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安仁と教育相談

 安仁アンジンは臨月を迎えていた。

 大きなお腹を抱えながら、出産に備えて執務の引き継ぎを行う日々を送っていた。


 ある日、猪八戒から報告が届いた。

 報告書とは別に、私的な手紙が同封されている。その手紙は、身重の安仁を気遣う言葉から始まっていた。


『先日、ある村で自傷行為をする子供に出会いました』


 手紙には、シュンという少年と、沙悟浄の過去、三蔵の関わりが記されていた。


「さすがは姉上じゃのう。しかし、あの悟浄にそんなつらい過去があったとは…」


 安仁は遠く離れた親友を思い、心を痛めながら読み進めた。


『安仁、僕は父親になることが嬉しい。しかし、同じくらい恐ろしいのです』


 安仁は息を呑んだ。


 猪八戒は、安仁に出会うまでの父との生活について明らかにした。


 そこには、今まで決して語られることのなかった、猪八戒の過去が綴られていた。

 猪一族の男子が経験する、壮絶な幼少期。八戒が語学に長けている理由。


『安仁、あなたは長や里の皆さんに愛され、仲間に恵まれた。きっと愛情深い母になることでしょう。

 しかし、僕の中には父の血が流れている。僕も、いつか子供を殴ってしまうのではないか』


『春くんを見て、悟浄の話を聞いて、三蔵様や悟空殿の優しさに触れて、僕は考え続けています。どうすれば、良き父親になれるのか』


『出産間近のあなたを不安にさせるようなことをお伝えしてしまい、申し訳ありません。しかし、安仁と僕、そしてお腹の子どもの未来のため、自分の中の父と向き合い、あなたと気持ちを分かち合いたかったのです。』


 安仁は、手紙を読み終えた後も涙で頬を濡らし続けていた。

 猪八戒も、沙悟浄も、自分と同じように愛されて育ったものだと疑わなかった。いつも穏やかで優しい彼らに、そんな過去があったなんて。


 三蔵も、生まれてすぐに捨てられ、寺では冷遇されていたという。


 ーー儂は、なんと恵まれていたのだろう。

 母や里の民の愛情、沙悟浄と猪八戒の優しさ。

 それは当たり前ではなかったのだ。


 世の中には、苦しむ子供がいる。居場所を失う子供がいる。暴力を受ける子供がいる。


「儂は…何も知らなかったのじゃな」


 執務室の扉を叩く音がした。龍族の移民で教育者の、名をエイと言った。

 何人もの子供を育て上げた老女である。

 最近鬼の里に住みはじめた彼女は、学校教育の整備に携わっていた。今日は安仁による諮問のために呼び寄せていたのである。


「長、お加減はいかがですか?」


 英は穏やかに言った。


「英殿…少し、相談に乗ってくれぬか」


 安仁は猪八戒の手紙を英に渡した。英は静かに読み進め、深いため息をついた。


「婿殿は、お辛い経験をされたのですね」


「英殿、こういった子供はよくいるのじゃろうか?」


「残念ながら、珍しくありません。虐待、いじめ、発達の特性で理解されない子供。皆、声を上げられず苦しんでいます」


「何か、対策は?」


「あります」


 英は説明を始めた。


「学校に専門家を配置するのです。一つは心の専門家ーースクールカウンセラー。子供の悩みに耳を傾けます。もう一つは環境を整える専門家ーースクールソーシャルワーカー。子供を取り巻く環境全体を見て、福祉や行政と連携して支援します」


「心の専門家と、環境を整える専門家…」


「ええ。両者が教師と連携して、子供を多方面から支えます。教師は日々子供と接していますから、変化に気づきやすい。チームで子供を守るのです」


「しかし、学校に来られない子供、学校を信頼できない子供もおるじゃろう」


 安仁は猪八戒や沙悟浄の幼少期に思いをはせながら問うた。


「その通りです。ですから、学校とは独立した相談機関も必要です。子供が一人でも訪れることができ、秘密が守られる場所がーー児童相談所などがそうです。そして、その機関も、学校や医療機関、行政と連携する。網の目のように子供を見守る仕組みが必要なのです」


 安仁は目を上げた。


「英殿、この里に、子供を守る仕組みを作りたいのじゃ。儂の子に、そして里の全ての子供たちに、幸せに育ってほしい」


 安仁と英は、まず現状把握から始めた。里の学校で教師や保護者、子供たちから丁寧に聞き取りを行った。


 結果は、安仁の予想を超えるものだった。


 いじめを受けている子供。家庭で暴力を受けている疑いのある子供。発達の特性で学校生活に困難を抱えている子供。不登校の子供。親の介護を担っている子供…。


「こんなにも…儂は里を守っているつもりだったが…」


 安仁は沈んだ声でつぶやいた。


「長、あなたのせいではありません。」


 英は優しく声をかけた。


「長自身、幼い頃から病を抱えながら政務に明け暮れていたと聞きます」


 安仁は虚をつかれた思いがした。


「儂か?いや、儂は…」


「子供の問題は見えにくいのです。本人すら自覚していないこともあります。だから、大人が気づく仕組みが必要なのです」


 安仁は里の有力者を集めて会議を開いた。


「儂は、この里の子供たちを守る新しい仕組みを作りたい。皆に協力してほしいのじゃ」


 調査結果を説明した。会議室は重い沈黙に包まれた。


「我々の里にも、そんな子供たちが…」


「うむ。しかし、今知った。だから、今から行動するのじゃ」


 安仁は具体的な提案を述べた。


「まず、学校に専門家を配置する。心の専門家と、環境を整える専門家じゃ。そして、学校とは独立した相談機関も作る。さらに、教師向けの研修も行う」


「長、それには費用が…」


「わかっておる。だが、子供は里の未来。これは、里の未来への投資なのじゃ」


 次々と、賛成の声が上がった。


 その後、学校内外の相談先には、徐々に子供が訪れるようになっていた。


「聞いてほしいことがあるんです」


 一人の少女が訪ねてきた。友達からのいじめ。誰にも言えなかった孤独。


「よく話してくれたわね。あなたは一人じゃない。私たちが、あなたを守るから」


 環境を整える専門家と連携し、学校全体でいじめに対処する体制を作った。少女の表情は、少しずつ明るくなっていった。


 また、里に設置された子供相談所「虹の家」にも、子供が訪れるようになった。


 家での暴力。誰にも言えなかった恐怖。相談員は話を聞き、行政と連携し、子供を保護する手続きを進めた。


 ある夜、英が安仁への報告にやってきた。

「長、子供相談は順調に機能しています」


「ああ。英殿のおかげじゃ」


「長をはじめ、皆の協力のおかげです。教師も、保護者も、地域の人々も…皆が子供を守ろうとしている」


 英は目を細めた。


「この子が大きくなる頃には、もっと良い里になっておるじゃろうな」


「ええ。受けた優しさは、次の世代へと受け継がれていくのです…長?」


 英は、安仁の様子がおかしいことに気づいた。


「は、腹が…いたた…」


「もしや、陣痛ではありませんか?人を呼びます」


 数刻後、安仁は産屋に入った。気の遠くなりそうな痛みの中、旅の途中の夫を思った。


 ーー大丈夫じゃ、八戒。儂らとこの子には里の皆がついている。


 新たな命の誕生を、月が優しく見守っていた。

三蔵一行と安仁のつながりから、里の教育相談体制が整えられていきます。私は、子育ては地域全体で行うものだと考えます。家庭や学校の閉じられた空間だけでは、子ども達の行き場がなくなってしまいます。犯人探しに終始せず、構造的な問題に目を向けることが、子ども達の命を守ることにつながるのではないかと思っています。

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