猪八戒の苦悩
旅の途中、三蔵一行はある村で一夜の宿を求めた。
その夜、隣家から女性の苦しそうな声が聞こえてきた。
「誰か!助けて!」
「妊婦が産気づいたようです」
猪八戒が状況を確認して戻ってきた。
「しかし、まだ産婆が到着していないとのこと」
「僕が手伝います」
三蔵が立ち上がった。
旅の中で、三蔵はいくつかの出産に立ち会った経験があった。
三蔵たちが駆けつけると、妊婦は激しい陣痛に耐えていた。
「大丈夫です。深く息をして」
三蔵が優しく励ました。
男たちは、湯を沸かしたり清潔な布を準備したりと、懸命に補助した。
まもなくして、赤ん坊の泣き声が響いた。
「元気な男の子ですよ」
三蔵が、赤ん坊を取り上げた。
出先から急いで戻ってきた夫が、家に飛び込んできた。
「妻は!子は!」
「ご安心ください。母子共に無事です」
三蔵が、清められた赤ん坊を父親に見せた。
「……息子だ。俺の息子だ」
男は、涙を流しながら赤ん坊を抱きしめた。
「ありがとう、ありがとう。お前が生まれてきてくれて、本当に嬉しい」
父親の喜びに満ちた表情。
赤ん坊への優しい眼差し。
その感動的な光景を見ていた猪八戒の顔色が、徐々に青ざめていった。
手が震え、額に冷や汗が浮かんでいた。
「八戒先生、どうされました?」
三蔵が心配そうに声をかけた。
「い、いえ……少し外の空気を」
猪八戒は、ふらふらと外に出ていった。
外で、猪八戒は震える手を見つめていた。
脳裏に、父親の姿が浮かんでいた。
自分を殴る拳。
容赦ない暴力。
「ナニ、シテル!ダメ、ダメ!」
父の怒声が、耳に蘇る。
「僕も……あんな風に望まれて生まれてきたのだろうか」
猪八戒は、自問した。
沙悟浄が、猪八戒のもとにやってきた。
「八戒、大丈夫か」
「……悟浄」
「顔色が悪い。何があった」
沙悟浄の率直な問いかけに、猪八戒は堰を切ったように話し始めた。
「僕は……父親になることが、怖いのです。僕の父のようになってしまうのではないかと」
猪八戒の声が震えた。
「殴り、蹴り、罵った」
「そして最後には、捨てた」
「しかし、それこそが猪一族の伝統的な子育てのあり方。そして僕も、その血を受け継いでいるのです」
沙悟浄は、静かに聞いていた。
「猪八戒、お前は気づいているか」
沙悟浄が言った。
「お前は父親を恐れている。それは、お前が父親とは違うということだ」
「え……?」
「お前の父親は、自分の行動を疑わなかった。
だが、お前は違う。自分が同じことをしてしまうのではないかと、恐れている。その恐れこそが、お前と父親を分ける境界線だ」
「…虐待の連鎖、という言葉があります。虐待を受けた者の約3割が、子を虐待するという」
うなだれる猪八戒に、沙悟浄は力強く言った。
「逆に言えば、7割は虐待しない。多くの者が、連鎖を断ち切っている。
お前の父は一人でお前を育てていた。しかし、お前には、俺たちがいる。安仁もいる」
猪八戒は、少し表情が和らいだ。
「そうですね……安仁や皆に、正直に話すべきでした」
沙悟浄が言った。
「八戒、お前の父親を許せとは言わない。しかし、自分まで責める必要はない」
「…ありがとう、悟浄」
翌朝、猪八戒は村の新しい父親を訪ねた。
「昨夜は、本当にありがとうございました」
男は、深く頭を下げた。
「あの……お尋ねしたいことがあるのですが」
猪八戒が、遠慮がちに言った。
「お子様が生まれて、どんな気持ちでしたか」
「どんな気持ち……?」
男は、少し考えてから答えた。
「嬉しかったです。この上なく。でも、同時に怖くもありました。ちゃんと育てられるだろうか、って」
「私も、もうすぐ父親になります」
猪八戒が告白した。
「でも、不安で……正直、怖いのです」
「それは誰でもそうですよ」
男は、親しみを込めて言った。
「私の父も、同じことを言っていました。父親なんて、みんな最初は不安なんだそうです。でも、子と一緒に成長していけばいい、と。
大切なのは、愛情を持つこと。それさえあれば、多少の失敗は大丈夫だ、と父は言っていました」
猪八戒は、目頭が熱くなった。
宿に戻ると三人が、猪八戒を待っていた。
「皆さん、ありがとうございました。おかげで、少し前向きになれました」
「俺たちは仲間だ」
孫悟空が笑った。
「困った時は、いつでも相談しろ」
「はい」
猪八戒は、決意を込めて言った。
「私は、父とは違う道を歩みます。そして、もし間違えそうになったら、必ず皆さんに相談します」
猪八戒は、虐待の連鎖を断ち切ろうとしている。
愛情と支援があれば、過去は乗り越えられる。
そのことを、身をもって証明しようとしていた。
虐待が疑われると保護者が一方的に非難されがちですが、保護者もまた子育てに苦しんでいることもあります。虐待は社会全体の責任ととらえ、保護者も含めた支援が必要です。




