」


「ほう、どこじゃ?」


「ここをこうすれば、もっと効率的だろ」


「なるほど!さすが沙悟浄じゃ!」


対等な関係。互いを認め合う信頼。


猪八戒も、最初こそ沙悟浄を警戒していたが、次第に打ち解けていった。


「悟浄の知識には、いつも驚かされます」


「八戒の語学力はすさまじいな!」


三人で過ごす時間が、沙悟浄にとって何よりも大切なものになっていった。


ある日、長が沙悟浄を呼んだ。


「沙悟浄、お主は安仁にとって、かけがえのない存在になっておる」


「恐れ多いです」


「いや。お主の知性、お主自身が、この里の宝じゃ。どうか、これからも安仁を――この里を、支えてほしい」

長は、咳き込みながら話した。病による体調不良が進んでいるようだった。


長の言葉に、沙悟浄は深く頭を下げた。


満月の夜、沙悟浄と安仁は里を見下ろす丘に座っていた。


「沙悟浄」


「うん?」


「お主がこの里に来てくれて、儂は嬉しいぞ」


安仁の素直な言葉。


「俺も……ここに来られて良かった」


沙悟浄は心からの笑顔を見せた。


河童の里では理解されなかった才能が、鬼の里では宝として扱われる。


嫌われ者だった少年が、なくてはならない存在になった。


そして何より――初めて、本当の友を得た。


「ずっと、儂の側にいてくれるか?」


「……ああ。ずっと」


風が吹き、二人の髪を揺らした。


鬼の里の夜は、穏やかで温かかった。


そして、迷子の少年は、ようやく帰る場所を見つけたのだった。


友と共に笑い、学び、成長する日々――。


それは、沙悟浄が長い間求め続けていた、本当の居場所だった。

沙悟浄は、発達障害でギフテッドの子供のイメージです。環境を変えるのも、一つの手です。

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