タックス(4)
ジャンが生け贄にされる日がついに来た。朝から神官らは忙しく儀式を準備する。ジャンは朝からずっと部屋の中にいて、きれいに着飾っている。
「どうしてこんなにきれいに着るの?」
ジャンが聞くと、彼の隣にいる神官は微笑んだ。
「これから女神様に会うのですから」
「女神様ってえらいの?」
「はい、えらいよ」
神官はうなずいた。
「女神様に会えたら、この国を襲っている干ばつを撤回するように願って下さい」
「干ばつ?」
「雨が欲しい、と」
「雨?」
ジャンは瞬いて、首を傾げた。
「そうだ。雨が降れば、皆が喜ぶ。あなたの父と母も喜ぶよ」
この場合、父と母はアブ・シディク夫妻の事だ。ジャンはまた首を傾げた。
「お父様?」
「そうだよ」
「お父様は、私をここに行かせたのは、女神様と会うために?」
「そうだよ」
「ふ~ん」
ジャンは興味なさそうにうなずいただけだった。彼はただおもちゃの短剣を遊んだだけだった。
「そのおもちゃは、母親からもらったか?」
「ううん」
ジャンは首を振った。
「父からもらったの」
「かわいいね」
「うん」
ジャンはうなずいた。
「でも、私の本当の父は私をここに送った人じゃないらしいけど」
「そうなんだ」
神官が興味津々とジャンを見ている。
「じゃ、あなたはアブ・シディク様のご子息じゃないのか?」
「んー、分からない。でも、私を育ててくれた人はその人じゃない」
ジャンは聞こえてくる音楽に合わせて、手を動かし始めた。踊っている彼を見た神官は微笑んだだけだった。
どうせもうすぐ生け贄になる子どもだから、誰の子どもでも良い、と神官は思っている。
トントン、と扉がノックされた。その扉が開いて、一人の青年が部屋に入った。彼も神官の姿をしている。
「なんだ、サハブか」
同僚の問いかけに、サハブという青年は微笑んだ。
「で、私の弟は、このジャウハリ?」
「ん?」
サハブの問いかけにジャンは彼を見上げた。
「お兄様?」
「そうだ」
ジャンの質問に、サハブという人はうなずいた。
「一応、俺はおまえの兄さんだ」
「ふむふむ」
ジャンは彼を見ている。
「お兄様も女神様を会いに行くの?」
「行かないよ」
サハブは即答した。
「おまえが行くから、俺は行かなくても済む」
「なんだ」
ジャンは笑った。
「お兄様が行けば、きっと女神様が嬉しいと思いますけど」
「・・・」
ジャンが笑いながら言うと、サハブは何も言わずにただ彼を見ているだけだった。
生意気な子だ、と。
「あ、見て見て、お兄様。お父様からもらったおもちゃ」
「ほう?」
「良くできているよ。ほら」
ジャンが小さな短剣を抜くと、その荒っぽい造りにサハブは笑った。そして彼はジャンが示した先端を触れて、うなずいた。
尖っていない。刃の部分は金属だけれど、ただのおもちゃだ。
「お父様は優しいからね」
「そう?」
「ああ」
サハブは笑って、手を見ている。何か違和感があった、と彼は感じた。けれど、彼の手には何もなかった。傷さえなかった。
気のせいだったのか、とサハブは思った。
「神官様も見て見て」
ジャンが無邪気に笑いながら自分の短剣を見せた。神官も笑って、手を伸ばした。
「本当だ。良くできたおもちゃだね。どこで買った?」
「うーん、分からない。でも、お父様は、良い男になるために短剣が必要だって」
「ははは、そうなんだ」
神官は笑っただけだった。ジャンは短剣を再び鞘に入れて、自分のおなかのベルトに飾った。
「女神様はきっとあなたのような格好いい男にお喜びになるだろう。ちゃんと言っておいでよ。雨が欲しい、って」
「うん、会ったらね」
「きっと会えるよ」
神官は微笑んだ。
ゴーン!
突然大きな音がすると、サハブと神官はジャンを丁寧に案内した。彼らは大きな居間に入ると、人々はもうすでに集まった。その中の一人はアブ・シディク夫妻がいた。けれど、彼らは何も言わず、ただ祈りを捧げている様子だった。
大神官がジャンを前に来るようにと言うと、サハブともう一人の神官がうなずいて、ジャンを前に行くようにと合図した。すると、ジャンは前に出て、大神官を見上げた。
手に刃物があった。
大神官は大きな大理石のテーブルに指すと、サハブとその神官がジャンを抱きかかえて、テーブルの上に寝かせようとした。
けれど、その時だった。
二人の神官が突然震えて、ジャンを投げ出して、必死に喉を触れながら息をしようとしていた。しかし、彼らはそのまま倒れ込んでしまった。
人々が驚いて、騒然した。サハブの母親であるアブ・シディクの妻、エリネールは我が子のサハブの名前を必死で叫んだ。けれど、彼の様子を確認した神官は首を振った。
死んだ、と。
その言葉を聞いたエリネールが気を失った。アブ・シディクは信じられない様子で地面に取れ込んだ我が子に向かって前に進もうとしたけれど、神官らに止められた。しかし、今度は参拝者の中からまた数人が倒れた。すると、人々がパニックになってしまった。
次から次と、人々が倒れてしまった。
「死んだ!」
誰かが叫ぶと、人々が一気に外へ出て行こうとした。しかし、パニックになった人々の中に急に倒れてしまった人もいたためか、彼らはますますパニックになって、押し合う状態になった。踏まれてしまった人も多数いた。
先ほどまで祭壇の前にずっと立っていた大神官も突然苦しそうに倒れ込むと、今度は神官たちも逃げ出した。
一刻も早く神殿から逃げ出さないと、死ぬ、とそう思った人々の顔に恐怖がはっきりと見えている。その様子を見たジャンは服や飾りを脱いで、そのまま彼らと逆方向へ逃げ出した。もうほとんど誰もいない神殿は不気味だ、と彼は思った。けれど、この方向の方が安全だ。入り口に向かって走ると、押し合って踏まれてしまうかもしれないからだ。
ジャンは一番奥にある部屋に入ると、その部屋には誰もいない。とても豪華な部屋だけれど、人が生活している様子がない。しばらくここに隠れて、暗くなったらこっそりと出よう、と彼は思った。大きな女神像の近くに行くと、ジャンはその像の裏に回って、そのまま入って、静かに座った。
ジャンは懐の中から飴玉を一粒を出して、口の中に入れた。やはり美味しい、と彼はそう思いながら、ただ静かに時を待つ。
その出来事から数時間が経った。周りもとても静かになった。けれど、あまりにも静かだったからか、ジャンも眠ってしまった。彼が目覚めた時は、馬に乗ったサラムに抱きかかえられた時だった。
「お父さん?」
「ああ」
サラムはうなずいた。
「大丈夫か?」
「はい」
「なら良かった」
サラムは短く返事して、合図を出した。暗闇になれた動きで、彼らは素早くある建物に入った。街外れにある建物だったからか、周囲にあまり人がいなかった。
「着替えよう」
サラムが言うと、ジャンは素早くまた服を脱いだ。そしてイブラヒムはせっせと彼が身につけた物をすべて大きな瓶の中に入れて、そのまま燃えている木々を入れて燃やした。
あの小さな短剣も、鞘を燃やして、刃をサラム班の別の人に渡した。
「なんだかもったいない」
ジャンが言うと、イブラヒムは微笑んだ。
「これからアルバとお名乗りください」
「はい」
イブラヒムが言うと、ジャンはうなずいて、用意された服を着た。
「アルバなんですか?」
「アルバだけでよろしいのです。我々は北部から来た商人となります。では、失礼、帽子をお付けしますね」
イブラヒムが言うと、ジャンはうなずいて、おとなしく茶色の帽子を付けてもらった。着替え終えたサラムが再びジャンがいる部屋に入ると、ジャンは瞬いた。
全く別人だ。
「どうした?」
サラムが聞くと、ジャンは息を呑んだ。
「お父さん?」
「叔父だ。俺はザビエル・ハマンだ」
「はい」
「服を処分したら、動くぞ」
「あの・・」
ぐ~、とジャンはサラムを見て困った顔をした。
「腹減ったか」
「はい」
「今日は一日中、何も食ってないからな」
サラムは笑いながらポケットから食べかけのパンを差し出した。
「今はそれしかないから、それを急いで食ってくれ。飲み物はこれだ」
サラムは自分の腰にある水袋を差し出した。ジャンは素直にそれらを受け取って、急いで食べた。イブラヒムたちは服を燃やした後、土を掘って、灰をその中に入れて、その上にまた土を盛った。そしてその上にラグを付けた。
実に無駄のない行動だ、とジャンは瞬きながらパンを食べている。
「ここは誰の家なの?」
「さぁ・・」
「え?」
「行くぞ」
「はい」
彼らはまた静かに動き始めた。サラムはジャンを抱きかかえながら馬を走らせている。
「これからどこに行きますか?」
「西だ」
「西に何があるのですか?」
「サヒムがいる」
サラムは笑いながら言って、馬を走らせた。それを聞いたジャンはただ前を見ながら微笑んだ。そしてあくびして、そのままサラムに体を委ねたまま眠った。