ヘブレスカン(2)
サラムはしばらくジャンを抱きしめた。小さな弟が泣いてしまって、正直にいうと、サラムは困っている。
サヒムやサバッダたちともっと過ごせば良かったのに、とサラムの中に出て来た後悔は強かった。もっと上手な慰め方法があるはずだ。けれども、今更悔やんでも、時は戻って来ない。けれど、今は彼の胸で泣いたジャンがいる。
「もう泣くな。俺たちは任務中だぞ?」
結局そのことをしか言えなかったサラムは小さな声でジャンの耳元で言った。すると、ジャンはすぐに泣き止んだ。
今は任務中だ、とジャンは気づいた。自分の感情に流される場合ではない。
「ごめんなさい」
「良いんだ」
サラムは優しい言葉でジャンの涙を指できれいに拭いた。小さな弟が必死に感情を抑えている姿を見ると、サラムの心のどこかが痛む。
「ちょっとだけ散歩でもしようか?」
「でも、部屋をそのままにしても大丈夫ですか?」
「変な物を持っていなかったし、誰かがここに入って、俺たちの荷物を見ても、問題ない」
サラムは微笑みながら言った。ジャンはうなずいて、自分の服の袖で顔を拭いた。サラムはジャンを抱えながら外へ出て行って、屋台へ向かった。
「知らないふりをして」
「ん?」
「後ろに誰かが付いてきたんだ」
サラムがジャンの耳元で言うと、ジャンはうなずいた。そして彼は笑いながらわざと甘い物をねだった。サラムは苦笑いながらジャンが示した砂糖をまぶしたパンを買って、ジャンに与えた。おなかが空いたジャンは嬉しそうにそのパンを食べた。
サラムはオアシスの近くに向かって、ジャンと一緒に熊や野鳥を見ながら軽く会話した。途中にイブラヒムと出合ったけれど、イブラヒムはサラムたちの後ろにうろついている男性に気づいて、軽く合図を出した。サラムもまたさりげなく合図を出した。ジャンは二人のやり取りをただ黙って、パンを頬張りながら見ている。
彼らしか分からない合図だから、関わらない人は理解できない。ジャンでさえ彼らの仕草の意味が分からない。ただ、ジャンは気づいた。サラムの笑い方は先ほどと違う。けれど、何が違うか、ジャンはよく分からない。
「美味しいか?」
「(もぐもぐ)はい!(もぐもぐ)」
「ははは」
サラムは思わず笑った。なぜなら、ジャンの顔に砂糖がついているからだ。
「叔父さんも食べますか?」
「いや。俺は良い。だから、食べな」
「はい!」
ジャンはうなずきながらまたパクッと大きな口でパンを頬張った。サラムはオアシスの近くにあるベンチに座って、ジャンを膝に座らせた。
「まだいるかな?」
「食べるよ!ほら!」
ジャンが小さな声でサラムに耳打ちすると、サラムは笑って、ジャンがこぼしたパンのかけらを取って、野鳥投げつけながら大きな声で答えた。ジェスチャーと答えは全然違う、とジャンは思った。
これはまた新しい知識だ、とジャンは思った。
「わー!」
ジャンが大きな声で言うと、野鳥が驚いて飛んでしまった。サラムは笑って、残ったパンのかけらをそのまま投げた。
「きみは知らないふりで良い。いざであってしまったら、お料理の人~と言えば良い」
サラムは愛情深い口調で小さな声でジャンの耳元に言った。そしてジャンに笑うように命じた。ジャンが笑うと、サラムも笑った。
まだ四歳の子どもなのに、こんなにも自然に芝居をやっているとは、とサラムは思った。正直に、彼はとても複雑な気持ちになった。
ジャンの笑顔が、本当に心から現れたものかどうか、サラムは分からなくなった。けれど、これからのジャンを思うと、サラムはただ微笑んで、ジャンの頭をなでた。
「お父さんを探そうか?」
「はい!」
サラムがいうと、ジャンは大きな声で返事した。そして、サラムは笑いながらジャンの顔についた砂糖を拭いてからそのまままた抱きかかえて、町の方へ歩いた。
結局夕方になっても、サヒムを見つけることができなかった。サラムとジャンが仕方なくと屋台に大量のパンやお菓子を買ってから宿に戻ると、宿の前に下男がいる。
「お待ちしておりましたよ、ハマン様」
「どうした?」
「アズバール様がお帰りになりました」
「それはありがたい。早速案内してくれ」
「はい、かしこまりました」
下男はうなずいて、宿の中へ入って、サラムとジャンは彼の後ろに付いていった。
一階の宿はほとんど小部屋ばかりだ。一番奥には長期滞在用の部屋で、他の部屋と比べると、若干大きい。下男が扉をノックすると、中から返事が聞こえた。中から扉が開くと、下男は丁寧に用件を言った。すると、中から一人の男性が現れた。
「・・・」
ジャンは戸惑った。あまりにもサヒムに似ていなかったからだ。ジャンがその男性をじっと見ると、男性は笑った。
「ザビエルさん、お久しぶりです。この子は?」
「あなたの息子だ、アズバール」
二人の会話を聞いたジャンは首を傾げた。何らかの形で二人の間に事前に連絡があっただろう、とジャンは思った。
「息子・・」
サヒムは戸惑った。
「まぁ、驚くだろうが、できれば落ち着いた場所で・・」
「あ、ああ」
サヒムはうなずいた。そして彼は外へ出て、部屋に鍵をかけた。サラムは懐から金貨一枚を下男に渡した。
「ありがとうね」
「いえいえ、こちらこそ」
下男は笑いながら金貨を持って、そのままどこかへ行った。ジャンは手元に持ったパンをただにぎって、サヒムを見つめている。
「驚いたか?」
サラムが笑いながら聞くと、ジャンはうなずいただけだった。
「まぁ、外で食事でもしようか」
「うん」
サヒムが言うと、ジャンはうなずいた。
三人は宿を出て、宿から遠くないレストランに入った。案内された部屋に入って、サラムがいくつかの料理を頼んだ。サヒムは近くに座っているジャンを見て、笑った。
まだ凝視されている、とサヒムは理解した。そんなかわいいジャンを見て、思わず彼はジャンのほっぺをつまんだ。
「本当に、お父様?」
ジャンが聞くと、サヒムは咳き込んでしまった。けれど、彼はサラムを見て、うなずいた。
「本当だよ」
「でも・・」
顔が違う、とジャンは言いかけた。
「エスカヴェレス・アヌト・ザフィア」
「女神様万歳」
サヒムが小さな声でジャンの耳元でいうと、ジャンは小さな声で答えた。その事を知ったのはサヒムを初めとする、限られた人達だけだ。ジャンの顔に笑顔が表れた。二人の様子を見たサラムは笑っただけだった。
美味しそうな食事が次々と運ばれて、三人は舌鼓した。先ほどまで会話しながら食事したサヒムとサラムは頬張るジャンを見て、笑った。
今の顔は子どもらしい、とサラムは思った。
「美味しいか?」
サラムはコーヒーを飲みながらジャンを見ている。
「はい!美味しいです」
「なら、良かった。たくさん食べなさい」
「はい!」
ジャンは素直に言って、串焼きを取った。そんなジャンを見て、サヒムは笑った。
そして彼も気づいた。サラムが変わった、と。
「ところで、なぜここに?」
「じいさんの命令だ。おまえを探して、アルバをどうするか、と相談しなさいって」
サラムはそう答えながら、壁をちらっとみた。サヒムはその様子を気づいて、うなずいた。
「どうするって、俺はまだいろいろと調べることが多い」
「ふむ」
「だが、息子か・・」
サヒムはため息をつきながら、天井を見つめている。
やはりここにも彼らの話を盗み聞きしている輩がいる。国の者なのか、盗賊なのか、分からない、とサヒムは思った。
国の者なら厄介だ。何らかの理由で、彼らの正体はばれてしまう可能性がある。盗賊なら、問題ない、とサヒムはそう思って、またため息ついた。
「こうしよう」
サラムはサヒムの悩みを理解して、コーヒーを飲み干した。ジャンはおなかいっぱいらしく、眠くなっている様子だった。
「今夜、おまえはアルバと一緒に過ごせば良い。明日、一緒にオルバザンへ帰ろう。墓参りだ」
「死んだのか?」
「ああ」
サラムはそう言いながら、ベルをならした。そうすると、扉が開いて、レストランの使用人が入って来た。
「支払いだ」
サラムが言うと、使用人は丁寧に金額を請求した。サラムが求められる金額以上に多めにお金を出した。
「釣りは要らない」
サラムがそう言いながら、サヒムとジャンと一緒に外へ出て行った。使用人は嬉しそうに礼を言って、三人を見送った。
「よし、次は夜市に行こうか!」
「はい!」
サヒムが言うと、サヒムの腕に乗っているジャンは大きな声で答えた。結局その夜、三人が遅くまで楽しく過ごした。
宿に戻ると、サラムの言う通り、サヒムはジャンを引き受けて部屋につれて行った。サラムは自分の部屋に入って、そのまま扉を閉めた。
「もう眠いのか?」
サヒムが聞くと、ジャンはうなずいた。
「はい」
「なら、寝台で寝て下さい」
「お父さんは?」
「俺はしばらく仕事する」
「うーむ、はい」
ジャンが言うと、サヒムは動きを止めた。そして彼は微笑んだ。
「ちょっと荷物を片付けるだけだよ。終わったら一緒に寝るさ」
「はい」
サヒムはジャンの頭をなでてから、寝台に寝かした。そして彼は寝台の近くにある椅子に座りながら机に散らばった植物や草を片付けた。
「お父さん、なぜ葉っぱをいっぱい集めているの?」
「これも仕事さ」
サヒムはまじめな顔で袋から干し草を取りだした。
「これは猛毒の草だよ」
サヒムは小さな声でジャンの耳元で言った。
「触っても大丈夫ですか?」
「問題ない」
ジャンは身を起こして、サヒムが見せた干し草をその小さな指で触れた。
「こうやってみると、普通の草ですね」
「だろう?」
サヒムはうなずいた。
「これは何を使うの?」
ジャンが気になって、小さな声で言うと、サヒムは大きな笑みを見せた。
「これを燃やすと、ゴルダ砂漠のサソリは始末できるんだ」
サヒムがジャンの耳元で小さな声で言ったら、ジャンは瞬いた。
「本当にできるの?」
「もちろん」
サヒムはうなずいた。
「お父さんは分かったのですか?私が・・あんなことに・・」
「もちろん分かっている」
サヒムはうなずいて、草を再び革袋の中に入れた。
「あなたの叔父から聞いた」
「そうですか・・」
ジャンが言うと、サヒムは手を伸ばして、ジャンの頭をなでた。
「生きてくれて、良かった」
サヒムは優しい声で言った。その言葉を聞いたジャンはうなずいただけだった。
「俺は少しこれらの葉っぱを片付けるから、眠かったらそこで寝れば良い」
「いいえ、手伝います。何をすれば良いですか?」
ジャンが言うと、サヒムはまた手を止めた。
「なら、そこにある服をたたんで、カバンの中に入れてくれ」
「瓶は?」
「・・・」
「ごめんなさい」
ジャンが謝ると、サヒムは微笑んだ。
「ここにある」
サヒムは自分の服の裏側に縫い付けたポケットを見せると、ジャンはうなずいた。そして彼は慣れていない手つきでサヒムの服をたたんで、カバンに詰め込んだ。本や書類は別の革袋に入れた。一冊の本は中身がくりぬかれて、その中に入ったのは暗殺道具だった。ジャンが瞬きしながらそれらの道具を見ていると、サヒムは苦笑いだけだった。ジャンは何も言わず、その本も他の本と一緒に革袋に入れた。
サヒムとジャンが荷造り作業をしている間に、サラムはすでに部屋を片付けた。元々荷物を少なめに持って来たからか、すぐに終わった。
サラムはそのまま灯りを消して、寝台の上で横になった。数時間が経つと、誰かが部屋の中に入った。
締めたはずの扉がなぜか開いた。
サラムは寝たふりして、入ってくる人を確認した。その人は寝台の隣にあった机の上で置いてあったカバンを物色し始めた。
「何を探している?」
サラムが聞くと、その人は驚いたあまりにカバンの近くに置いてあったグラスを落とした。その人の手には刃物があった。
「クソ!死ね!」
彼が刃物をサラムに刺そうとしたけれど、サラムの方が早かった。
「お金が欲しかったのか?」
サラムはその人の手をひねながら刃物を奪った。その人は痛みを耐えながらサラムの手から逃げようとしていた。
「おっと、この宿の料理人が泥棒とは・・」
サラムがいうと、彼は必死に抵抗した。
「泥棒!泥棒!」
サラムが大きな声でいうと、周囲の部屋から人々が集まってきた。宿の関係者は来て、捕まった泥棒は自分たちの料理人とは知らなかったと言って、そのまま彼を連行した。宿の主人はサラムに謝罪して、騒ぎを終わらせた。
人々は再び自分の部屋に入った。サラムもまた扉を閉めた。けれど、今回は彼は窓を開けて、外で待機しているイブラヒムに合図を送った。イブラヒムはうなずいて、その場を去った。
騒ぎを聞いたサヒムとジャンはただ耳を傾けただけで、気にする様子もなかった。逆に、荷造りを終えたジャンはケラケラと笑いながら、サヒムと一緒に踊っていた。
遊び疲れたジャンは結局ぐっすりと眠った。サヒムはそのジャンの顔を見て、微笑んだ。
このようなかわいい弟の影響で、兄が変わった、と彼は思った。サラムとジャンがこの町に来てから、サヒムはずっと二人の様子を観察した。お金持ちを装ったサラムの振る舞いは確かに目立つ。けれど、そのおかげで的が動き出した。
サヒムが連絡した宿に、サラムが現れた。けれど、彼は一人じゃない。ジャンと一緒に来て、より自然に振る舞った。
なぜジャンがサラムと一緒に行動したか、サヒムは分からない。けれども、食事しながら、サラムが出した隠語では、これはゴルダ砂漠のサソリ対策だった、と。そして分かったのは、ジャンがその毒に犯されてしまったことだった。なぜ小さな弟がそのような毒にかかってしまったか、サヒムは知らない。けれど、きっと原因がある、とサヒムはそう思って、ジャンの体に毛布を掛けた。
ジャンはメルビア草に反応を見せた、とサヒムは思った。ということは、本人も自分がその毒にやられたことを認めた。一体、何があってそうなったか・・、とサヒムは考え込んだ。
まだ小さいその体に、猛毒のゴルダ砂漠のサソリ毒。
本当に、良く生きてくれた、とサヒムはジャンの頭をなでながら、再び思った。
「砂漠の猫」
突然、窓の外からささやくような小さな声が聞こえた。
「ああ、分かった。これから行く」
サヒムが返事してから、声が消えた。そしてサヒムは眠っているジャンを見て、また微笑んだ。