虹の石と宝石の海
水底のネオンサインと同じ世界の物語ですが、独立した内容になっているので、単独でお読み頂けます。
町外れの鉱物標本店石榴屋は、品揃えと店主の偏り具合で有名だ。
自宅の蔵を改装した店内には、子供の背丈程度のキャビネットがずらりと並び、中には店主自ら買い求めた国内外の珍しい鉱物がぎっしりと詰まっている。
仕入れの時々によって商品に偏りが出るのは致し方ないことだが、全ての引き出しが水晶やベリルやトルマリンといった、色ガラスのような石で輝く時もあれば、ぎゅうぎゅうに押し込まれたオパールや長石類の虹色で、眩暈を起こしそうなこともある。
見る者が見れば度肝を抜くような高価な宝石の原石が入っていたりもするので、成程店主は宝石になる鉱物が好きなのかと思われがちだが、色んな鉱物と複雑に共生する水晶のクラスターとか、厳つい母岩に鮮やかに群生する蛍石など、素人目にも楽しい鉱物標本の見本のような石や、ドロドロに溶けた結晶が再び固まったとか、ボコボコに開いた穴に別の鉱物が入り込んだとかいった奇妙に魅力的な石から、時には南国の貝殻なんかも入っていたりする。
そしてそれらは他では入手困難な希少品だったりするものだから、あっという間に売れていく。年中お値打ち価格というのも良い点だ。キャビネットのラベルが鉱物名のみな所も、鉱物愛好家の心をくすぐってくれる。
そんな店だから遠方から訪れる客も多くあって、立地の割りになかなかの盛況振り、ご近所でも有名だ。
そして、高価な品を扱う分、客もそれなりに選ぶのが石榴屋である。
中学生以下の入店はお断りします。石榴屋
店先の置き看板に、そうはっきりと書かれているのだが……。
「あのねえ、ダメなものはダメだって、何度言ったら――、ああ、うん、そうかい。分かる気がないのは分かったよ。
遠くから家族で買い物にきたってのに、子供を店に入れるなって、どういうことだと怒鳴られても、こっちも商売だ。壊れやすい貴重品を扱ってる店内でぎゃーぎゃー走り回られちゃあ困るんだよ。いつまでも難癖つけるってなら、あんたらはもう客じゃない、ただの営業妨害だ。帰っとくれ。グズグズしてると、出るとこ出るよ。
脅しでこんなこと言わないさ。実際、君らのような屁理屈屋はこれが初めてじゃない。安心しなよ、お仲間は多いさ。
ああ、そうとも、二度と来ないでくれ。鉱物を扱う店はごまんとある。選ぶ権利は君らにある。さあ、行った行った」
しっしっと、犬を追い払うように子連れ一家を追い払った石榴屋店主は、やれやれと嘆息して振り返った。
店主と客とのやりとりを、見るともなく見ていた僕と目が合うと、店主はいつも通りの能面で、
「やあ、君、騒がせてしまったね。だが面倒は終わったよ。まあ、ゆっくり見ていってくれ」
店主は何事もなかったように帳場に戻ると、再び石磨きの作業に戻った。
僕はと言うと、曖昧に頷き返しはしたが、何となく居心地が悪くなって、開けっぱなしにしていた引き出しに視線を戻した。
引き出しの中身は、白茶けた地色に黒い草模様のしのぶ石が、陶器の欠片のように並んでいる。その中に、地色に朱が入った小石を見つけて、どうしようかと悩んでいる最中だったのだ。
僕が持つトレーには、キャビネットを散々開け閉めして探した鉱物が三個ばかりのっている。琥珀色を内包する煙水晶のポイントと、ミント色の天河石の欠片、それに深紅のごま粒模様が入った川磨きの白い丸石だ。
石榴屋の顧客には博物館の学芸員や宝飾店のバイヤーなんかもいて、客単価は高いと人伝に聞いたことがある。
実際、身なりの良い大人が、昇降ハンドル付きの買い物ワゴンを引き連れて、引き出しの中を覗き込んでいる姿はよく見かける。天板のトレーに六角柱の大きな結晶を慎重に乗せているのを、横目に感嘆しながら眺めたものだ。
それに比べると僕の買い物は随分と質素だ。だがそれでも、トレーにのっている品だけで、僕の一ヶ月分の小遣いは簡単に消し飛ぶ。余裕を持たせて多く持ってきたので、ギリギリ買えるには買えるが、そうすると今月が厳しくなる。今は月初、買い控えるのが無難だ。
だが、この店は商品の回転が驚くほど早い。次に来た時に、同じ物が残っていた試しなんてない。運良く余所で同じような石を見つけたとしても、ここの三倍は軽くする。
僕は頭を抱えたくなった。鉱物好きが、ふらりと立ち寄るには、この店は毒だ。だから三ヶ月ほどやりくりして、ある程度お金を溜めてからようやく店へやって来たというのに。
(諦めるか)
僕はひっそりと息を吐いた。予算オーバーでもやもやしているうちに、嫌な客と巡り合わせて、何となく気分も悪い。
だがそれ以上に、それほど遠くない昔、さっきの客と同じように、遊び仲間と一緒に難癖つけて、店の奥へと入り込もうとした時の記憶が蘇り、悶々としてしまったのだ。
苦く惨めな思い出を作ったのは、中学生になって、初めての夏のことだった。
◆
小さい頃から、綺麗な石を拾い集めるのが好きだった。
鉱物好きだった祖父の影響だろう、天気の良い日は、日がな一日、祖父と一緒に、近所の河原で石集めに没頭した。
そしてその帰り道には、決まって石榴屋へ立ち寄ることになっていた。
子供の頃は、それが何よりの楽しみだった。
石榴屋の店内は、二十畳程度の広さで土間と上がりに分かれている。年齢制限があるのは実は上がりだけで、土間は誰でも入る事が出来るようになっていた。
土間には、格子に仕切られた大きな木箱が斜めに置いてあり、色とりどりの小さな磨き石がぎっしりと詰まっていた。
磨き石はどれもせいぜい百円ぐらいだったので、子供だった僕は、祖父から貰った小銭を握りしめて必死に石を選んだものだ。
あたり入りのトイカプセルの機械が置いてあったり、壁には近くの工房で作られたルースが、ケースに入れられてずらりと並んでいる。
小指の爪ほどの宝石は淡く透き通って綺麗だが、それよりも、大きく楕円や菱形に研磨されためのうや碧玉の方が、小さな絵画のようで、いつまで眺めても飽きなかった。
出入り口から見て左の壁際が帳場だ。上がりへは、この前を通って入る事になっている。
大抵、若い店員さんが店番をしているが、店主が帳場に座っているときは、何となく緊張してしまう反面、少し頼もしく感じるのは、鉱物に一番詳しいのが店主だからだ。
右の壁付近はちょっとしたギャラリーになっていて、式台と上がり框に店主が自ら拾い集めた珍しい模様の石が、ピカピカに磨かれて並んでいる。回転台に乗っている石もあって、回せば裏は、垂直に切断され、研磨された石の断面が見えるようになっていた。
その奥には黒い木枠の大きなガラスケースが置いてあり、中には星空を切り取ってきたようなラピスラズリの板石と、それを背景に、お城のような形の水晶クラスターが収められていた。
手前に並べられた石が岩山連なる山脈に見えるよう、意図的に配置されているので、ファンタジーゲームの一幕を立体的に再現したようで面白い。時々水晶が入れ替わるので、毎回見るのが楽しみだった。
ガラスケースの上には猫ぐらいの大きさのフィギアが置いてある。
これまたゲームに出てくる龍をデフォルメしたような姿で、可愛いのに格好良い。白い勾玉が付いた首輪をしているので、客の間ではたまちゃんと呼ばれてとにかく人気だ。
どこかの造形作家に依頼して作って貰ったそうだが、キャラクターグッズは置いていないのかと尋ねる声を、よく耳にする程愛されていた。
上がり框の一歩先には木製の低い柵があって、ここから先が立ち入り制限のある標本室になっているが、上に上がれなくても、子供には土間だけで充分に楽しめるよう工夫されているので不満はなかった。
と言うより、整然とキャビネットが並ぶだけの上がりは、あまり興味が向かなかったのが本当だ。大体、大人が黙々と引き出しを開け閉めしては、難しく覗き込んでいる標本室は、何だか堅苦しくてよそよそしい。子供の見解なんて、そんなものだった。
その内、祖父よりも友達と遊ぶ事が多くなり、やがて祖父が亡くなり、店へ立ち寄ることもなくなっていった。
祖父譲りの石好きは健在で、近所の河原で鉱物採取に明け暮れることはあったが、祖父がいない帰り道、一人で石榴屋へ立ち寄ることは躊躇われた。
その頃には土間よりも標本室の方が気になっていたし、何より自分より小さな子に交じって磨き石を選ぶのは恥ずかしくて嫌だ。
ディスプレイやフィギアのたまちゃんは気になったが、お金もないのに店に入る度胸は僕にはなかった。
それが中学へ上がってしばらくして、新しくできた友人達と一緒に、何年かぶりに店を訪れることになった。
石榴屋へ行ってみないかと提案したのは一番付き合いの長い友人で、頼めば標本室を見せてくれるかもと、はしゃいだ様子で言い出したのだ。
僕を除いた男子五人、全員乗り気になって、夏休みに入った翌日に、揃って店へと押しかけたのだった。
僕はと言うと、店に行くのは賛成だが、友人の言葉にどこか粘っこいものを感じて心がざわついていた。
その予感は的中した。
「ねえー、上がらせてくださいよぉー。お願いしますって」
妙に間延びした口調で合掌を掲げるのは、帳場に纏わり付く三人の内の一人だった。
「ダメだよ。表に貼り出しているだろう。高校生になるまで我慢しな」
店主は帳場を取り囲む中学生達の懇願を、不機嫌に一蹴した。
「少しだけ、少しだけでいいですからぁ」
「何度も言わせるんじゃない。それからそこっ、フィギアに触るんじゃないっ」
店主の叱責に振り返ると、幼馴染みがガラスケースから離れるところだった。
後退しながら軽く両手を上げ、触っていないと主張しているが、卑屈なにやけ顔を浮かべている。
咎めようと僕は口を開き、しかし、帳場から聞こえた猫なで声に閉口する。
「僕たち学校で科学部に入ってるんですよぉ。石とか興味あって、勉強したいんですぅ」
……ウソだ。
文化部の活動を「陰キャの集まりじゃん」と聞こえよがしに揶揄する連中だ。運動部だって、校庭で朝練する彼らを顎指しながら「朝っぱらから走り回ってバカじゃねーの?」とせせら笑っていた。
(……まあ、その中に僕もいたわけだけど)
胸がズンと落ち込むような気がした。
どうして僕は彼らと連んでいるんだろうか。そんな疑問が不意に胸を重くすることがある。
小学校からの遊び仲間は、校区の違いで殆どが別の中学校へ進学してしまった。同じ学校に通うことになったのは、付き合いは長いが、さほど絡むことのなかった一人だけ。同じクラスに振り分けられたので、同郷のよしみで何となく固まっているうちに、他のグループへ合流したというのが今の付き合いの経緯だ。
幼馴染みと一緒に合流したのは、バカ騒ぎが大好きな、それでいてどこかやさぐれているグループだった。
と言っても、不良のように目立つような悪さはしない。むしろ教師ウケは良い方だ。
ただ、時々非常識な事をやらかしては、周囲の度肝を抜いて楽しむという、少々厄介な気質の集団ではある。
クラスには、彼らが起こす騒動を密かに期待する生徒もいるが、どちらかと言えば関わりたくないと敬遠される傾向が強い。
陽キャ、というヤツだろうか。皮肉の効いた軽いノリで、要領よく世の中を渡って行く。そんな連中だ。
正直なところ、不得手な類いの人種だった。会話に入りきれず、浮き上がっているような気持ちになった事は、一度や二度ではない。
だが、盛り上がる彼らに適当に相槌を打ちながら、僕は、
(……中学だし、そんなもんだろ)
同じグループに属していたとして、気質が同じとは限らない。中学になれば、そんな風に他人と距離を置いていくようになるのだと、ぼんやり感じていた。多少気が合わなくとも、何となく連む程度でいいか、とさえも考えていた。
その考えに疑問を持つようになったのは、入学から一ヶ月ほど経過した下校時だった。
談笑を交えた帰り道、いつも通り公園沿いの歩道を歩いていると、校庭でくすねてきた野球ボールを片手で弄んでいた仲間の一人が、公園で遊ぶ小学生のグループを見るやいなや、いきなりそのボールを、彼らに向かって思いっきり投げつけたのだ。
何が起きたのか、僕は咄嗟には理解出来なかった。
それまで普通に歩いていたのが、何の前触れもなく子供らにボールを、それも硬球を、全力で投げつけたのだ。
間を置いて事態を飲み込んだ僕は青ざめた。
ボールが剛速球過ぎて、何が起きたのか分からなかったらしい、小学生らは、戸惑うように周囲を見回していたが、やがてわらわらと一人を囲んで集まりだした。
誰かに当たったのか。多分そうだ。違いない。
想像して血の気が引く。
当たり所が悪ければ、ただでは済まない。
「やべ」と、ボールを投げた奴が吹き出すように呟くのを聞きながら、僕は小学生らの元へ、安否確認に走った。
幸いというか、ボールは縄跳び遊びをする子の持ち手を掠めただけで、誰にも直撃していなかった。
だが、プラスチック製の縄跳びの持ち手は粉々に粉砕されていた。
威力は本物だ。本気で誰かを傷つけるつもりだったと言われても、反論は出来ない。
僕はぞっとした。
仲間の愚かな振る舞いに怒りはあったが、それ以上に、悪ふざけの限度を平然と超える彼らに、得体の知れない物を感じて震えた。
この一件は、即座に小学校経由でうちの中学に連絡が入り、僕らは生活指導部へ呼び出されることになった。
彼らは素直に謝罪した。が、弁明する事も忘れなかった。
いや、言い訳か。
長々と、この時彼らがした弁舌は、思い出すのも億劫だ。その饒舌さときたら、現場に居合わせた僕でさえ、あれは単なる過失だったと錯覚するほど巧妙だった。
それが功を奏したのか、それとも事件を起こしてすぐに対処した事が反省の色有りと見なされたのか、教師らはそれほど強く僕らを咎めなかった。
厳罰を受けずに済み、僕はほっと胸を撫で下ろした。さしも彼らもやり過ぎたと気まずそうにしていたが、これ以降、僕は彼らの行動を疑うようになった。
ボールを投げつけた直後、彼らが困惑する小学生らを冷やかし混じりにニヤニヤ笑って眺めていたのは覚えている。いつも通り、悪ふざけが成功したときの嫌な顔だ。説教する教師の前で見せた殊勝な態度は本物だろうが、彼らの性質から考えて、長持ちするとは思えない。
彼らのバカ騒ぎが、いつ何時、とんでもない方向へ舵を切るのではないかと、僕は心のどこかで常に警戒するようになっていった。
僕はひっそり嘆息した。
先の件の報告を学校から受けた親は、僕が彼らと一緒に行動するのに難色を示しだした。あからさまに口出しはしてこないが、出かける、遊びに行くと告げる度、どこか心配そうな顔を向けてくる。
気に食わなかった。やり過ぎな面があるのは確かだが、彼らは基本、気の良い連中だ。一緒に居て楽しいことだってある。彼らの手綱を上手く引いてやれば、その内改善するだろう。先の説教の後だって、生活指導部の教師から、こいつらを頼むぞ、と笑いながら肩を叩かれたのだ。……少し微妙な気持ちになったけど。
だが、ここ最近、彼らを負担に感じ出した。羽目を外す彼らは、一緒に行動する僕の目から見ても、度が過ぎていると思わずにはいられない面があるのだ……。
「今お店に人いないし、僕たち静かにしますからぁ」
「ね、ねぇー、お願いしますぅ。このとぉーり」
「ダメなものはダメだ。いい加減しつこいね」
とりつく島もなく拒否されていというのに、なおもしつこく食い下がる仲間達を、僕は居心地悪く、ハラハラしながら見守っていた。
入店直後は皆、初めて入る鉱物店内を物珍しそうに見て回るだけだった。
僕はすぐにでもガラスケースの展示物を見に行きたかったが、直行するとバカされるような気がして、何となく壁のルースを見回していた。
その中に、妙に心引かれる水晶のスールを見つけて、手持ちの小遣いで買えそうだ、けど、買ってしまうと遊びに行く金がなくなるなどと考え込んでいたらこの騒ぎだ。
このままでは、堪忍袋の緒が切れた店主に叩き出されるか、あるいは隙を突いた仲間達が上がりへなだれ込むかの二択に思えた。
現に上がり框に腰掛ける一人が、店主の目を盗んでそろそろと靴を脱いでいる。
「なあ、もういい加減にしろよ。迷惑だろ」
流石に見かねて僕が窘めると、背後から幼馴染みが、馴れ馴れしく肩に腕を回してきた。
口を耳元に近づけ、小声で、
「お前、前に標本室見たいって言ってたじゃん。今がチャンスだろ」
囁きながら耳朶に吐息を吹きかけられ、僕は総毛立つ。いやらしい口調とひどい口臭が気持ち悪い。
確かに以前そんな話はしたが、世間話ついでに口にしたただの願望だ。実行する気ははなっからない。
ゼロ距離が、今日はやけに勘に触って、僕は一気に苛ついた。
「近いっ!」
汗でべたつく幼馴染みの腕を振りほどき体を押しのけると、ぎっと相手を睨み付ける。
だが幼馴染みは、何がおかしいのか始終ヘラヘラと含み笑いをしながら、ニヤついた上目遣いで僕を見るだけだった。
と、
「――標本室には入れてやれんが、そこまで粘るなら、一つ面白い話をしてやろう」
それまで不機嫌に石の手入れをしていた店主が、唐突に口を開いた。
これには全員が呆気にとられて店主を見た。
店主は手元の作業を止めると、僕らを見回した。それぞれの顔に視線を巡らせ、最後にもう一度僕を見たような気がしたが、多分気のせいだ。そう、この時は思った。
仲間達は、それまで頑なだった店主の態度が急に変わったことを、懐柔の余地有りと受け取ったようだ。
「へえー、何ですかそれ、聞きたい、聞きたいでーす」
全員が帳場にすり寄ると、揉み手を擦る勢いで口々に店主を促す。見ていて恥ずかしくなるわざとらしさだ。
「よし、じゃあ話そうか」
そんな見え透いたおべっかで気を良くしたという訳でもなさそうだが、店主は帳場に座り直し、居住まいを正した。
「とても面白く、その上ためになる話だ。丁度、今の君らにうってつけの物語だよ」
◆
「風変わりな宝石研磨の職人が岬にいると、町で噂に聞た。珍しい石を持って行くと、その欠片と引き換えに、石を研磨してくれるという。もしお前がそうなら、今日の夕方までに、この石を美しく磨いてくれ」
そう言って石を差したのは、身なりの良い少女だった。
広げたハンカチの中央に乗せられた石は、小さな少女の手に収まる大きさの、不格好な四角い結晶だ。
晴天の下、氷のような一塊りが、水面のような光を反射した。
時間は朝と昼の間頃、南方大陸の端っこのとある港町、その外れでの出来事だ。
跳ね上げたキャンピングカー後部ドアの側にしゃがみ込み荷造りをしていた研磨職人は、差し出された石と少女を見比べて訝しんだ。
色白で、この辺りではお目にかかれないような小綺麗な洋服を着る少女は、明らかに外国の金持ちだ。それも見るからに戦闘のプロといった護衛を五人も引き連れているのだから、大金持ちの部類だろう。
そんな令嬢が、粗末な身なりの男に声をかけてくるとなると、何か面倒な理由か、あるいは企みがあるに違いない。
研磨職人は用心深く言った。
「いかにも私は宝石研磨の職人だが、見ての通り、片付けの最中だ。昼にはここを引き払う予定でね。すまないが、依頼は受けられない。他を当たってくれ」
追い払うように軽く手を振り、研磨職人は荷物の整理に戻った。
だが少女は、石を差し出したまま話を続けた。
「今宵私は、飛行機でこの国を出立し、帰国することになっている。この石を研磨に出せるのは、今この時しかない。急いでいるんだ」
宝石職人は、荷造りをしながら素っ気なく言った。
「この町が宝石の取引で栄えてきたのは知っているだろう。市場だけでも職人は沢山居る。露天が嫌なら、向こうの商店街へ行けば良い。立派な門構えの宝石店が沢山並んでいるし、お抱えの職人も大勢いる。何十年と宝石を磨いた熟練者ばかりだ。仕事も早い。そっちで頼んだ方が確実だ」
「この国の人間はみんな嘘つきだ」
声を落として少女は言った。
剣呑な口調に、研磨職人は思わず手を止め顔を上げた。
研磨職人はそこで初めて少女の顔を真正面から見た。
手に持つ石よりも固く鋭い光を放つ少女の目には、鬼気迫る色が宿っている。どこぞで手に入れた珍しい石を、変わり者を使って、面白おかしく磨かせたいといった金持ちの道楽ではなさそうだ。
厄介なことになった。
研磨職人はちらりと護衛達に目を向ける。少女の行動に口出しする気はないようで、黙って成り行きを見守っているが、厳めしく引き締めた表情には、どことなく複雑な感情が見え隠れしている。どうやら彼らは、少女の頑固に付き合わされているだけらしい。
研磨職人は、フンと鼻を鳴らした。
「何があったのかは知らないが、こっちも急ぎだ。一刻も早く、この町を出たいのだよ」
研磨職人は段ボールの口をガムテープで封をしながら、
「帰国するというなら、磨くのはその後でもいいじゃないか。見たところ君は西方諸国出身だろう。ここよりずっと大きくて有名な宝石研磨職人の都市があったはずだ。世界中の宝石が集まるというその都市で、名のある職人に依頼すれば素晴らしい宝飾品にしてくれるだろう」
作業ついでのおざなりな言葉に、しかし少女は辛抱強く言った。
「帰国してからも予定が詰まっている。翌日には、父の取引先である資産家のパーティーへ出席することになっている。金持ちや名士の集いだ。私はそこで、この石を売りたいのだ」
「売るのかい」
「そうだ」
頷く少女に、へえ、と研磨職人は気のない返事をした。何だかよくわからないが、込み入った事情があるのは分かった。
研磨職人は話を聞きながら嫌気が差してきたが、あからさまに気のない相手を前にしても、少女は立ち去ろうとしない。こちらが折れるまで粘る気だ。
厄介な相手に絡まれたと辟易しながら、研磨職人は少女の話に付き合う。
「父の伝手を頼ればそれなりの研磨職人が引き受けてくれるだろうが、段取りに手間取って恐らくパーティーに間に合わない。上手く運んでも、熟練工の仕事となれば、工賃が高くなる」
宝石職人はふうんと唸った。
「これまた妙な話だ。君の持つその石は、見たところ相当高価な宝石の原石だ。金持ちばかりが集まるなら、多少値が張っても買い手は付くだろうし、何なら原石のままでも充分価値があるように見えるがね」
研磨職人の適当な返答に、少女はすっと目を細めた。瞳に宿る光が濃くなる。
「私が売りたいのは、私と同世代の者達だ。パーティーへ参加するのは私の父で、未成年の同伴者には別の集いが用意されている」
「ははあ、成程。子供の内から金持ち同士、横つながりを持たせようという魂胆か」
「付き合う相手を見極めるには、時間がかかるのだよ」
宝石職人の皮肉に、しかし少女は微動だにせず切り返し、話を続けた。
「そこでは自分で手に入れた珍しい品を紹介しながら、オークション形式で売買する余興がある。そこへこの石を出品したいのだ。値段に上限がある訳ではないが、高すぎると興が冷める」
少女はすっと顎を引いた。
「宝石職人、お前はそこそこ頭のキレは良いらしい。こう言いたいだろう。お遊びなのだから原価など気にせず、その場に見合った金額を提示すれば良かろうと」
「大体あっている」
宝石職人は肯定した。
子供同士のお遊びに、親が見栄を張ることはある。普段から高級品に慣れ親しんでると思わせるため、高価な品を安いと偽って持たせるぐらいはあるだろう。
研磨職人は素っ気なく、
「その程度の見栄に目くじら立てる事もないとは思うがね」
「この石を値下げするなど許さない」
少女の声が凄みを増した。研磨職人は怪訝に少女を見やる。
「私が仕入れた品だから、私が適切にさばかねばならない。儲けを度外視した商売など、商家としての沽券に関わる」
頑なだった態度が一層硬化したような雰囲気だ。しかし、凍てついた氷塊の内部に、底知れぬ激情が爆発寸前で封じ込められていることもはっきりと感ぜられた。
(これは手強い。生半可な理由では断れないぞ)
はぁ、と吐息一つ。宝石職人は少女を見ると、渋々と話し出した。
「君、昨日、近くで盗賊団が出たという話は知っているな。山奥に隠れ住み、山道を通る旅行者を襲撃しては、荷物と命を根こそぎ奪う悪党共だ。それが治安部隊とドンパチやり合って壊滅したと、今朝になって情報が回ってきた。町ではこの話題で持ちきりだ。
が、どうにも眉唾だ。
君の言うとおり、この国の人間は割と平気で嘘を吐く。公僕でもあてにならない。いや、公僕だから余計にあやしいのか。とにかく、盗賊団を壊滅させたのは間違いなさそうだが、掃討出来たどうかは曖昧だ。残党が出た可能性がある。手負いの獣ほど恐ろしいものはない。盗賊団の生き残りが、進退窮まって、見境なく町を襲いかねない。その町というのが、どう見積もっても現場から一番近いここだ。
騒ぎに巻き込まれるなどご免だ。いざというとき警邏は自国人を優先して守るだろうし、そう在るべきだ。護衛を雇う金のない旅行者は、危険を感じたら、一も二もなく逃げるのみ。
そんなわけで、大慌てで荷物をまとめている最中なんだ。と言うわけで、君の依頼を受ける余裕はない。他を当たってくれ」
そう話を打ち切ると、研磨職人は段ボールを車に積み込んだ。
少女は返事をしなかった。黙り込んだ少女に、ようやく諦めてくれたと思ったが、
「その心配は不要だ。盗賊団は間違いなく全滅した。残党はいない。ただの一人も」
少女は静かに断言した。凪いだ口調がひどく不穏だ。研磨職人は警戒を浮かべて尋ねた。
「何故そう言い切れる」
「その盗賊団に襲われたのが私達だったからだ。護衛部隊と戦闘になり、これを返り討ちにした。地元の治安部隊に通報して、身元の確認も済んでいる。盗賊団は壊滅した。確報だ。町が襲われることはない。
さあ、これでお前が急ぐ必要はなくなった。依頼を受けてくれ」
少女はずいっとさらに、石を突き出した。
研磨職人は眼前に突きつけられた石を見ながら、少女がもたらした情報を吟味した。
嘘は言っていないだろうが、完全に危険が去ったとは思えない。
少女の背後に控える護衛達に、問いかけるように視線を投げてみるが、主人の商談に口を挟むつもりもないようで、見守るに徹している。
研磨職人は考え込んだ。
気乗りしないと本気で断れば、周囲の護衛達が気を利かせて少女を引き下がらせるだろう。そういう雰囲気を肌で感じる。
だが、今となってはその言葉は嘘になる。
研磨職人は、少女と、少女が持つ石の輝きに、少しばかり興味を持ってしまったのだ。
「君の話が本当で、安全が保証されているというなら受けないこともないが、今の説明だけでは少々弱い。もっと具体的な情報が欲しい。
そして君。これはただの想像だが、その石は壊滅した盗賊団と何か関係があるのではないかね。もっと言えば、石は盗賊団の物だったんじゃないのか?」
研磨職人の推測に、少女は虚を突かれたように目を開き、感心とも挑発とも取れる笑みを口元に浮かべた。
「察しが良いな、研磨職人。そうだ。この石は盗賊団から取り上げた物だ」
傲然と言い放つ少女に、研磨職人は驚き半分、呆れた顔で、
「君は盗賊団から奪った石を、金持ちの子供に売りつけようとしているのか」
「気に入らないか?」
「そりゃあ、感心はしない。だが、その辺りの事情を話してくれるなら、そして私が提示する研磨代金を承諾するなら、依頼を受けても構わないが、どうだろう?」
色好いとまではいかないが、前向きな案を提示する研磨職人に、少女は笑みを深めた。
「いいだろう、研磨職人。盗賊団から取り上げたこの石の名は虹。磨けば美しく七色に輝き、愚か者の目を射貫くという幻の宝玉だ。そんな至極の逸品を、どのようにして私が手に入れたのか、その経緯を話してやろう」
◆
古来より南方大陸は様々な天然資源を産出してきたが、近年、内戦による治安悪化や国際法の改定などにより、採掘事業、特に鉱山事業は低迷して久しい。
高まる需要と相反して新しい鉱山の開発が難しくなってきた昨今、企業家が目をつけたのが廃坑だ。
大昔に資源が尽きたとして閉山した鉱山を、最新技術を使って再調査し、新たな鉱床を発見しようという計画を立ち上げた。
昔は価値がないと打ち捨てられたが、科学の進歩により利用価値が見出された鉱物は数多く存在し、その殆どが手つかずだ。近年発見された新鉱物の確保も含めて、利潤は多いと算用したのだった。
かくして始まった廃坑再開発計画。私の父もその事業に参画し、有用性が確認された鉱山をいくつか購入した。
だが、本格的な採掘となると、地元との折衝が必要だ。そのため父は現地入りし、外交の傍ら採掘予定の鉱山を視察することにした。
今回視察予定の鉱山は、比較的治安の良い地域にあると言うことで、護衛付きではあるが、私も同行が許された。
たっての願いである南方大陸訪問、そして現地調査への参加に、私は素直に喜んだ。
鉱山見学の当日、試掘用の重機が設置された坑道を一通り見学した後、近くに建てられた地元名士の別荘に招かれ、庭で開かれた立食形式のパーティーに出席と、この日の予定を問題なく消化した。
問題がなさ過ぎて、少々物足りない思いをしながら、私は一人、パーティーの輪を離れ、庭の散策に赴いた。
手入れの行き届いた広い庭は、この地方特有の草花が植えられており、それが丁度花盛りで、南国情緒に溢れていた。
故郷にはない花を珍しく観察したり、写真を撮ったりしていると、ふらりとその少女は現れた。
彼女はこの別荘の使用人で、パーティーの最中、談笑する客の合間に、飲み物を運ぶ姿を何度か垣間見ていた。
自分と同じ年頃の子供がもう働いているのかと随分驚いたが、聞けばここの厨房で働く親を手伝う為に、時々やって来るのだという。
話を聞いた私は、何と親孝行なのだろうと遠目に感心したものだ。
その少女が、おずおずといった上目遣いで、私の元へとやって来た。
最初はふらふら庭を歩き回っている私が迷子にならないよう、声を掛けに来たのかと思ったが、まごつく彼女を見て、何となく察した。
大人ばかりのパーティーで子供の私が退屈しないように、気を利かせた誰かが、お嬢様の相手をするようにと彼女を寄越したらしい。余計なお世話でしかないのだが、断ると彼女の評価に触るし、こういったお節介は今回が初めてではない
私は彼女にそれとなく花の名前を尋ね、簡単な応答を土台に会話を積み上げていった。
少女は、私の話し相手を申しつけられるだけあって、外国語は堪能だった。話し上手とまではいかないが、町の噂にやたらと詳しく、地元料理ならあそこが一番美味しいとか、買い物をするならどこそこと言った具合で、話題に尽きることはない。
最近の出来事として、時々町外れの岬に風変わりな外人が現れ、一日中宝石を研磨しているという話が興味深かったが、妙なことをやっていて気味が悪いから近づかない方が良いと忠告された。
そんな他愛ないお喋りをしながら歩いていると、いつしか私たちは、庭の中にある林に入り込んでいた。
木々の向こうに遠くパーティー会場が見え、お開きの雰囲気になっている。そろそろ戻ろうかと少女を促すと、不意に彼女は立ち止まった。押し黙り、人目を憚るように周囲を見回し、大人達の耳目がないのを確認してから、少女はエプロンの裏に隠し持っていた物を取り出した。
「……お嬢様、急にこんなお願いをして驚くかも知れませんが、この石を引き取ってはくれませんか?」
出し抜けに懇願され、私はびっくりして、少女と、少女が差し出した物を見比べた。
少女の掌に収まるそれは、四角い透明な石だった。溶けかけた氷のような表面に、午後の光がたゆたっている。間違いなく宝石の原石だ。
それを買ってくれと言うならいざ知らず、引き取れとは一体どういう了見か。
首を傾げて説明を求めると、彼女はひどく消沈した面持ちで口を切った。
「私はこのお屋敷に雇われている料理人の娘で、いずれは父と同じ料理人になりたいと思い、こうして時々、修行がてらお屋敷の厨房で手伝いをしているのですが、半年ほど前、その帰り道で、この石が落ちているのを見つけたのです。
廃坑の近くだったので、きっと昔、廃棄物に紛れて捨てられたのが、何かの弾みで道に転がり出たのでしょう。夕日を黄金に照り返すその石は、きっと宝石の原石だ。そう思い私は喜んで石を家に持ち帰りました。
拾った石を両親に見せると、二人は顔を見合わせ、私にこう言いました。
『これはきっと、昔話に出てくる虹の石だ。磨けば美しく七色に輝き、その光は愚か者の目を射貫くという幻の宝玉に違いない。お前の心が正直だから、きっと神様が恵んで下さったのだろう。大切に仕舞っておきなさい。そして余所でこの事を話してはいけないよ。神様のご加護がなくなってしまうかもしれないからね』
虹の石の話はこの辺りに伝わる有名な昔話で、殆どおとぎ話です。そんな話を鵜呑みにするほど私は幼くはありませんが、これが高価な石で、そんな物を持っていると周囲に知れ渡ると、必ず横取りされてしまうだろう。そう心配した両親が、昔話を持ち出して遠回しに警告したのは分かりました。
だから両親の言葉に従い、この石は人目に付かないよう仕舞って置いたのですが、先日学校で、ついこの事を友人に話してしまったのです。
他愛ないお喋りの最中だったので、友人もその時は特に驚かず、珍しい物を拾えて良かったね、と、薄い反応を見せただけでした。
ですが次の日の夜遅く、私たちの家に村長と村の青年団が突然押しかけてきて、その石は本当に拾ったものなのか。出入りしているお屋敷から盗み出したのではないだろうな、と問い質してきたのです。
山間の小さな村ですから、友人に漏らした石の話は、あっという間に、しかも私たちが窃盗を働いたというとんでもない尾ひれをつけて広がっていたのです。
私も両親もびっくりして、そんなバカな真似をするものか、これは間違いなく拾った物だと憤慨しながら説明しました。それで疑いは晴れたのですが、それから村を歩く度に何やら物言いたげな視線を背中に感じるようになったのです。
高価な物を持っていると狙われる。両親が心配した通りになりました。
私は恐ろしくなり、すぐにこのことを両親に相談したら、あの石はもう手放した方が良いだろう、と言われてしまったのです。
私は嫌でした。
手放すと言っても、売る以外に方法はありません。ですが、私が町へ売りに行っても、小娘と侮られて安値で買い叩かれるだけ。両親が行っても同じでしょう。宝石の売り買いは、素人が簡単に手を出せるようなものではないのです。
折角見つけた綺麗な石を、虹の石かもしれないと思って大切にしていた物を、自業自得とは言え、二束三文で売り払うのは我慢ならない。
だからといって、元の場所へ戻したところで、村の誰かに拾われてしまう。
いっそ、川の底にでも沈めてしまおうかと思っていた時、新しい鉱山主が、ご家族と一緒に鉱山の視察にいらっしゃるというニュースが飛び込んで来たのです。
鉱物にお詳しい方だとお屋敷の主人から聞いておりましたので、どうにかして引き取って貰えないかと考え、様子を窺っていたのですが、なかなかお話しする機会に恵まれず、どうしたものかと悩んでいたら、お一人でいるお嬢様の姿をお見かけして、不躾ながら、お願いに参ったのでございます」
話を聞き終えた私は、ははあ、成程、と神妙な顔で頷きながら、しかし頭の中は困惑でいっぱいだった。
買って欲しいというなら、突っぱねるつもりだった。ホストを通さず、それも秘密裏に客に商談を持ちかけるなど使用人としては大失格、町で旅行者に群がる怪しい宝石商と同じだ。
だが少女は、自分が持て余した石を、価値が分かる人に譲りたいと願っているだけだ。
ここの主人に引き取って貰えないのか、と当たり障りのない提案をすると、少女は一瞬虚を突かれたような顔になったが、すぐに気まずく視線を彷徨わせ、主人はあまり石に興味がないようで、と言葉を濁した。
つまり石を主人に渡しても、売られるだけということだ。ついでに言うなら、主従関係がイマイチなのも透けて見えた。
私は弱り切って、少女を見た。
あれだけ町の情報に詳しいなら、まっとうな宝石店ぐらい知っているだろうし、あまり深刻に悩まず、一度見せてみたらどうだ。案外、高く買い取ってくれるかもしれない。と、気軽に助言すれば済む話だろう。
しかし、どうにも少女は石にまつわるいざこざで、疑心暗鬼を拗らせ意固地になっているように見えた。
私はうーんと考え込んだ。まあ、そういう理由なら引き取っても構わない。だが、大きさ、透明度、どちらも申し分ない見事な石だ。ただで貰うというのは気が引ける。
父に相談しようと姿を捜したが、生憎ホストと一緒にテラス席で談笑中だ。無理を言えば、娘の呼び出しに応じてくれるだろうが、仕事の邪魔はしたくない。それに、万が一ホストにこの話が伝われば、客人に身勝手なお願いをしたとして、彼女どころか料理人という彼女の父親共々心証は最悪だ。
よし、と私は決断した。
「分かった。私がその石を買おう」
そう宣言すると、私はポシェットから財布を取り出し、札束を全て抜き取ると、少女に差し出した。
「ようは適正価格で買い取れば良いのだろう。丁度、良い土産がなくて困っていたところだ。その石のグレードなら、この金額で見合うはずだ」
自分の財布から大金を取り出した私を見て、少女は目を剥いて驚いた。
呆然と札束を凝視する少女に、私はしかつめらしく、
「価値ある物にはそれなりの対価が必要だ。お金が欲しいわけではない、と言いたそうだが、生憎、今はこれ以外に対価となり得る物を持ち合わせていない」
ですが、と口ごもる少女に、私は続けた。
「それにこちらの身にもなってくれ。君は石を手放して気が済むかもしれないが、ただで高価な品を譲り受けるというは、結構心苦しいんだぞ」
言いながら、なかなかどうして、上手い口上だと私は腹の底で得意になった。
私は故郷の学校でも商家の子弟が集まるコミュニティでも、常日頃から、困っている人には思いやりを持って接しなければならないと説かれており、その思想に強く賛同していた。そして私の生家は豪商だ。私自身もお金の自由がきく身上だ。他者に施しを与る、それが出来る立場にある自分を自覚し、誉れとさえ思っていた。
そのチャンスが今巡ってきたのだ、さあ出番だ、本番だぞと舞い上がって、冷静に物を考える頭を完全になくしていた。
私は父から、毎月、子供が持つには不釣り合いな額のお金を小遣いとして手渡されており、それを適切に管理、運用するよう言われていた。
早くから金の使い方を学ばせようという父の教育方針で、旅行中のこの時は、露天や個人商店で土産を買うために、普段より多くの現金を持ち歩いていたのだ。
その全てを、私は石の対価として少女に提示した。少女は狼狽えたが、これは正当な取引だ、と私が強気に説得してみせると、暫く逡巡した後、腹を決めた様子で頷いて、石を渡してくれた。
少女は受け取った石の代金を丁寧にハンカチで包むと、大事そうに両手で胸に抱き、何度も私に礼を言って、小走りに去って行った。
正直なところ、現金を全て手放すのは痛かった。勢い込んでやってしまった感は否めない。来月までのやりくりが厳しくなるのは分かっていたが、善行のためだと見栄を張った。
こんな大事な場面でケチってどうする。後悔はない。本当だ。そう必死に自分を納得させた。
一人になった私は改めて石を検分した。
石は、ひんやりと冷たく、見た目以上にずしりと重い。ガラス製の模造品などではない、本物の天然石だ。間近で覗き込んでも内部に目立った傷や内包物は見当たらず、向こうの景色が綺麗に透けて見える。何の鉱物かは分からないが、相当な希少品であるのは間違いない。
……もしかしたらこの石は、私や少女が考えるよりもずっと高価な品かもしれない。
実のところ、こういった行為は、上から目線の思い上がりなのではないだろうかと、心に少し引っかかってはいたのだ。だが、石の価値を鑑みれば、後ろめたさを感じる必要などあるはずはない。
異国で思いがけず巡り会った珍しい品を、破格の値段で購入した。だからこれは、善行ではあるが施しではない。掛け値なしの取引だ。
少女がそうしたように、私も石をハンカチで包むと、ポシェットの中に仕舞った。肩紐にかかる重さが、石の存在感を伝える。
彼女が大切にしてきた物だ。割れないよう気をつけなければ。
去り際に少女が見せた心底嬉しそうな笑顔を思い出し、寂しくなった懐具合とは裏腹に、私の心は誇らしさで目一杯に膨らんだ。
別荘を辞するまで、私達の密かな商談が表沙汰になることはなかった。
帰りの車に乗り込み、門へと進む車窓からあの少女を探したが、見送りをするホストや使用人の中に、その姿を見つけることは出来なかった。
少しがっかりしたが、厨房の後片付けが残っているのだろう。見送り程度に引っ張り出されては気の毒だ。
あるいはもう家に帰り着いて、母親にこの事を報告しているかもしれない。
客人に無理を言って買わせたのかと、娘を叱責するかもしれないが、賢い少女の両親だ、最後には分かってくれるだろう。
私は隣に座る父親に、またここに来ることは出来るかと尋ねた。父は、採掘が安定したら、また一緒に様子を見に来ようかと微笑んでくれた。
私はそっとポシェットの上に手を置いた。布越しに固い石の感触を確かめ、
その時までに、石をルースに仕立てよう。この石から、ルースは何個取れるだろうか。そしてその一つを、次に訪れた時、彼女へお土産として渡したら、どんなに喜ぶだろうか……。
満ち足りた気持ちでそんな想像を巡らせながら、私は車の座席に体を沈めた
襲撃は、それから小一時間ほど経った山道で起きた。
そこは断崖絶壁に作られた細道で、地元でも有名な難所だった。
舗装はされているが、整備はおろそか、ガードレールもない交通事故多発区域ということで、車は慎重に走行した。
見通しの悪い角を曲がった直後、先導する護衛車が止まった。同乗する護衛が無線機で仲間と連絡を取り合うのを聞きながら、落石事故でもあったのだろうかとぼんやり思っていたら、鋭く伏せるようにと指示が飛んできた。
呆気にとられる私の上に、隣に座る父が覆い被さる。
直後、銃撃戦が始まった。
南方大陸を旅行するなら、こういった事態も想定しなければならない。事前に対処方法は教わっていたが、実際に起きるとなると話は別だ。
この車は強盗対策の防弾車、弾丸が貫通することはないと、運転手が振り返り頼もしく言ったが、言っている側からフロントガラスに銃弾が直撃、一瞬でガラスが真っ白にひび割れたのだから、たまったものではない。
分厚い装甲板で囲われた車内に、遠く、くぐもった銃声が断続的に届く。ノイズ混じりの無線機が、切れ切れに状況を伝える。時々、上や横から跳弾の音がして、その僅かな振動が体に伝わる……。
「大丈夫、すぐ終わる」
父親が私の背を軽く叩き、普段通りの口調で声を掛けてくれたので何とか自分を保つ事は出来たが、私は完全に竦み上がっていた。
私は父親にしがみつきながら、
(大丈夫)
(護衛は優秀だし、車は防弾車。お父様だって側に居る)
(大体、立派に人助けをしたばかりじゃない)
(そんな私達が、こんな場所で命を落とすはずはない)
私は震える片手をそっとポシェットに差し込んだ。中を探り、布越しに固い感触を探り当てる。
少女から受け取った石を、布の上からぎゅっと握りしめ、
(おまえ、本当に虹の石なら、愚か者を貫きその役目を果たしなさいっ)
心の中で繰り返し石に語りかけながら、私は嵐が過ぎるのをひたすらに待った。
もしかしたらこの石が災いを運んできたのかもしれない、という不吉な疑惑がちらりと脳裏を掠めもしたが、そんなはずはない、あの優しい少女が大切に守ってきた石じゃないかと、私は必死に振り払った。
銃撃戦が終わるまで五分とかからなかったが、私には何倍もの時間が過ぎたように感じた。
父が雇った護衛達は遺憾なく能力を発揮し、こちらの損失は車体が軽く傷つく程度に留まった。
一方、襲撃犯は複数の死傷者を出していた。
狙撃され、山の上から転がり落ちたのだろう、数人が道路の端に倒れているのが、窓の向こうに見える。
……生きていても死んでいても恐ろしい。
恐る恐る覗き見した私は、彼らの生死を思った。
車が通れるよう、護衛達が道を片付けている間、外から重い物を引きずる音が聞こえ、私は震えが止まらなかった。
護衛隊長が言うには、襲撃犯は地の利を生かした挟み撃ちを仕掛けてきたが、腕は悪く武器も貧相、統率もへったくれもない、暴力頼みの烏合の衆だ。旅行者狙いの盗賊で間違いないだろう。完全にこちらを侮っていた。あらかた片付けはしたが、町の治安部隊に通報する前に移動した方が良い。ここは場所が悪い、とのことだ。
異論の余地などなかった。
けれど私達が乗る車のフロントガラスはひびで曇ってしまい、これを除去しなければ走行出来ない。そして、風穴の開いた危険な車に主人らを乗せるわけにはいかない。
私と父は、比較的損傷の少ない前方の護衛車へ乗り換えることになった。
移動前、父はしきりに護衛隊長に安全を確認していた。護衛隊長は、前方で捕縛しているのは車を止める役割の囮連中で、主力である実働部隊は後方で全滅させている。大丈夫だと請け負った。
安全が確保されているのは分かったが、全滅というその単語を耳にした私が蒼白になったのは言うまでも無い。
父に促され車を降りたが、襲撃があった直後、その現場に足を下ろすのは緊張した。本来なら乗り換える車を横付けにして、移動距離を最短にするべきだが、細い山道にそんな幅はない。
私は父に庇われ、その父は護衛に守られながら、慎重に前の車へ移動した。
知らず周囲に視線を巡らせると、盗賊が倒れていたと思しき地面に、生々しく血の跡が残っている。冷や水を浴びせられたような気持ちで目を反らし前を向くと、護衛の一人が車のドアを開けて私たちを待っているのが見えた。
あそこまで行けば大丈夫。
震える足を叱咤し、私は一歩一歩、慎重に歩いた。
前の車に辿り着く頃には緊張でへとへとになってしまったが、何とか自力で歩き切り、私はほっと息を吐いた。労いの言葉を掛けてくれる護衛に笑顔を向け、ギクリと固まった。視界の端に、道路脇に拘束された盗賊団の生き残りが入り込んだのだ。
手足を拘束され、うつ伏せに並べられた姿は、まるで平形の冷蔵庫に陳列された生魚のよう。鎌首をもたげて周囲を見回している者もいて、その動きがやけに卑屈で気分が悪い。おまけに、側で後ろ手に縛られ座らせられている一団は、体格からして女子供だ。多分盗賊団の身内だろう。私は薄暗い気持ちになった。
大人の都合で戦場へ駆り出されたり、犯罪の片棒を担がされたりする未成年の話は、旅行前に教わっていた。
目にしたとしても、決して情に引っ張られてはいけないよ。
商家らしい柔らかな表現で諭す父に、その時の私は分かった顔で頷くだけだった。
実際に目の当たりにして確かに気持ちは引っ張られた。だが、それは同情ではなく、嫌悪の方へだ。
ほんの数分前、彼らは私達に発砲した。ここで死ねと、明確な殺意を込めて。
……同じ人間とは思えない。
恐怖で動揺する私には、彼らを憐れむ余裕などなかった。
「お嬢さん、早く乗ってください」
私ははっと我に返った。思わず見入ってしまった私の背を、護衛が促すように押す。立ち止まった事を詫びながら、私は車に乗り込もうと彼らから視線を外し、「?」となって、再び視線を戻した。
どこかで見た顔が混ざっている。
もう一度、盗賊らの顔ぶれを一巡し、固まった。あの少女だ。私に虹の石を手渡した彼女が、座り込む一団の中にいる。
私はあんぐりと口を開けてしまった。
全く以て状況が理解出来ずに棒立ちでいると、少女が私に気付いた。
最初に現れた時と同じように、おずおずと縋り付くような上目遣いを私に向けていたが、隣の女に話しかけられ、すぐに顔を背けてしまった。
私はと言えば、衝撃的かつ早過ぎる再会に、完全に茫然自失状態だ。父が私の名前を呼びながら肩を揺すっているが、頭の中は真っ白で、返事をするどころではない。
何がどうしてこうなった? 視覚から得た情報を元に、私の頭が答えを求めて高速回転する。
(彼女は家に帰る途中、盗賊に捕まり襲撃に利用されてしまった。それは大金を持っていたからで、いや待て、何故お金を持っているとバレた?)
(! 分かった、盗賊共は元より彼女の持つ石を狙っていた。それが捕まえてみれば、石はお金に変わっていた。盗賊共は怒り狂い少女を尋問、憐れにも怯えきった彼女は、私に譲ったと白状してしまった)
(な、成程、それで私たちの車が襲われて………………………………、本当に?)
(そんなややこしい物語をでっち上げなくても、もっと簡単な答えがあるよね?)
空回る頭がそれらしい経緯を作り上げる一方、胸の奥には真逆の疑惑が広がっていった。
まさか、そんな。
思考を遮る音量で鼓動が脈打つ。視界が揺れるような気がして、私が卒倒しかけていると、それまで大人しく転がっていた盗賊共が、急に騒ぎ始めた。
見張りを務めていた護衛が無言で彼らに銃口を向ける。隙の無い動きでいつでも発砲出来ると威圧するも、盗賊共は開き直った様子で口々に罵倒を、私の国の言葉で、しかも私を睨みながら飛ばし始めた。
彼らとは車二台分ぐらいの距離があり、うつ伏せの不自由な体制で叫んでいるので、何を言っているのか上手く聞き取れなかったが、憎しみを込めた視線の先は、間違いなく私だ。
砂埃に汚れた顔を怒気で歪め、異様にギラつく目で一斉に睨んでくる盗賊共に、私は怯んだ。ここまで激しく憎悪をぶつけられたのは、生まれてはじめてだ。拘束され、身動きが取れないとはいえ、大の大人に、それも大人数から敵意を受け、私は恐怖に慄いた。
それでも盗賊共の聞き取りづらい発音から、何とか意味を拾い上げてみると、
――あの小娘が、我々の子供の石を取り上げた!
――偶然拾った綺麗な石を見せると、欲を出した小娘が力尽くで石を取り上げた!
――相手は金持ちの権力者、怒りを買うのを畏れて、子供は泣く泣く石を差し出したのだ!
――我々は、そんな横暴さに腹を立て、石を取り返しに来たのだ!
「…………は?」
私はとんでもなく間抜けな顔になったと思う。それぐらい、意味不明な内容だった
「な、何を言っている?」
私は唖然となり、恐怖が半ば吹き飛んでしまった。私を車に乗せようとする護衛を押しのけ、
「私は、彼女から石を買っ、引き取っただけだっ! 見返りもちゃんと渡しているっ。お前達こそ、む、無関係な人間を巻き込んでおきながら、何て、言い草だっ!」
盗賊共に人差し指を突きつけ激高するも、途中で声が上擦った。自分の言動に不自然な点があると気付いているせいだ。そこを突かれると、辛うじて保っている強気が一気に崩れてしまう。妙に冴えた頭が指摘するその点から、私は必死に目を背けた。
私の反論に触発されたのか、盗賊共が一層がなり立てる。普段から溜め込んだ外国人への鬱積だろう、成金だの簒奪者だのと、父をも侮辱する暴言まで吐かれ、私はかっとなった。
「だ、黙れっ、このっ盗人共がっ!」
言い返そうと身を乗り出す私を、護衛が片腕を開いて遮った。
「お嬢さん、相手をしないで。早く車に乗って!」
私の視界から盗賊共を遮ると、護衛は首を巡らせ、見張りに黙らせろと合図を送る。だが、威嚇するだけで発砲しないと悟った盗賊共が、大人しくなるはずなどなかった。獣のように騒ぎ立てる盗賊共の罵声を聞きながら、私は、
(ど、どうしよう……)
(このままじゃ、盗賊共の言葉通り、私があの子から石を取り上げたことにされてしまう)
(けど、反証しようにも、石以外に物証はないし、そもそも石を持っていること自体が、彼らの言葉を裏付ける物証なわけで)
(ああ、もうっ、そうじゃなくてっ!)
何とか誤解を解かなければと、私は必死に考えた。
そう、私は完全に冷静さを失っていた。と言うより、混乱していた。
ここで盗賊共に事情をつまびらかにしたとて、意味は無い。己の潔白を、誰に対して証明しようしているのか。それを見失うほど、私は取り乱していた。
思えばこの時、最初に感じた疑惑の終着点を、うっすら予感していた。車に乗らず、こんな危険な場所に踏みとどまろうとしたのは、その終着点を回避する材料を、必死に探そうとしていたからだった。
「――話は後で聞こう。だから今は、大人しく車に乗りなさい」
とうとう、父が固い声で言った。
厳しい口調に、私は心臓が止まりかけた。まさか、父は、盗賊共の言葉を真に受けて、私が彼女から石を取り上げたと疑っているのではないだろうか。
後ろから私の肩を強く抱き、車内に押し込もうとする父に、私は必死に言い募った。
「確かに石は持ってるけど、それはあの子から買っ、引き取っただけで、絶対に取り上げてなんかないわっ、本当よ。高価な石を持っていると知られて困っているというから、けど、そう、きっと石を狙っていた盗賊に捕まって、私達を襲うのに利用されて、それでっ……」
舌をもつれさせながら、私は必死に少女の無罪を主張した。
父は、黙って私の言葉を聞いてくれたが、透徹と見返す眼差しは、私が何を誤魔化そうとしてるのかを、正確に見抜いていた。
私は徐々に力を失っていった。
「ち、違うの、そうじゃ、なくて……」
それでも私は往生際悪く、助けを求めるように拘束される少女の方を向いて、色を失った。
女子供らの一団もまた、盗賊共同様、私に向かって怒号を飛ばしていた。
あの少女も含めて、全員が、だ。
特に彼女は、滂沱と涙を流しながら、懸命に叫んでいる。
――お前なんかに石を見せるんじゃなかった。皆、お前から石を取り戻そうとしてくれただけなのに、なのに、殺すなんて、ひどいっ、この人殺し!
何も知らない人間がこの場に居合わせたら、間違いなく彼女の言葉を信じただろう。それほどまでに、真に迫った演技だった。
私は呆然となった。ここまで臆面も無く嘘を並べ立てられ、逆に自分の記憶違いを疑いさえしたが、そんなバカな話があってたまるものか。
だが、あまりの衝撃に、私は何も言い返すことが出来なかった。
体が震えた。どっと全身から嫌な汗が噴き出す。石を返せと盗賊共が騒ぐ声がやけに耳に付く。
「わ、私、ちゃんと、引き取るって……」
少女の弁護をしようとして、無理だった。私が信じようとしていたのは少女ではなく、下らない嘘に騙されるはずがないという自分自身だったと、もう頭の芯まで理解していたからだ。
銃撃された時の、命の瀬戸際に瀕した恐怖とは別種の恐怖が、凍てつくように胸に浸透する。
私は彼女に嵌められた。石は、襲撃を正当化するための小道具だった。
私が石を取り上げたかどうかは最早問題ではない。盗賊共の口車に乗せられ襲撃の口実を与えた。犯罪の手助けをしてしまったという大問題の前ではただの些事だ。
そして父も護衛らも、この襲撃が私のしでかしが原因であると、もうとっくに気付いている。
この惨めさを、どう表現したら良いのか分からない。あんなに頼もしく守ってくれた防弾車も護衛達も、父さえも、今の私を守ることは出来ないだろう。心も体も裏返しにされ、中身を全部、路上にばらまかれたような虚無感に、私は項垂れた。
「……さあ、乗ろう」
静かに促す父に、私は従うしかなかった。
ドアが閉じると、途端に外の音が遠くなった。盗賊共はまだ喚いているが、聞こえるのは声と言うより、くぐもった水の音だ。
奇妙に静まりかえった車内で、私は俯きながら自分の愚かさを呪った。隣に座った父は、無線機で護衛と連絡を取り合っている。
……父は、見え透いた嘘にあっさり引っかかった私を見て、どう思っただろう。
落胆したのは間違いない。普段は澄まし顔で大人ぶっている癖に、いざ外に出てみれば、舌先三寸の嘘に踊らされ醜態を晒したのだ。護衛らの前でさぞ気まずかっただろう。人の真意を見抜けないと、商家としての将来性を危ぶんだかもしれない。だが、優しい父の事だ。未熟な娘を憐れみもしただろう。
苦い自嘲に口の端が歪む。顔向けできないとは正にこのことだ。
私は膝に置いた手で服地を強く握り、はっとなった。それは服地ではなく、ポシェットだった。
ここでようやく、私は膝に乗せたポシェットに意識が向いた。車の座席に座るとき、膝の上に手荷物を乗せる慣習を知らず行っていた私は、弾かれたようにポシェットから手を離した。強く握ったせいで型崩れを起こした外布の中には、あの石が入っている。膝に硬質な感触と重みを今更ながら感じ、肌が粟立つ。
さっきは縋るように握った石が、今は雑菌まみれの汚物に思えてならない。今すぐにでも窓を開け、ポシェットごと石を投げ捨てたい。
そんな衝動に駆られていると、こんこんと、窓ガラスをノックする音が聞こえた。
見ると、運転席側の窓の向こうで、護衛隊長が窓ガラスを叩いていた指で窓を開けるよう示している。指示を受け、運転手は確認するように父を振り返った。無線機を下ろし、父が了承すると、何と、私の横の窓ガラスがするすると下がっていった。
理由を尋ねる間もなく、
「どうぞ、お嬢さん」
そう言って半開きの窓から、護衛隊長が何かを包んだハンカチを差し入れた。どこか見覚えがあると目を細め、気付いた。あの少女が石の代金を包むのに使ったハンカチだ。
何故を問うように護衛隊長を見ると、彼はくわえタバコを外し、
「あの嬢ちゃんに石を返してきましょうか」
何食わぬ顔で言った。
私と少女が行った秘密の取引は、実はバレバレだったらしい。
後を付けていたのかと、私は不愉快に眉を寄せるが、尾行していたのは少女の方だったそうだ。
「パーティー中、あの嬢ちゃんが旦那さん方の客室に入るのが見えてね。ゴミの回収にでも来たのかと思ったが、周囲を警戒してどうにも怪しい。そんで部下の一人を様子見に行かせたら、何やらこそこそ荷物を漁っている。金目の物でも抜き取ろうとしてるんじゃないかと思って、トイレの場所を尋ねる振りして声を掛けたら、あの嬢ちゃん、ごにょごにょと言い訳して逃げ出したんだとさ。
旦那さんには報告したが、余所様んトコの使用人の不始末なんざ、変に騒ぎ立てると面倒だってんで黙って置くことにしたんですよ。で、悪さしないよう見張ってたら、今度はお嬢さんに近づいていくじゃないですか。これは宜しくないって事で、ちょっとつけさせてもらったんですわ」
私は驚いた。あの時、周囲に人が居ないことは充分に確認したつもりだった。人がいる気配だって微塵も感じなかったというのに。
だが、今はそこに驚いている場合ではない。
「じゃあ、私があの子から石を、その」
買ったと素直に言い出せないのは、その行為に、私が少なからず後ろめたさを感じているせいだったからだが、護衛隊長はにかっと笑って、
「随分と気っぷの良い支払いで。まあ、あんなもっともらしい話をつらつらされちゃあ、信じるのも無理はないでしょうな」
揶揄うように笑われて、私は盛大に脱力した。
少女から石を奪ったと疑われているのではないか、密かに危惧していたのを軽快に笑い飛ばされたのだ。それどころか、私の行動の全てが筒抜けだったらしい。
恥ずかしいやら情けないやらで、赤面しながらがっくりとなる。
「思えばあの時、皆さんの荷物の中に石を忍ばせようとしたんでしょうなあ。後で盗まれたと因縁付ける気だったんですよ。そいで失敗したら襲うって寸法でさあ。はなっから計画してたんだ」
言外に、この襲撃は私のせいではないと含ませ、護衛隊長はハンカチ包みを振った。
「あの娘っ子、石の代金を貰ったことを、周りに黙っていたみたいですね。石は返してやるから受け取った金は返しなって言ったら、周りの連中、目を剥いて、どういうことだと問い詰め始めてね。今、内輪揉めしてますよ。さっさと石を返してやりましょう」
言われるまま、私はポシェットから石を取り出そうとして、手を止めた。
……これでいいのだろうか。
私に責任はないと、皆は言ってくれる。騙した方が悪いのだと。当然だ。人を騙すなど、最低な行為だ。
だが、自分を過信し過ぎたのも事実だ。そんな私が、皆の助けに安穏と落ち着くだけで良いのだろうか。失敗を、全て預けてしまっていいのだろうか……。
「――いや、いい。石はこのまま私が貰う」
私の言葉に、父と護衛隊長が顔を見合わせる。
「お嬢さん。その石、気に入ったのですかい?」
護衛隊長がわざと陽気に言ってみせた。
「そうじゃない。この石は私の失敗の証だ。だから、これの後始末ぐらいは、私がやりたい」
私は恐る恐る父を見た。
「いいですか?」
父は、厳しい顔をしていたが、怒っているわけではないようだった。
充分に間を置いて、父は頷いた。
「どうするか、自分でよく考えなさい」
程なくして、車が発進した。
前を見つめる私の目に、背後を映す液晶バックミラーの映像が入る。
道路脇に放置された盗賊団が遠ざかっていく中、私はあの少女を見た。
その時彼女が見せた表情を、私はこの先も忘れないだろう。
険のある上目遣いに、唸り声が聞こえそうな口元、憎悪で濁った顔つきは、場慣れしたならず者のそれだった。
道なりに車が曲がり、映像が変わるまで、私は目を離さなかった。
その後、治安部隊の検分によって、盗賊団の正体は山間の村民であると発覚した。
村民は、山道を抜ける旅行者相手に商売をしながら、実入りの良さそうな獲物を物色、殺略を繰り返していたらしい。
数年前から旅行者の行方不明事件が相次いで発生しており、近くの山村民が犯人ではないかと囁かれていたが、証拠は出なかった。
町でも旅行者相手の宝石売買で頻繁にトラブルを起こしており、時には暴力事件にまで発展するなど、村の悪評は付近では有名だった。
流血沙汰にまでなっておきながら逮捕に至らなかったのは、旅行者の方が先に窃盗を働いたという山村民の証言通り、旅行者の荷物から彼らの所有物である宝石がいつも見つかったからだ。
事件を起こす度、奪われた財産を取り戻すためだと正当性を主張してきたが、今回の事でその拙いカラクリが露見した。もう言い逃れは出来ない。
事件を受け、治安部隊は実行犯の他、山村民全員の身柄を確保した。実働部隊が壊滅したこともあり、目立った抵抗はなかったという。
余罪も含めて取り調べは慎重に行うというのが、現段階での報告だ。
◆
「これで話は終わりだ。感想は?」
挑発的な笑顔を向ける少女に、研磨職人は、はあ、とため息一つ、
「皆さんご無事で何より」
「もっと気の利いた事は言えないのか?」
研磨職人、今度は片手を上げ、
「今後、物を買うときは、レシートを貰い忘れないよう気をつけようと思いました」
「ああ、全くその通りだな」
苛つきながら同意する少女に、研磨職人は疲れたようにもう一度嘆息した。
「正直肝が冷えたよ。君のお父上が負傷したとか、取り返しの付かない事態になったとか、いつ言い出すのかとヒヤヒヤした」
「そんな事になっていたら、こんなところで暢気に石の研磨を依頼するわけないだろう」
「ごもっともで」
小馬鹿にしたように半眼になる少女に、研磨職人は軽く空を仰ぐと、うん、と頷き、
「まあ、とにかく、本当に残党を心配する必要はなかったわけだ。噂を聞いて、急いで市場から引き返してきたが、とんだ骨折りだ。こんなことなら、もっと仕入れに時間を掛けるべきだった。ルースを売ることも出来ただろうに。……ま、売れた試しはないが。何にせよ随分と時間を無駄にしてしまった。しかし、良い石を磨ける機会が巡ってきた。悪くない。
君、石の研磨を引き受けよう。期限は夕方だったな。時間は十分だ。さて、どうカットしようか。見栄えを優先して、大きく一つに仕上げたいところだが、それでは値が張る。君と同じ年頃なら、ブローチやペンダントトップ向きの、指先で扱える大きさが喜ばれるか」
急にやる気を出した宝石職人に、少女は少々鼻白んだ。
「今の話を聞いて、気味が悪いと思わなかったのか」
「それは何に対しての感想だ?」
「詐欺の小道具に使われてきたこの石に対してだ。人の善意を何度も踏みにじってきた石だぞ。場合によっては、被害者の血で汚れたかも知れない」
「表面は全部削る予定だ。それにこの結晶なら、内部に水分が染みこむような心配もないだろう。問題ない。それに石ってヤツは、元来、色々な物質が固まったり堆積したりして出来ている。大量死した生き物の死骸が層になった物だってあるんだ。気味が悪いと思うなら、石と付き合うのは止めた方が良い」
「話の方向性が違うっ」
話をはぐらかされたと感じたのか、少女は苛立ち混じりに食ってかかったが、研磨職人はどこ吹く風で、淡々と続けた。
「鉱山資源の取り合いで戦争になることは珍しくない。もっと多くの血を吸い上げた石はいくらでもある。この石が特別深い業を背負っているわけではない」
「それは、そうかもしれないが」
少女は気をそがれた様子で口ごもった。研磨職人は、ふうん、と興味深そうに目を細める。
「その辺りの事情は流石に理解しているようだな。なら分かるだろう、今、君のお父上が廃坑の再開発計画に参画なさっている理由が。
植民地時代からの鉱山経営者ってのは、そりゃあ、ひどいもんさ。独立戦争で叩き出されたのをずっと根に持っていたんだろうな。南方大陸が皇位継承問題で荒れている隙に、口八丁でめぼしい鉱山の利権をかすめ取ったんだ。これに腹を立てた地元民が抗議をすれば、私兵を使い、力尽くで黙らせるんだから、一体どこのヤクザ者だ。資源と利益を吸い上げるだけ吸い上げ、南方大陸を植民地時代へと逆行させた。いや、彼らの言葉を使うなら新植民地、経済植民地か。何がどう違うのか、凡人には皆目見当も付かないが、この経済支配が、後の内戦勃発に一役買ったのは間違いない。
で、そのあこぎなやり口が問題になると、連中、尻に火が付く前に、私兵を使い鉱山を発破、証拠隠滅してとんずらよ。おまけに素知らぬ顔で、戦争資金を絶つだの何だのともっともらしい御託を並べて資源の流通に制限をかけるもんだから、本当にどうしようもない。
内戦で困窮している時に主産業を締め付けられ、南方大陸は混乱の極み、今以て世界有数の紛争多発地域だ。
――ふうん、しかし成程。盗賊共の思考が少し読めた気がするぞ」
「いきなり何だ?」
独りごちる研磨職人に、少女が怪訝な顔を向ける。
「再開発計画には、そいういった前例を踏まえて、なるべく地元の治安や経済に貢献しよういう思想が組み込まれている。その方が資源を安定供給出来るからな。計画を立ち上げ、これに参画しているのは、新旧植民地経営に全く関与していないか、あるいは近年になって成り上がった新参のどちらかだ。金はあっても、南方大陸での伝手はない。代理人を寄越さず、わざわざ本国から現地まで赴いたのが何よりの証拠。おまけに、子供に大金を持ち歩かせるような迂闊さなら、ちょっと嵌めてやれば、簡単に金をゆすり取れると思ったんだろう。殺して身ぐるみ剥いでも、地の利を生かして隠蔽も容易い。護衛も雇用主の意向を汲んで、派手なドンパチなぞ仕掛けてこないだろう、と、こんな皮算用だ」
「腹の立つ想像だな。だが、こちらを舐め腐っていたのは確かだ。随分と見くびられたものだよ」
ふんっ、と少女は忌々しげにそっぽを向く。
「王様気取りの経営音痴が順当に没落した。これを受け、南方大陸との関係見直しが本格的に迫られた。共栄を念頭に、後の世に禍根を残さないよう、穏当に交渉を進めようというのが昨今の潮流だ。
だが、現地の人間の中には、そういった地元への配慮をお人好しと捉え、横暴な態度を取ったり、無理難題をふっかける奴らが多少なりとも存在する。
奴隷根性が骨身にまで染みついたのか、他人に頭を押さえつけて貰わなければ自己管理が出来ない未成熟な連中だ」
「それは、そんな幼稚な奴らに騙された私への遠回しな嫌味か」
少々卑屈に反論する少女。研磨職人は肩を竦めた。
「まさか。彼らは時々信じられないほど恥知らずな嘘を吐く。まともな感性と悟性を備えていれば、まずは相手を信用しようとするし、嘘も、あまりにも安っぽ過ぎると、かえって見抜けなかったりする。それを騙しやすいと嗤うなら、既に人間として終わっている。
君、盗賊共に色々言われたようだが、気にすることはない。鉱山経営には、必ず地元の有力者が絡んでくる。自国で上がりだけを管理する経営者に代わり、直接現場を監督してきたのは、雇用主と共謀する彼らだ。私兵の口入れも請け負っていたようだが、素行の悪いならず者が多かったと聞く。盗賊共はそういう連中のなれの果てだろう。外国語に不自由しない時点でお察しだ。
旧経営陣が逃げ出すと同時に縁切りされ、泡を食っているとは聞いていたが、身持ちを崩して盗賊稼業に転職、いや復職か。傍迷惑な話じゃないか。
それで、盗賊団と君たちを招待した土地の名士とやらとの関係は?」
「現在調査中だ。お父様が指揮を執っていらっしゃる。すぐに解明するだろう。名士は否定しているが、使用人の中に盗賊団の一味が紛れていたのは事実だ。その上でどんな弁明をしてみせるのか、楽しみではあるよ」
「君のお父上は仕事が早いね。しかしその場で盗賊団全員を始末しなかったのは、随分と寛容だ」
父親の事となると、少々神経質になるらしい。少女はムッとして、
「温情をかけた訳ではない。後始末を委任することで、今後の方針を決めようとなさっているのだ。
名士の思惑がどこにあるかはともかく、今後、採掘権の交渉で、彼らは大幅に譲歩せざる終えなくなるだろう。私達にとっては追い風だ」
「なかなか強かなご様子で」
どうだ、と父親の偉大さをここぞとばかりに自慢してみせる少女に、研磨職人は軽く合いの手を入れ、
(まあ、娘が一緒だったわけだし、流血沙汰は最小限にとどめたいよな)
とは、流石に口にはしなかった。
研磨職人のおざなりな返答を賞賛と受け取ったのか、少女はつんと顎をそらせ、腰に手を当てる。
「当然だ。これぐらいの利益を勝ち得なければ、この業界、渡っていけない。それに、ここで弱気な態度を見せると、鉱山経営からハネられた旧経営陣らを活気づかせる事になる。懲りずに復権を狙う彼らに、足がかりを与える訳にはいかない」
「ほう。それはつまり、身近に旧経営陣がいるということか。南方大陸を荒らすだけ荒らしておきながら、平和をかたる二枚舌が」
「あー、それは」
少女は明後日の方向に視線を向け、言葉を濁す。少々投げ槍な態度の少女に研磨職人は、
「そして君は、常日頃から、彼らを冷ややかに眺め、自分はそんな愚かな失敗はしない。胸襟開いて良好な関係を築いてみせると、密かに見下していたわけだ」
明け透けなく言われて、少女はぐっと言葉に詰まった。ばつが悪そうにむうっと頬を膨らませ研磨職人を睨むが、すぐに、はあ、と盛大に嘆息した。
「お前、本当に嫌なヤツだな。だがその通りだ。旧経営陣の者は商家のコミュニティ内にいる。ついでに言うなら、オークションの主催者はその跡取り共だ」
自棄になったのか、少女は胸を反らせて威張りだした。
「出品された品が微妙で、参加者が誰も入札しなかった場合、出品者に恥をかかせないよう、主催者の誰かが落札する算段になっている。そうやって自分達の公平性をアピールしているんだ。あの人達、上っ面だけはいいからな。ま、バレバレだけど」
彼らを思い出しているのか、不愉快そうに語る少女に、研磨職人ははたと手を打った。
「ははあ、成程分かった。君はその跡取りらに石を落札させたいのだね。曰く付きの石を彼らに押しつけることで、今回の鬱積を晴らしたいわけだ」
「う、うるさいっ」
少女は今度こそ激高した。その顔が狼狽えたように紅潮しているのは、図星を指摘されたせいだろうが、否定しないところをみると、八つ当たりの自覚はあるようだ。
「それぐらいの当てつけは構わないと思うがね。実際、彼らの尻拭いで面倒な目に遭ったわけだし」
痛いところを指摘して置きながら、しかし特に咎めることなく、むしろフォローを入れる研磨職人に、更なる嫌味を警戒していた少女は肩透かしを食らった顔になる。
が、すぐに気を取り直し、
「それだけじゃない」
少女は苦々しく言った。
「主催者の言動が胡散臭いのは皆承知しているが、それを差し引いても、自分が何かを与える立場にいると本気で思い込んでいる者が多い。善意で接すれば、相手も同じ善意を返してくれる、親切にした相手が自分に嘘を吐くはずがない、そんなバカバカしい思い込みがはびこっているんだ。近い将来、私と同じように痛い目を見る者が現れるのは明らか。そんな未来を回避するため、人付き合いの指標として、石と共に私の体験談を提供しようと考えている」
開き直った様子で断言する少女に、研磨職人は素っ気なく、
「無駄だと思うぞ。他人の教訓を聞き入れる素直な心はあっても、結局は他人事だ。大体、そんな話は本やネットに溢れかえっている。なのに世の中はいつまで経っても昨日と同じ、どうしようもない毎日だ。心打たれる誰かの体験談が、人や世の中を変えることはない。自分の失敗でしか、人は経験を磨けないよ。
――まあ、石を手放すには良い口実にはなるだろうが」
研磨職人の嫌味に、少女は反論してこなかった。ムスッと押し黙り、そっぽを向く。
彼女の真意がそこにあるのは容易に知れた。
研磨職人は少女の手元に視線を向けた。石を持つ少女の手は常に強ばっている。ハンカチ越しとは言え、手に持つのが嫌なのだろう。
(無理もない)
盗賊との銃撃戦を経験し、その上で人の世の醜悪な一面を目の当たりにした。さっきは軽く流したが、実際に石の業を目の当たりにして、何も感じない方が問題だ。多感な年頃にそんな大事件に遭遇すれば、物の見方や考え方は、本人が自覚する以上に変わってしまう。相手の嘘に感化されて、虚言癖がついた様子がないのは幸いではあるが、勢い込んで石を手元に残した事を、今は後悔しているのだろう。
(ま、石を売ると言ったが、手に入れた経緯をつまびらかにするなら、別段問題ないだろう。買う買わないは、人の自由だ)
他人事に考え、研磨職人は仕切り直すように言った。
「さて、いらぬ長話をしてしまったな。どう研磨するか、具体的な話をしようか」
研磨職人はキャンピングカーから持ち出した日除けとテーブルセットを設置すると、少女に座るよう促した。
開けっぱなしのキャンピングカーのドアから中を覗き込んだ少女は、内部のごちゃつき具合に顔をしかめ、
「ここで寝泊まりしているのか?」
「いいや、宿は別に取ってある。日中、ここで石の研磨をするために、機材一式を積んで移動している」
「わざわざこんな場所で石を磨く意味でもあるのか?」
「昔はあったが、今はない。謂れを話すとまた長くなってしまう。石を研磨した後、時間があればその時に話そう」
テーブルを挟んで向かい合わせに座り、機械に掛けた石の画像を示しながら商談は行われた。
少女は、カットの種類は一任するが、ルースは三個は欲しいと言った。
「つまりオークションの主催は三人か」
「いちいち指摘するな」
「私の取り分を入れると、四個以上は必要だな」
「そして私の話を無視するな」
ジト目の少女など眼中に入れず、研磨職人はうーんと唸った。
「どう頑張っても、不純物が入るルースが一つ出る。これを研磨代金として貰いたいが、どうだろう」
「構わないが、本当に代金はそれでいいのか?」
「ああ、すぐに使う予定だ」
「使う、のか……」
少女は困惑顔になったが、深く追求はしなかった。理由を求めれば答えるだろうが、この場所で石を研磨する理由と同じで、説明が長くなりそうだと、何となく察したらしい。
「お前は本当に変わり者らしい」
少女は諦めた口調で言った。研磨職人は素っ気なく、
「常識は弁えているし、契約も遵守している。上辺の評価に振り回されていては、客商売は成り立たない。それにこうして、時折君のように研磨を依頼に客も来る。問題ない」
と、不意に気付いて、研磨職人は改めて少女を見た。
「しかし君、私の元へ来たのは、例の彼女の話を聞いてだろうが、よく騙された相手の言葉を信じる気になったな」
「? 何を言っている」
少女は一瞬きょとんと瞬いた。
「外国人の研磨職人を捜しているが、心当たりはないかと市場で尋ねて回ったら、時々、町外れの岬にキャンピングカーでやって来る外人がいて、多分東方人だろうが、そいつが研磨をやっている。
車に持ち込んだ機材で石を磨き、市場で売ったり、石を仕入れたりしているが、日暮れ頃に妙な事をやっている。腕は確かだが、どうにも気味が悪いから、不用意に近づかない方が良い。と、片っ端から返ってきた。町ではかなり噂になっているようだが、気付かなかったのか?」
無表情で固まる研磨職人に、少女は呆れ返って、
「ルースが売れた試しはないと言っていたな。思いっきり売り上げに影響しているではないか」
馬鹿にするどころか、むしろ心配そうな少女の視線を受け、研磨職人は、ふうむと唸った。
「それは間違いなく私の事だが、そんな噂が立っているとは知らなかった。しかし妙とはどういう了見だ。全く身に覚えがないぞ」
憤慨しつつ研磨職人は、ふと、少女が大勢の護衛を伴っているのは、自分を警戒してのことかもしれないと思いついて、流石に複雑な気持ちになるのだった。
打ち合わせを終えると、研磨職人は石を機械から外した。透明な結晶を光に翳し、矯めつ眇めつ感心しきって、
「しかし本当に良い石だ。肉眼で確認できる傷はほぼない。鉱物標本として、この形状を維持しておきたいぐらいだ」
「……何も起きなければ、そういう選択肢もあった」
暗い声で言う少女に、研磨職人は石をトレーに置くと、機械を操作しながら、
「君を騙した者のように、石に想像を巡らせるのは自由だ。だが、石はどこまでも石だ。そしてこの石は美しい。見事なまでに」
「……そうだな」
石を見ながら少女がぽつりと落とした。
「大金とは言え、お金で買ってしまって、申し訳ないと思った。あの子が喜ぶような物と交換した方が良かったんじゃないかと。……本気で思ったんだ」
ここにきて、騙された怒りよりも、少女の話が全部嘘だった事の傷がうずき出したらしい。
一時的とはいえ、石が手元から離れて、気が抜けたこともあるかもしれない。
トレーに置かれた石を少女は暗い目で眺めた。強気な態度は見る影もなく萎れ、力なく肩を落としている。黙って少女に付き添っていた女性の護衛が、気遣わしげに少女の背に手を回した。
落ち込む少女に、研磨職人は、
「では、契約書にサインを」
情緒もへったくれもない実務的な言葉に、少女は力なく息を吐いた。白々と、
「お前、無神経だとよく言われるだろう?」
「よくではない。時々だ」
「……一応、自覚はあるんだな」
心外だと言わんばかりに鼻を鳴らす研磨職人を、少女は疲れた顔で眺めた。
石を研磨する間、町へ引き返すのかと思ったが、ここで時間を潰すと少女は言った。岬のあるこの場所は、空港へと続く海沿いの道路の側だ。初めから町に戻るつもりはなかったらしい。
ただ、岬周辺の観光資源と言えば、見晴らしの良い海だけだ。研磨作業が終了するのはどんなに早く見積もっても夕方前。それまで退屈するだろうと思ったが、事件のゴタゴタでやり損ねた学校の課題があるとかで、まとめて消化するには丁度良いらしい。昼食も車に積んで来たとかで、用意周到な事だ。
作業場にしているキャンピングカー後方以外なら好きに使って良いと言い置き、研磨職人は作業に入った。
根を詰め過ぎないように、休み休み作業をしつつ、ふと窓から少女の様子を伺えば、テーブルセットに端末やノートを開いて勉強に励んでいる。
護衛達は少女の邪魔にならないよう、遠巻きに周囲を警戒しているが、どことなくのどかな光景だ。
時折海から潮風が吹く。すぐに吹き抜けてしまうので、磯臭さは少ない。本格的に暑くなる前の、過ごしやすい気候だった。
「岬の先端に古い敷石があるが、何かの遺跡かね?」
何度目かの休憩中に、護衛の一人が研磨職人に尋ねてきた。中年の厳つい男で、護衛隊長と名乗る彼に、研磨職人は、
「ああ、そうだよ。だが説明は、後でお嬢さんを交えてしよう。それより、いいのかい? こんな場所にお嬢さんを置いて」
「ホテルで缶詰になるのはご免だそうだ。それに、あんなことがあったんで、現地人を警戒している。ホテルの従業員に対しても気を張りっぱなしでね。息抜きが必要だろう。お父上も了承している」
「難儀な事だ」
「まあ、起こっちまったことは仕方ない。
ところであんた、生粋の研磨職人にしては、随分自由にやってるな。金に余裕もあるようだし、本業は別かい?」
「ああ、仕事が早く片付いたんで、ちょっと遠出にここまで来たんだ。研磨は仕事というより、そうだな、役目のようなものだ」
「はあ、役目」
鸚鵡返し護衛隊長は、よく分からんといった顔つきでタバコを口にくわえる。
「そう。金剛砂って知ってるかい?」
などと、護衛隊長の職務質問じみた問いに受け答えしていると、
「研磨職人、お前の商品を見たい」
課題を終え、暇を持て余した少女がそんな事を言い出してきた。
研磨職人は車の助手席からルースを保管しているトランクケースを持ち出すと、テーブルの上で開き、中箱を外しながら、
「上がここの市場で仕入れた石を磨いた品で、下は郷里から持ってきた品だ。私の作以外に、仕入れた物もある。細工物は全部そうだ」
説明を聞きながら、少女は下の箱をのぞき込み、眉を寄せた。
「お前の郷里では、石を幼虫の形にするのが流行っているのか?」
複雑そうに言われて、さしも研磨職人も吹き出してしまった。
光に弱い石もあるから、直射日光には注意するよう言って、再び研磨に戻り、それからあっという間に時間は過ぎて、石を仕上げる頃には、海面に近くに沈む日が、水平線をオレンジ色に染めていた。
ビロード張りのアクセサリートレイに、四個のルースが置かれている。円が二つに、三角、長方形が各一つと磨き上げられたルースは、夕日を受け、切子面を黄金に照り返していた。
「――良い出来だ」
宝石用のルーペから目を外し、少女は満足げに笑った。
「短時間でこれだけの仕事をこなすとは、大した腕だ」
「最新の機械を使っているからね」
少女の素直な賞賛に、研磨職人は満更でもない様子で応えた。
「受け取りのサインをここに。しかし、ケースが一個になってしまったのは申し訳ないね」
「構わない」
慣れた手つきで少女が契約書にサインをする間、研磨職人はピンセットを使ってルースを細長いケースに収納する。綺麗に並べ蓋をするのを見ながら、少女は、
「この、一番小さい傷ありのラウンドが依頼料で本当にいいのか?」
「勿論、初めからそのつもりだ」
腑に落ちない顔で再度確認する少女に、研磨職人はあっさり言った。
「すぐに使うという話だったが」
「ああ、今すぐだ。――時間はあるな」
研磨料金として受け取ったルースを摘まみ上げると、研磨職人は立ち上がった。つられて少女も、ケースをポシェットに仕舞い、席を立つ。
「どこへ?」
「岬の先だ。さっき護衛隊長殿が敷石を見つけたと言っていたが、あれは古代の祭壇跡だ。そこまで移動しよう」
全員で連れ立って岬の先へと歩きながら、研磨職人は土地の謂れを話した。
「この辺りの海は、見た目は穏やかだが、海面下は複雑な暗礁域が沖まで続いている。船の難所でね。海流も安定せず、年に数度、嵐でもないのに突然高波が押し寄せる事もあるそうだ。
高波が起きるのは岬周辺の限られた場所で、しかも大抵は夜中の出来事だから大した被害は出ないが、翌朝、岬には、海底からすくい上げられたとしか思えない岩石が転がっていることがある。虹の石は、その中に混ざっているという話だ」
「実在したのか」
虹の石という言葉に反応した少女が、意外そうな顔で研磨職人に問いかける。
「ああ。と言っても、君の持つ石とは別だが」
研磨職人は視線を岬の先に向けたまま、
「虹の石は、その名が示すとおり虹色に輝く宝石だ。だが、実際は鉱物ではなく、鱗だったらしい」
岬の突端付近は訪れる人が少ないのだろう、祭壇跡の敷石が、背の低い雑草に紛れて点在していた。
灰褐色の古ぼけた敷石に積もった土埃を足で払い、研磨職人は続けた。
「で、その鱗だが、愚か者を貫くかどうかは分からないが、天候を操る不思議な力を秘めていたという伝説は残っている。だから昔の人は、この鱗の持ち主は海底に住まう神のお使いで、地上の様子を調べに時々やって来るのだ。高波が起きるのは、その来訪を人々に告げるためだと考えた。それでこの辺り一帯を神域としてお祀りする事にした。
岬の先まで石畳を敷き、祭壇を設け、季節の収穫物を捧げ言祝いだ。供え物の中には山で取れた宝石もあったそうだ。田畑の収穫物は、後に撤饌として近隣住民に振る舞われたが、宝石は高価な品だから、多分誰が引き取るかで揉めたんだろうな。――こうやって」
研磨職人は大きく振りかぶると、掌に握ったルースを、勢いよく海に向かって放り投げた。
「神様に引き取って貰おうと、お使いに託すことにしたんだ」
綺麗に放物線を描いて飛んで行くルースを見送りながら、少女は、
「海に宝石を投げ込んでいたのか」
「そう。最初は揉め事を避けるための苦肉の策だったようだが、宝石を投げ込むと、次に高波が起きたとき、打ち上げられる鱗の数が増えたらしい。海の神様は、どうやら宝石がお好きらしい。投げ込んだ宝石に気を良くして鱗を奮発してくれたのだと喜んで、それ以降、祭りで海に宝石を投げるようになっていった」
「ただの偶然だろう」
「信仰なんてのは、信じたもの勝ちさ」
研磨職人は投げたルースの飛距離を図るように海を眺めながら、
「その内、話を聞きつけた皇族貴族や豪商なんかも参加して、大層華やかな祭りになったそうだ。
ただ、その頃には虹の石を得るためと言うより、浄財で功徳を積もうという思想が強くなっていた。信仰が生まれると、戒律が定められる。投げる宝石も、大きさや数に制限がかけられるようになった。そうでもしないと、皆、信仰心の高さや気前の良さを自慢するために、際限なく宝石を投げるからな。
そうなると、今度は宝石研磨職人がやる気を出した。倹しい職人の暮らしでは高価な宝石は買えないが、金持ちが発注した宝石を美しく磨き上げることで、宝石と共に、自らの技術力を奉じようとしたんだ。金持ちの方も、他者の功徳を手助けしたとなれば、自分の徳は倍以上に跳ね上がると考え、悪い気はしない。
そうやって宝石研磨職人が集まり技術が研鑽され、石を取引する市場が開かれ、町が出来たというわけさ。
だが、第一次継承戦争から始まった暗黒時代によって、人々の暮らしは傾き、そいった風習は廃れていった。それでも宝石研磨職人達は、安価な石を丁寧に磨いては、この岬から投げ続けた。南方大陸再興の願いを込めて。願いが通じたのか、やがて南方大陸は黄金期を迎えた。この風習も復活したと聞いていたが、再び戦火に呑まれ、結局はご覧の有様さ。歴史も伝統も、何もかもが灰燼と帰した。辛うじて残ったのが、宝石を専門に扱う市場と町だった、というお話だ」
「成程。まあ、筋は通っていると思うが……」
話を聞き終え、少女は一応納得はしたようだが、どこか胡散臭いといった顔つきで、
「しかし、何故外国人のお前が、地元民さえ忘れた昔話を知っている?」
「郷里にはそういった伝聞が記された古文書が沢山残っているんだ。今、内戦は膠着状態だろう。危険は少ないと思って、少し立ち寄ってみたんだ」
「海に宝石を投げて、見返りに虹の石、鱗を得ようとしたのか。いい大人が、よくもまあ、そんな昔話を信じる気になったものだ」
少女は呆れ返った様子で腰に手を当てた。研磨職人を、伝説のお宝探しに熱中するダメな大人と見なしたらしいが、当の研磨職人は気にした風もなく、
「理由はそれだけじゃないが、まあ、大体そうだな。しかし、そう上手くはいかないらしい」
研磨職人は足元を見回し、諦めたように嘆息する。
「言い伝え通り、人様の石の欠片ならあるいは、と思ったんだが、高波が起きた様子もないし、時期が悪かったのかもしれない。
しかし、伝統を実践する者に対して、奇妙とは何事だ。こっちは必死で石を磨いているというのに」
町の住人におかしな目で見られていた事が腑に落ちないのか、研磨職人はブツブツ文句を垂れっぱなしだ。
「宗教行事は大抵、余人の理解に余るものだ。遙か昔に忘れ去られたのであれば尚のこと。お前の行動はさぞ奇異に映っただろうよ。近隣住民の日常生活を脅かした自覚は持つべきだ。
それで、何の生き物の鱗なんだ?」
少女の適切な指摘に研磨職人はザックリ傷ついたが、そこは咳払い一つ、大人の貫禄で取り繕い、
「さあ。巨大魚か、あるいは鱗を持つ未知の海獣か。正体は未だに解明はされていない。古い文献に、海面から岩山のような背びれを覗かせる絵図が残っているが、熱心な信者による想像図だとか、鯨か何かを見間違えたのだろうとか言われている。高波も暗礁が原因だろうという見解だ。
と、まあ、これが私がこの場所で宝石を研磨する理由の全てだが、さて、それで君はどうする?」
「はあ?」
いきなり話を振られて、少女は面食らった顔をしかめた。
「私もここから石を投げ捨てろと言っているのか? 冗談じゃない」
「悪党が懺悔のために、盗品を投げ捨てたという記録も残っているが」
「それはただの証拠隠滅だ。大体、これは私が大枚叩いて買った物だ。異国の神にくれてやる謂れはない」
つん、と少女はそっぽを向く。
「やっぱり売るのかね」
「当然だ。現実は甘くないと、人生の教訓をのし紙にしてな。甘い幻想に塞がれた目を、この石の光で射貫かれると良い」
ふんぞり返る少女に、研磨職人もまた腰に手を当て、うーんと伸びをする。
「意気込むのは結構だが、人間関係が荒れるだけだと思うがね。せいぜい、大変な目に遭って気の毒にと同情される程度だろう」
「気の毒なのは、部を弁えず私たちを襲った盗賊団の方だ」
「ならお互い様かもな」
「? 誰の話だ」
「君に石を売った少女の事だ。もし、襲撃に成功していた場合、私に石の研磨を依頼したのは彼女の方だったろう。なにせ、欠片一つで宝石研磨をするというのだ。乗っからない手はない。そして世間話に、盗賊団に殺害された同世代の外国人の話題を持ち出し、お気の毒にと悲しんで見せただろう」
「……殺しておいて、気の毒に思うのか」
少女の声が低く尖る。
「お気持ちならいくらでも。殺してしまったのはかわいそうだったが、自分達の生活のためだ、仕方ない、と、一日ぐらいは祈ってくれるさ」
「最低だ」
「まったく同感だ」
嫌悪も露わに即答する少女に、研磨職人も同調する。
「ならそんな話をするな」
「性分だ。しかし、君は彼女に勝利して、ここでルースを受け取っている。この宝石は、いわば戦利品。それを容易く人手に渡してしまうのはどうかと思ってね。口を出してしまった」
気を悪くさせて済まなかった、と、平板な口調で謝意を述べる研磨職人の言葉を、しかし少女は聞いていなかった。
「……戦利品だと? 私はこの石を買ったで、勝ち取ったわけではない」
「そう? 盗賊団から奪い取ったという触れ込みじゃなかったかね?」
「あれは言葉のあやというやつでっ」
かっと頬を紅潮させ、少女は研磨職人に噛みつく。
「私は間違いなくこの石を買った。勝ち取ったなど、そんなこと――」
語尾を萎ませる少女に、研磨職人は畳み掛けた。
「石を返す機会はあっただろう」
「それはそうだがっ!」
反射的に怒鳴った少女は、自分の大声に驚き、慌てて口を塞ぐ。
片意地張って、石を返さなかった事実を真っ向から指摘され、少女は狼狽えているようだった。
取り乱す少女を尻目に、研磨職人は続けた。
「石を売る事に感心しなかったのは、戦利品を他人に売るのはどうかと思ったからだよ。命のやり取りで勝ち取ったお宝だ。勝利の余韻と共に、一生涯手元に置いておくつもりだと思った」
海を眺めながら嘯く研磨職人に、少女はゆっくりと顔を上げた。
「……一生涯?」
力んでいた肩がゆっくり下がる。急速に怒りが抜けていくようだった。
「あんな思いをずっと覚えていろと言うのか……?」
顔から表情から抜け落ちる。薄暗く沈んでいくのは、暮れゆく夕日の為だけではないだろう。
少女はポシェットからルースケースを取り出した。
クリア素材の上蓋の向こうに、三つのルースが並んでいるのを、少女はじっと見つめた。視線はルースに落ちているが、透き通る結晶を通して、遠く、別の何かを見つめているようだった。
少女の瞳が揺れた。ふっと口の端が歪む。壊れそうな笑みを顔にはり付け、
「……冗談じゃない」
戦慄く唇が、本音を落とした。
「いらない。沢山だ。勝つとか負けるとか、そんなのじゃない。私は本当に、ただ人に親切にしたかっただけなのに。あんなに舞い上がって、バカみたいに騙されて。……それを一生涯持ち続けるとか、冗談じゃない……!」
胸に押しとどめたやるせない感情を、少女は言葉と共に、とうとう吐き出した。
「まあ、迂闊だったとは思うがね」
しれっと研磨職人が口を挟んだ。
「悪徳は善意を土台に築かれると言うが、そんな年季の入った疑惑を初対面の相手に向ける子供は正直嫌だ」
研磨職人は沈む日を惜しむように目を細める。
「君はまだ、嘘や悪意に慣れていなかった。それだけだ」
少女は無言で顔を伏せた。表情が前髪に隠れる。
少女はケースの上蓋を外すと、ルースを一個ずつ、丁寧に取り出した。
研磨職人から受け取った三つの宝石。夕日を受け、黄金色に光を弾くそれらを、少女はぎゅっと祈るように握り込む。ゆっくりと海に向き合い、顔を上げ、そして、
「っの、大嘘つきっ――!」
大きく振りかぶり、手にしたルースを海に向かって思いっきり放り投げた。
三つのルースは、キラキラと光を反射しながら、夕日と海の間に紛れ、やがて見えなくなった。
手で庇を作り、ルースの行方を見送る研磨職人の横で、少女は地団駄を踏みながら堰を切ったように怒り狂う。
「バーカ、バーカっ! つまんない嘘ばっかりっ! あんたの所の人間はそんなのばっかっ! 神様だったら、ちゃんと面倒見なさいよっ! ホントに、バカーっ! 私のっ、大バカーっ!」
騙した少女への怒り、この国と海の神への文句、そして、愚かな自分への憤り。
声が枯れるまで、少女は繰り返し叫び続けた。
◆
「という、少し昔のお話だ。
少女は悪徳に飲み込まれず、父親は娘に現実を学ばせ、南方の神へ宝石を捧げた。いずれ父娘には某の果報が届くだろう。研磨職人も首尾良く己の技術を奉納し、優秀な護衛隊のおかげで皆無事で、悪は滅びた。実に素晴らしい。どうだい、為になる良い話だろう?」
うんうんと、感極まった様子で頷く石榴屋店主に、僕は何とも言えない顔になった。どういう感想を述べるべきか、皆目見当が付かない。
良い話と言えばそうかもしれないが、何となく半端で、気持ちが晴れるような内容ではなかった。
店主は何だっていきなり、こんな話をしたんだろうか……。
考えあぐねて仲間に目を向けると、彼らも興醒めした顔つきで店主を見ていた。
つまらない長話を聞かせやがって、と、あからさまに見下した目を向けていたが、不意に一人が、閃いたと言わんばかりに、
「って事は、その海に潜れば、宝石取り放題的な?」
「あ、それ、すげー」
「その岬、どこですかー?」
……そういう見解か。
いきなりはしゃぎだした仲間達に僕は引いた。
もっと他に質問すべき点はあるだろう。例えば、そう、鱗だという虹の石は現存しているのかとか、そんな海の生物が本当にいるのか、とか。
……。
考えて、彼らと大差ないと、僕は少し落ち込んだ。
「教えるわけないだろう。さあ、話したんだから、行った行った」
「えー、教えてくださいよぉー」
「全く、しつこいね。君たち、確か学校は――」
僕らの通う学校名を口にしながら、店主は帳場の電話機に手を伸ばした。学校へ連絡を入れるつもりだ。
僕は焦った。夏休み初日に、商店で迷惑行為を起こしたと学校に通報されるのはマズい。おまけにこちとら前科持ち、今度こそ厳罰は免れない。
僕は慌てて、これ以上しつこくしないよう、仲間達を説得しようとしたが、彼らも同じように危惧したらしい。白けた顔で口々に、
「ちぇー、ケチだよなあ」
「だから客が一人もいないんだよ」
聞こえよがしの皮肉や文句を垂れながら、仲間達はゾロゾロと戸口へ移動した。
思いの外あっさり引き下がった彼らに、僕は内心ほっと胸を撫で下ろしながら、しかし、やけに聞き分けが良い事に不審を覚えた。
……もっとごねるかと思ったけど。
「おーい、早く来いよ」
出入り口で幼馴染みが呼んでいる。気付けば、僕一人が店内に立ち尽くしていた。
「分かった、すぐ行――」
小走りに駆け出そうとした、その瞬間、
「うわっ⁈」
ガクンと僕は後ろに引っ張られた。パーカーのフードが何かに引っかかった、そんな感覚だ。
「え、何?」
咄嗟にフードに手を回して、僕は振り返った。背後にフードが引っかかるような物はなかったはずだ。
と、フードを押さえる指先に、固い物が触れた。
冷たく滑らかな感触だ。それに小さい。掴もうと指を動かすが、布地を引っ掻いたせいか、それはするりと滑り、指先から逃げてしまった。
一拍後、カツンと足元から硬質な音が響くのを聞いた。僕のフードに入り込んでいた固くて小さい何かが床に転がり落ちたらしい。
訳が分からないまま、僕は足元を見回した。左右に首を巡らせ、左のスニーカーの斜め後ろに、透明な小石が落ちているのを発見した。
「……これ」
拾い上げるとそれは、小さな水晶の磨き石だった。
木箱に入っている売り物の一個だ。それが何故、こんな所に。と言うか、もしかしなくても、僕のフードの中に入っていた? けど、どうして? 今日、僕は磨き石の売り場には近づいていないのに……。
頭の中を疑問符で一杯にしていると、不意に、わっと、戸口から歓声が上がった
驚いて顔を上げると、バタバタ足音を立て、仲間達が笑いながら駆け出していく。
「やべー、失敗したー」
「バレてやんの」
「へったくそぉ」
あっははー……。
騒ぎながら走り去る仲間達を、僕はぽかんとして見送った。
「何? どういうこと?」
この段になっても僕は、自分の身に何が起きたのか、まるで理解していなかった。
呆けた顔で立ち尽くしていると、側に店主がやって来て、僕に手を差し出した。
「いいかい?」
「へ? あ、はい……」
促されるまま、僕は店主に水晶を渡す。店主は、石に欠けがないかを調べながら、
「ほお。虹入りか」
何気なく言ったその言葉を聞いた途端、僕はすっと血の気が引いた。
店主が話を始める前、幼馴染みは僕の肩に手を回してきた。アイツはずっと、展示物の側に居て、その近くには、磨き石の売り場がある……。
何をされたのか一瞬で分かった。
同時に、彼らが僕に何を期待していたのか、少しずつ分かってきた……。
このまま、何も気付かず店の外へ出てしまっていたらと考え、胸が冷水を流し込まれたように冷たくなる。
心臓が早鐘のように脈打つ。どっと嫌な汗が噴き出した。ぐにゃりと視界が歪むような気がして、足元も覚束ない。
呆然となる僕を余所に、石を調べ終わった店主は素知らぬ顔で言った
「欠けはないようだ。しかし、子供の悪戯にしては随分タチが悪い。――おや、君、顔色が優れないようだが大丈夫かね?」
「ぃえ……、そ、の」
あまりの事態にまともな返事も出来ぬまま、僕は必死に弁明の言葉を探した。
知らなかった、気付かなかった、自分は関係ない。やったのは、仲間達で。
……。
どう足掻いても、自分の無実を訴える憐れな言い訳しか出てこない。大体、窃盗を働こうとした仲間の一人が自分だ。何をどう言い繕えと言うのだ。
狼狽しきって、僕の頭の中はもう真っ白、話すどころではない。
それに、徐々に惨めな気持ちも沸いてきた。仲間に笑いものにされている姿を、赤の他人ならまだしも、小さい頃からの知り合いに晒してしまったのだ。穴があったら入りたいとは、まさにこの状況だ。
子供の頃は無邪気だったものを、下らない事をするようになったと、白い目で見られるのは勿論嫌だ。
だが、憐れみの目を向けられたなら、きっと耐えられない
僕は口を引き結び俯いた。恥ずかしさで、どこを向けば良いのか分からない。
店主は、打ちのめされる僕など気にも留めないで、布で軽く水晶を拭うと、木箱に戻した。他に異常が無いか売り場や展示物を確認しながら、
「この世に不条理にいつどこで出会うかは誰も教えることは出来ないが、起きてしまったのなら、後はどうするかだ」
僕は店主を見た。店主は普段通りの飄々とした顔つきで、龍のフィギア、たまちゃんを見上げ、よし、と頷くと、ゆっくり戻ってきた。
「君がこれからどうするかは知らんが、選べる道は二つだ。このまま彼らとの付き合いを続けるか、やめるか。君が心の中で彼らをどう思うとも、一緒に行動するなら同類だ。端から見ればそれだけだ」
混乱していた頭が、少しずつ冷えてきた。
僕は黙って店主の話を聞いた。
「友達は選べと大人が言えば、君ぐらいの年頃なら反発するだけだ。だが、そもそもさっきの彼らは君の友達かね?」
店主の問いに、僕の胸は圧迫された。
頭の片隅では分かっていた。彼らと僕の間にあるのは友情ではなく、惰性だと言うことが。
それを真っ向から指摘され、僕は視線を斜めに落とした。
暫くそうして、僕は思い切って頭を上げた。
「あのっ、……買い物しても良いですか?」
上手く話せないと思ったが、言葉は自然に口を突いて出た。
「そりゃあ、勿論歓迎だが、さっきの水晶かい?」
帳場に戻った店主は、椅子に座り直して尋ねる。
「いいえ」
僕は殊更強く否定すると、壁に並ぶルースケースから一つを選び取り、帳場へ持って行った。
それは、目にしたときからずっと気になっていた水晶のルースだった。
大きさは親指の爪ぐらい。表はなだらかに膨らんでいるが、裏は幾何学に研磨されているらしく、曲面に光が差していた。水晶の内部は少し曇りがあって、枯れ葉のような不純物も入っている。価値の低い石なのだろう、他と比べて値段も控えめだ。
けれどこの石には、僕の心を引きつける何かがあった。
「これ、買います」
僕は迷わず言った。胸の支えが外れるような気分だ。
店主はルースケースを手にして、
「ああ、これはウチのオリジナルカットでね。その中でも、上手いこといった一つだ。
しかし、良いのかい? 夏休みは始まったばかりだ。手頃な値段とは言え、
遊びに行く予定があるなら、小遣いは大切に使った方が良いぞ」
「大丈夫です」
僕はきっぱり言い切った。
「当分、遊びに行く予定はなくなったんで」
それが、僕の出した答えだった。
そうかと、呟くように言った以外、店主は余計な事は言わなかった。代わりに、さっきの話の続きを教えてくれた。
ルースを海へ放り投げ、気が済むまで喚いた少女は、それで随分と気持ちが晴れたそうだ。
目元は赤く染まっていたが、すっきりとした顔つきで、腰に手を当てると、
「ふん、お前の口車に乗せられて、ルースを全部手放してしまった。代わりにお前が磨いた他のルースを買おう。お前の奇行共々、良い土産話になる。覚悟するがいい。盛大に値切ってやるぞ」
「君、確か全財産を使い果たしたのではなかったのかね」
訝しむ研磨職人に、少女はポシェットを探り、
「口座振り込みなら、それなりに」
ケロッとした顔で携帯端末を提示した。
再びテーブルに着くと、少女は、研磨職人のトランクケースの中から手早く商品を選び出した。
「板と四角の青翡翠と、向日葵色をしためのうは楕円の方を。水晶は、白は手摺り、紅は雫。紫は原石の一部研磨品だ。細工物は鯉がいい」
研磨職人が作業に没頭している間に、ある程度、商品の目星はつけていたらしい。抜かりのないことだと研磨職人が舌を巻いていると、
「それから、この白い幼虫型の石を下げたドラゴンの置物を――」
「ちょっと待て」
しれっと少女がテーブルの下から取り出した物に、研磨職人は固まった。
キャンピングカーの助手席に置いていたはずの龍のフィギア、それを掲げ持つ少女に、
「それはウチの営業担当だ。売り物ではない。と言うか、いつの間に持ち出した」
「課題をする間、窓の端に頭が見えたのだ。これが一番気に入った。いくらだ?」
大慌てで止めに入る研磨職人に構わず、少女はさっさと商談に入るのだった。
研磨職人と少女の値引き交渉は、少女の父親が車で迎えに来るまで続いたそうだ。
「西方諸国の商家は、とにかく口が上手い。子供だと思って甘く見るもんじゃないぞ。周りの護衛らもにやにや笑うだけで止めやしないし、全く、偉い目に遭った」
店主はやれやれと嘆息した。
その場面がありありと思い浮かび、僕は少しおかしくなって、
「たまちゃんは死守したんですね」
「当然だ、大切なウチの子だよ」
今もガラスケースの上で、安穏とたまちゃんが鎮座出来るのは、ひとえに研磨職人の頑張りのおかげだろう。
思わず笑って僕は、
「虹の石は鱗なんですよね? その生き物は、まだ見つかっていないんですか?」
会話をすることで、気持ちが上向いたらしい、気になっていた事を質問するぐらいには立ち直っていた。
「目撃例は多い。特に南方大陸南西部の沿岸沿いでは、昔話によく登場する。
まあ、生物図鑑に載るのは当分先だろうが」
そう言いながら店主もまた、少し笑っているように見えた。
石榴屋の店主は、元は有名な地質学の研究者だったそうだ
生家は、古くから研磨剤を扱う商家で、そのつながりで地質学や宝石研磨を学んだが、色々あったとかで、最終的には鉱物標本店の店主に収まった。
若い頃は放浪癖があり、鉱山の再開発計画に出資する企業に請われて、南方大陸での地質調査に加わったこともあったそうだ。
そこで新たな鉱床をいくつも発見し、報酬として、副産物として産出した鉱物を安く入手したことが、石榴屋開店に繋がったという。
全部実話なんだろう。
会計をしながら、僕はそっと考えた。
店主は、仲間らに裏切られる僕を見かねて、こんな話をしたのだろうか。いや、違う、居合わせた全員のためだ。
話を聞かせることで、皆に愚かな真似は辞めるよう示唆した。だが、話半分にしか受け止めなかった彼らは、最後までその忠告に気付かなかった。
それとも、単に万引きを防ごうとしたのか。
どちらでもいいと思った。
虹の石を売った少女と、買った少女。
どちらの未来へ進むかのか、その選択を突きつけらた僕らは、それぞれ別の道を選んだ。
そして、僕が選んだ道は、自分にとって最良だったと、今は信じている。
……ただ、ありがたい気持ちは山々なんだが、何だが居心地の悪い、複雑な心境だ。
「何だかもやもやします」
「もやもや?」
「っ⁈ あ、いえっ」
会計後、うっかり心情が口を突いて出てしまい、僕は慌てふためくが、店主は相変わらずのんびりと、
「もやもやというからには気体かね? なら暫く放置すると良い。鉱物と同じで、時が経てば冷えて固まる。その頃には扱いやすくなっているだろうさ。まあ、気長に待つんだな。
おお、そうだ。ルースを持ち歩けるように、ペンダントトップタイプのケースがあってね。キーホルダーとしても使えるが、ルースを買ってくれたお客さんには割引している。どうかね?」
それは是非とも欲しいが、流石にそこまでいくと、小遣いが足りない。そう伝えると、店主はレシートに日付印を押してくれた。一ヶ月以内なら、割引は有効だそうだ。
なんだかんだとやっている内に、営業終了時間になっていた。
「さて、そろそろ閉店だ。お爺様が亡くなられて随分絶つが、君、よければまた来ておくれよ」
そう見送られて、僕は胸が熱くなった。
店主は僕を、最後までただの買い物客として扱ってくれた。
表面上は丸く収まったように見えても、次に店に来るのを躊躇ってしまうであろう僕に、言外に気にするなと言ってくれたみたいで、何だか泣きそうにさえなってしまった。
顧客に対する一般的な対応かもしれないが、僕は素直に感謝した。お騒がせして済みませんでしたと、去り際に、頭を下げることが出来たのも良かった。また、買い物に来ることが出来る。それが無償に嬉しかった。
店を出て、僕は周囲を見回した。仲間達、いや、元仲間達が僕が店を出るのを、どこかに隠れて待っているかもしれないと思ったが、店に長居し過ぎたせいか、そんな気配はなかった。
この頃には、元仲間達に嵌められた衝撃は大分薄れていた。店主と話せたこと、良い買い物が出来たことで、多少気は紛れたが、胸を圧迫するような息苦しさはまだ残っている。けれど、奇妙にすがすがしい気持ちがするのも確かだ。
夜遅く、幼馴染みから電話がかかって来た。
着信の相手を確認して、切ってしまおうかと思ったが、僕は通話ボタンを押した。
「やっほー、無事? 店から出てこないし心配したけど、あれからどうなったー?」
何がおかしいのか、笑いを含んだ軽い口調でべらべら喋る声を、僕は黙って聞いた。
「おーい聞いてるー? いやさー、あんなしょーもない長話、真剣に聞いてるし、ちょっとからかってみただけだって。怒ってんのー? あれぐらでー? いーじゃん、おもしろか――」
「もう、電話を掛けないでくれ」
一言、僕はそう言って、通話を切った。
ツーツー音を聞きながら、僕は胸のつかえを吐き出すように深々と嘆息した。
もっと強い口調で、強い言葉を使って非難したかった。気の利いた言い回しで相手をやり込めたかった。
だが、話を聞いている内に、何だかバカバカしくなった。
何を言っても通じない。幼馴染みが吐き出す無意味な単語の羅列を聞きながら、そんな隔たりばかりを僕は意識した。
僕は彼らのアドレスを携帯電話から削除した。着信拒否も設定しておく。これで関係がご破算になるとは思えない。夏休みが開け、新学期になった時の事を考えると気が重い。その前に、登校日だって控えている。群れから外れた個体がどんな憂き目に遭うか。それくらいは僕だって容易く想像出来る。
人間関係が荒れて大変な事になるだろうと、暫く不安を抱えて生活する事になったが、それは杞憂に終わった。
元仲間達は、登校日どころか新学期になっても登校してこなかった。
夏休みの間に、石榴屋でやったのと同じ事を懲りずに余所でも繰り返し、何件目かでとうとう警察沙汰になったらしい。
それがどう決着したのかは分からない。彼らと連んでいたと言うことで、夏休み中、わざわざ家までやって来た担任にあれこれ尋ねられたが、付き合いを止めてからの彼らの動向など、僕が知るよしもなく。心配そうに同席する両親と、弱り切った担任に、僕は首を横に振るしかなかった。
新学期が始まり、彼らの不在について、担任は転校したとしか言わなかった。
色々噂になったが、結局、真実は分からず仕舞い、秋が来る前には、皆興味をなくして、少しばかり数の減ったクラスにも慣れていった。
僕はしばらくは一人でいたが、体育祭、文化祭と続いた行事の準備を、班単位で行う内に、少しずつ他のクラスメイトと打ち解けていった。
「ねえ、なんであんな人達と一緒にいたの?」
出し物の看板に色を塗っている最中、同じ班の女子が、ふと思い出したように尋ねてきた。
困惑顔の女子に、僕は返答に詰まった。なんと答えて良いのか分からない。
散々悩んだ挙げ句、
「成り行き?」
そう濁すと、相手は一層不可解な顔をしていたが、何となく心情は伝わったようで、
「ふうん? でも、巻き込まれなくて良かったね」
と言ったきり、それ以上この話をふってこなかった。
実際、僕自身も、思い返せば何故彼らと連むことにこだわったのか分からない。
元より、彼らの性格はよく知っていたはずだ。陽気にはしゃぎながら、しかしその内実は、社会性を軽んじ、他者を見下し、いじらすにはいられない薄暗く歪んだ性質。底抜けの明るさは、詰まるところ、自分達なら何をやっても許されるという根拠のない思い込みに起因し、己の行動を顧みない無責任さに帰結する。
それは、危険と呼ばれる気質だ。
親を含めて周囲は、彼らと付き合うことに良い顔はしなかった。それで一層、僕は躍起になった。人を見る目がないと、僕の事をバカにされているような気がして、友情は損得ではない、性格の瑕疵を知ってなお、お互いの欠点を補い合うような関係を築く、それこそ真の友情だ。彼らは少しばかり羽目を外しすぎるけらいはあるが、その実、人間味に溢れた気の良い連中なんだ、と、こんな具合に勢い込んでいた。
バカみたいな思い込みだ。
彼らは僕のことなど、自分達の尻拭いをする便利屋程度にしか思っていなかっただろうに。だいたい生活指導部の教師が、僕に彼らの面倒を押しつけようとした時点で気付くべきだった。
新しい環境で、新たな人間関係を築くことに弱気になっていた僕は、惰性で続けた付き合いを友情だと誤魔化した。彼らを相手に一人で友情ごっこを演じて、勝手に盛り上がっていただけなのだ。
……いや、本当のところは分からない。彼らの本音を聞いたことは、一度もないのだから。
僕も、何かにつけて幼稚に振る舞う彼らを無意識に格下扱いしていたのかもしれない。そんな彼らの中で、唯一の常識人を自負し、お高くとまっていたのかもしれない。
妥協と打算の関係だ。自覚したら、もう以前には戻れない。
まだ付き合いも浅いうちに、たった一度のしでかしで縁切りなど薄情だと言うヤツはいるかもしれない。
けれど、短くない付き合いの中で、密かに溜め込んだ彼らへの不審、そのスイッチが、あの時入ってしまった。
僕にとって、石榴屋での仕打ちが、彼らの全てだった。
◆
……本当にバカだった。
中学の頃の苦い記憶が蘇り、高校生の僕は、しようもなく嘆息する。思い出すと、今でも惨めな気持ちで胸がもやつく。
黒塗りか、あるいは白抜きにしたい記憶だ。だが、あの出来事を乗り越えたおかげで、こうして石榴屋で買い物が出来るわけで。
仕切り直すように、僕は深呼吸した。
今考えるべきは、引き出しの中のしのぶ石をを買うかどうかである。
…………。
考える間もなく、買うべきだ。
というか、こんなに悩む羽目になったのは、うっかり見つけてしまったこの赤斑点の白石のせいだ。
目にした途端、強烈に引きつけられて、心のままにトレーに乗せたが、完全に予定外の買い物だ。
おのれ、こいつ、どうしてくれよう……。
などと拳を握り、トレー上の鉱物に八つ当たりして、僕は嘆息した。
今月の新刊は諦めよう。
頭の中で、小遣いの勘定をやり直す。漫画はいつでも買えるし、何とかなるだろうと、諦め半分、楽観的に結論付けた。
店内にいるのは僕と父子連れが一組だけで、後は店主が帳場に座っているばかりだ。
父子は土間で、仲良く磨き石を選んでいる。僕と祖父も、ああだったのだろうか。今となっては、遠い記憶だ。
ガラスケースの上には、相変わらずたまちゃんがいて、父子を見下ろしていた。
子供の頃は見上げる高さだったが、目線が上がり、今は少し下に見える。
上がりからたまちゃんの後ろ姿を見られるようになって久しいが、首輪につけられた白い勾玉に、綺麗な緑色が混ざっていることに気がついたのは最近だ。感慨深いというのだろうか、妙に感動したのを覚えている。
帳場でトレーを渡すと、店主は僕が選んだ石を、一つ一つ丁寧に包んでくれた。例の丸石を包もうとした店主は、ふと手を止め、
「これは確か、君のお爺様が持ち込まれた石だ」
え、と僕は驚いた。
「お亡くなりになる少し前に、数が増えすぎて、置き場所がなくなってきたから、少し引き取ってほしいと仰って持って来られたのだよ」
「はあ、そうだったんですね……」
曖昧に返事をしつつ、僕は複雑な気持ちになった。
祖父は、自分のコレクションを大切にしていたが、僕が欲しいとねだると、躊躇わずにくれた。孫のおねだりには無償で応えてくれた祖父だった。
……つまり、祖父が自分のコレクションを手放さなければ、そのまま僕が受け継いでいたかもしれない石なわけで。
僕は、うーん? と首を捻る。順当に行けば、自分の物になる予定の石を、お金を出して買うのは、釈然としないというか、何というか?
考え込んでいると、僕の思考を見透かしたように、店主が嘴を入れてきた。
「ちゃんと適正価格で買い取っているし、物には保管料ってのがあるからね」 しれっと釘を刺すように言い、値引きなどはしなかった。
確かに、言われてみればその通りかもしれない。
子供の頃の僕は、水晶のような透明感のある石が好きで、こんな丸石に興味は示さなかった。地質学や鉱物学を学ぶうちに、少しずつ好みの幅が広がり、不透明な石にも興味を持つようになっていった。
この丸石の赤斑点がガーネットの、石榴石の一種だということも、知識を蓄えた今なら分かる。
子供の僕が祖父の遺品をそっくりそのまま引き継いだとしても、結局持て余し、石榴屋に持ち込むか、あるいは他の誰かに譲っていただろう。
それを見越して、祖父は石榴屋へ持ち込んだのだろうが、けど、やっぱり腑に落ちないぞ、と、帰り道、頭を悩ませながら堤防を歩く僕は、何だか急におかしくなった。変なスイッチでも入ったのか、歩きながら声を上げて笑い出す。
周囲に人がいないのを良いことに、一人、にやにや笑いながら、僕は鞄から携帯端末を取り出した。チャラと、小気味よく音がして、カバーに取り付けたキーホルダーが揺れる。
額縁の形をしたそれは、石榴屋オリジナルのルースケースだ。中にはあの日買った水晶のルースが収められている。
夕日を丸く受ける石を見つめ、僕は一層頬を緩めた。
あの時のもやもやは、まだ胸に残っている。石榴屋の店主が言った言葉を、僕は思い出した。
鉱物のように、いつか冷えて固まって、胸の底に堆積して、それが何かの弾みで転がり出たのを、拾い上げる日が来るのだろうか。
その小石を光に翳し、中に僕は何を見つけるだろうか。
話に聞いた、遠い南の宝石の海。
そこに小石を思いっきり投げることが出来たなら、きっとどんなにすがすがしいだろうか――。
堤防を歩いていると、風が吹いて、雨の匂いがした。
山で夕立でもあったのだろうか。
誘われるように顔を上げると、見晴るかす薄水色の空の果て。沈む夕日が、山際を眩しくオレンジ色に染めていた。
海や山、河川等への石の投棄は禁止されています。
処分される際は、お住まいの自治体へお問い合わせください。