ウルダ(33)
ジャンはサラムたちの鉄砲を教えてから三週間が経った。ジャンのスケジュールは思った以上にとても忙しくなってしまった。朝早くから、夕飯前まで、びっしりと埋まっている。サラムたちの練習から、職人たちに鉄砲に着いての知識や技術まで教えている。当然のことで、タレーク家はジャンの言葉や行動などをこっそりと記録している。
「ジャン、明日羊を屠殺しなければならない。明後日はサブリナとサマリナの結婚式だから」
「あ、はい」
サラムが言うと、ジャンはうなずいた。
「練習はしばらく休みだ」
「わーい!」
「ははは、嬉しいのか?」
「はい!」
ジャンはにっこりと笑いながらうなずいた。
「それは残念だ。俺はきみと練習が好きだよ」
「私も好きだけど、たまには遊びたいです」
ジャンが素直に言うと、サラムは笑った。
「明日、手伝いの後、結婚式まで一日中も遊べるよ」
「わーい。がんばります」
「ははは、がんばらなくても良い」
サラムはジャンを抱きかかえて、本館に入った。今夜の食事は家族全員で行われる。多分明日の予定について、とサラムはそう言いながら、広い部屋に入った。
「あ、サバッダ兄さん!」
ジャンが言うと、もうすでに座っているサバッダは笑いながら手を振った。サバッダの他には、ザアードとサフィードの息子たちは少し離れた所に座っている。サラムはサバッダの隣にジャンを降ろしてから、その隣で座って、遅れて入った来たサフィードとサキルにうなずきながら、侍従が差し出した紅茶を受け取った。次に入ったのはタレーク家の親戚らとザアード、そして最後に当主であるザイドは部屋の中に入った。ザイドが座ると、先ほどまで会話する声がピタッと止まった。
ザイドは明日の予定を簡単に言った後、ジャンを見てから、たくさんの親戚の前でジャンを紹介した。そして、サブリナとサマリナの結婚の話をしてから、食事会が始まった。
美味しく食事をしているジャンとサバッダと違って、ザイドたちの会話はやはり鉄砲のことだった。ザイドは顔色を変えずに、食事しながら彼らと会話した。
「鉄砲のことを興味があるなら、結婚披露宴が終わってから、また来なさい」
ザイドが言うと、彼らはうなずいた。
「本当にあの子ができるのか?」
一人の親戚が言うと、ザイドは微笑んだ。
「それは自分の目で確かめてください」
ザイドが言うと、彼らは思わず大きな鶏もも肉を食べているジャンを見ている。
自分の顔と同じぐらいの大きなもも肉で、そのたれがポタポタと落ちて、ジャンの顔にたれがかかってしまった。すると、サバッダがびっくりして、近くでナプキンを探している様子が見えた。そんな二人のそばに座っているサラムとサキルは笑っただけだった。
「普通の子どものようだ」
「ははは」
別の村から来た親戚の一人が言うと、ザイドは笑った。ザアードとサフィードも軽く笑って、紅茶を飲んだ。
「ジャンは普通の子どもだよ」
ザアードはグラスを置いて、微笑みながら言った。
「ジャンはタレーク家の大切な子どもの一人だ」
サフィードが言うと、ザイドは微笑みながらうなずいた。
「そういえば、サラムとサキルの縁談はどうなった?」
別の村から来たザイドの親戚は串焼きを食べながら聞いた。
「サキルの結婚は、相手の女性が成人になってからになる。相手はイフティヤ村のバルシャ家の次女だ」
「それはいつごろ?」
「来年だと思うが、向こうから連絡が来たら、知らせるよ」
「そうか、分かった」
親戚らはうなずいた。
「サラムは、そうだな・・、縁談は全部断った」
「それはなぜ?」
「自分で探す、細かく言うと、気に入る女性を探したい、とサラムが言った。サヒムもそうだった。まったく、こいつらはいつまで未婚のままで居たいのか、分からない」
ザイドがため息を混じりながら言うと、親戚たちは真剣な顔でサラムを見て、再びザイドを見ている。
「どんな女性が好みなのか?」
「サラムはどんな女性が好きか、分からない。ほとんどの縁談相手について、気に入らない、断る、と彼がそう答えたから、私はどうしたら良いのか、困っているんだ。無理矢理と結婚を調えようとしたら、相手の女性を殺す、と言い張った。まったく・・」
「それは難儀だね」
親戚たちが言うと、ザイドはうなずいた。
「サヒムは、きれいで頭が良い女性が好む、と聞いた。いろいろ試しに、頭が良さそうな女性にサヒムに紹介したりはしたが、彼はただため息ついて、何も言わずそのままその場から消えた。彼は、彼女達がただの無能な人形のようだ、と言っていた」
ザイドが言うと、親戚たちはしばらく考え込んだ。
「頭が良い人か・・。それなら、アミシュ村のエルザック家の長女が良いと思う。その家はわしの妻の実家の遠縁でね、ちゃんとした家だ。その長女の年はもう16だが、今になっても縁談が整えていない。その理由は、彼女が男よりも本を選んだからだ、と言われている」
「ふむ」
「読み書きがとても上手な女性だ。エフィール語とタックス語もできて、学者の父親譲りだ、と妻から聞いた」
「なるほど」
ザイドはうなずいた。サヒムにぴったりかもしれない、とザイドは思った。元々あまり家にいないサヒムだから、趣味が読書の妻なら、サヒムが家に居ない時に、さほど寂しくないだろう。語学ができることも、タレーク家にとって、プラスになるだろう。
「サヒムが帰って来たら、聞いて見よう」
「できれば早い方が良い。あまり遅くなると、その女性が年を取ってしまうから」
「ああ、分かった」
ザイドはうなずいて、考え込みながらまた紅茶を飲んだ。その日の食事会は結局遅くまで行われた。
翌朝、タレーク家の人々は朝早くから用意した羊を屠殺した。ザアードは子どもたちに羊の殺し方を教えて、一人一人にやらせた。
「ジャン、羊の下ろし方を教えてやる」
サラムが言うと、ジャンはうなずいて、サラムに近づいた。そしてサラムは丁寧に教えながら羊を解体した。ジャンはうなずいて、サラムに教えられながら近くにいるサバッダの代わりに羊を解体した。結局その作業は昼近くまで続いている。
「サブリナ姉さんとサマリナ姉さんの結婚相手でも同じ宴がありますか?」
「もちろんだ」
サバッダはジャンの隣でたらいを持って、井戸の近くで内蔵を洗っている女性に渡した。
「明日、午前中から、夕方までタレーク家で結婚式と宴がある。その夜から、二人はそれぞれの家に嫁ぐ。そして、それぞれの家で花嫁を歓迎するための宴が行われるんだ」
「大変だ・・」
ジャンが驚いた様子で言うと、サバッダはうなずいた。
「同じ村だから、そうなるんだ。もし相手は違う村だったら、しばらく花嫁の家で過ごしてから、相手の家に嫁ぐことになる。そうしないと、大変疲れるからね」
「ふむふむ」
ジャンは空のたらいを持って、もうすでに解体された部位をたらいに入れた。
「こんなにたくさんの羊も、一日で食べきれるのですか?」
「もちろんだ」
サバッダはうなずきながら、満杯になったたらいを持って、井戸に向かった。
「これが終わったら、お昼を食べてから、ジャヒール先生たちの所へ行こう。向こうでもここと同じぐらい忙しいよ」
「そうなの?」
「ほら、ジャヒール先生の恋人はお頭の娘だろう?先生は手伝いに行くんだって」
「羊の数も同じぐらい?」
「どうなんだろう・・」
サバッダは首を傾げながら考え込んだ。
「お頭の親戚はどのぐらいいるか分からないけど、基本的に、どの家でも、結婚式だから、客は着々と来ていると思う。それに、明日の朝早くからもう結婚式の準備があるから、とても忙しい。花嫁が大変だけど、準備する人々も、料理する人々も同じぐらい大変だよ」
「そうですね」
「それに、久しぶりに親兄弟や親戚と会うのだから、情報交換を重ねて、積もる話もあるだろう?だから料理はいくら出しても、すぐになくなるんだ」
サバッダが言うと、ジャンは興味津々と耳を傾けた。そんなジャンを見て、サバッダは笑って、さっさと仕事を終わらせた。
お昼を終えた二人はジャザル家へ行った。ちょうどその時、ジャヒールたちは薪を切ったところだった。ジャンとサバッダが見えると、彼らは嬉しそうに二人の名前を呼んだ。結局、ジャンとサバッダも彼らを手伝って、薪を運んだ。
「サマリナ姉さんはテントに住むのですか?」
ジャンは薪を厨房において、その近くにいる女性に聞いた。
「違うよ、ジャン坊」
女性は微笑みながらできた砂糖で揚げた料理をジャンに差し出した。ジャンは嬉しそうに一つを取って、礼を言った。
「二人はジャザル家の屋敷に住むことになるんだ。部屋は長年放置されたから、今きれいにしているところだよ」
「明日まで間に合いますか?」
「もちろんだよ。今夜はもうきれいになるのだから。ははは、ちょっとじっとして」
その女性は笑いながら、ジャンの鼻を拭いた。砂糖が鼻についてしまったからだ。そして、なかなか戻らなかったジャンに心配したジャヒールが見えて来ると、女性は笑いながらジャヒールにも料理を差し出した。ジャヒールはその料理を受け取って、礼を言ってから、ジャンを連れて行った。
「ほい、きみたちも少し休憩しなさい」
ジャヒールがアミールたちに甘いお菓子を一つずつ配ると、彼らは嬉しそうに受け取った。
「美味しい」
サマンが言うと、アブはうなずいた。
「安心しろ、サマン。これからと明日まで、もういやになるぐらい腹一杯食べられるよ」
「それはありがたい」
アブが言うと、サマンは嬉しそうにうなずいた。アミールとサバッダも食べながら笑った。けれど、二人がジャンを見た瞬間、大笑いした。その訳は、ジャンの顔が砂糖だらけになったからだ。ジャンの顔を見たサバッダも笑って、口で揚げものを咥えながら、服の袖でジャンの顔を拭いた。
「ははは、始めて食べたか?」
「はい」
ジャヒールが聞くと、ジャンは素直に答えた。砂糖で揚げた料理はかなり高級な食べ物だから、お正月か結婚式の時にしか食べることができない、とジャヒールが説明すると、ジャンは指に残った砂糖をなめながらうなずいた。
夕方になると、サバッダとジャンは再びタレーク家に戻った。もうすでにきれいな布で飾られる大間は花嫁と花婿が座る場所だ、とサバッダは説明した。また儀式のための場所は大間の隣にある小さな部屋だ。その部屋に入れるのは両家の当主または父親、証人、司祭、そして結婚する二人だけだ。結婚式の当日は、大広間は女性たちと花嫁の食事する場所になる。男性らはこの部屋の前にある庭の方に座る、とサバッダが詳しく説明すると、ジャンはうなずいただけだった。
夕方の食事会は大広間で行われた。女性らは別の部屋で食事した。ジャンがサバッダの隣で食事したけれど、疲れたからか、彼は食べながら眠ってしまった。それを気づいたサバッダは立ち上がろうとしたけれど、サラムは首を振って、制止した。サラムはジャンを自分に寄せて、そのままジャンの背中を自分の体に付けてから、何も無かったかのようにまた食事した。何人かの親戚がジャンをみて気になった様子だったけれど、何も言わなかった。第一、誰一人もサラムに声をかける人がいなかった。
サラムは気に入らない人を、例えその人が家族でも、親戚でも、殺すことにまったく厭わない人だ。それに、サラムの腕を知らない人はいない。だから、誰一人もサラムと問題を起こしたくないわけだ。
食事会が終えると、ザイドは微笑みながら、サラムに合図を出した。サラムは丁寧に頭を下げてから、すやすやと眠っているジャンを抱きかかえながら、サバッダと一緒に退室した。
「ジャンを任せる」
「かしこまりました」
サラムはジャンを寝台に寝かしてからイブラヒムに言った。サバッダは寝台に座って、部屋を見渡した。サラムは周囲を見ながらベランダに行って、鉢植木を見てから再び中に入った。そして机の上にあった三枚の絵を気になって、そのまま手にした。
「これは?」
サラムが聞くと、イブラヒムはジャンの寝間着を持ったままサラムの近くに行って、確認した。
「ジャン様がお描きになった絵でございます」
「ほう」
サラムはそれらの絵を見つめている。
4歳児の絵にしては、とても良くできている。すごい才能だ、とサラムは思った。
「ジャンは、これが誰の絵か、話したか?」
「はい。ジャン様のお母君だ、と仰いました」
「ほう」
サラムは瞬きせずその絵を見つめている。サバッダも気になって、サラムと一緒に絵を見ている。
ジャンと似ている、とサバッダが言うと、サラムはうなずいた。
「あの子の才能はすごい」
「僕もそう思う」
サラムが言うと、サバッダはうなずいた。
「他の絵も母親か?」
「はい」
イブラヒムはうなずきながらジャンを着替えさせた。他の侍従らはジャンの手や顔を拭いてから、退室した。
「これらの絵を少し借りてくる。明日返す」
「かしこまりました」
サラムはそう言いながらぐっすりと眠っているジャンを見て、何も言わずにそのまま外へ出て行った。サバッダも外へ出て行って、サラムの隣に歩いた。
「兄さん、それらの絵で何をするの?」
「記録を取るために、ちょっと借りるだけだ」
「記録?」
「父さんの命令だ。俺がジャンのすべてを記録するように、と命じられたんだ」
「なぜ?」
サバッダの質問を聞いたサラムは足を止めた。
「あの子は、いつかいなくなる。が、あの小さな頭の中に、数え切れないほどの情報が入っている」
「ジャンはそのことを知っているの?」
「知らない」
サラムはサバッダの目をまっすぐに見ている。
「そして、知る必要もない」
「兄さん・・」
「いいか、サバッダ?」
「はい」
サバッダは息を呑んで、答えた。
「ジャンは間違いなく、裏の人間だ。彼がまだ4歳だけど、間違いなく、彼の裏の才能が高い」
「はい」
「だから、記録を取るんだ。裏の人になったタレーク家は、すべて記録がある。俺にもある。ザアード兄さんも、サヒムも、そしてジャンも、記録がある」
「何のために・・?」
「互いに殺し合わないための保険だ」
サラムは微笑みながら言った。
「来年、おまえは成人になると思うが、よく考えてな。裏か、表か」
「はい」
サバッダは息を呑んで、うなずいた。
「教えてくれて、ありがとうございます」
サバッダが言うと、サラムは微笑んだ。
「じゃ、お休み」
サラムはそう言いながら、サバッダの肩をポンポンとしてから、サバッダを一人に残して自分の部屋へ向かった。