ウルダ(29)
サラムの登場で、事態があっという間に片付いた。ウルダ語が上手なイルカンディア人は、あのどさくさの中、殺されてしまった。けれど、ジャヒールはその人を殺したのが誰だかを分かっている。大きな石を投げ込んだのは、恐らくサラム班の誰かが、だ。悲惨な死に方をしたイルカンディア人は一瞬かわいそうに思ったけれど、これから彼らがやろうとすることを思うと、その方が良い、とジャヒールは遺体を片付けた警備隊を見てから、宿に戻った。
「部屋を一つくれ」
サラムが宿屋の主人にお金を出すと、彼は部屋の鍵を渡した。
「お名前は?」
「あいつの兄だ」
サラムがそう言って、そのまま部屋へ向かった。ジャヒールが笑いながらサラムの名前を言うと、宿屋の主人はうなずいて、無言で名前を宿帳に書いた。
タレーク家が3人もここにいるとなると、相当な買い物するだろう、と宿の主人はそう思って、夜中にも関わらず、使わない部屋も掃除した。そして予想通り、その一時間後にサラム班が来て、空いている部屋を全部借りた。
「そんなにたくさん買い物したね?」
宿の主人が言うと、彼らは笑った。当主の娘の結婚式だ、と彼らがいうと、宿屋の主人は納得して、何も聞かなかった。
「今回はジャンの語学力に助けられた」
ジャヒールがジャンを寝台に寝かしながら言うと、サバッダたちはうなずいた。
「まさかイルカンディアの船を一目で特定できたなんて、思いもしなかった」
「敵国の船や武器を、ほぼすべて記憶したのですね」
「恐るべき記憶力だ」
サバッダが言うと、ジャヒールはうなずいた。
「この町にいる間、先生はサバッダと名乗って下さい」
「ああ、助かったよ。ははは」
サバッダが言うと、ジャヒールはうなずいて、服を着替えた。サバッダたちは外へ出て行って、それぞれの部屋に入った。
翌朝。
朝ご飯の後、彼らはさっさとラクダに荷物を積み込んだ。その間、サラムとジャンとジャヒールが昨夜の現場に足を運ぶと、残ったのは燃えたカスだけだった。
あのイルカンディア人を結局そのまま焼いて、海に捨てた。そうすれば、何の証拠がない、とサラムが言うと、ジャヒールは無言でうなずいた。
「ところで、布がどうのこうのは、今どこに?」
「上にあります」
「まさかナツメヤシの木の上に?」
「はい」
ジャンが答えると、サラムは笑った。
「取って来ようか?」
「人が多いよ」
ジャンが言うと、サラムは笑った。
「この時に、人に頼めば良い。ナツメヤシの木なら、その実を取るための専門の人だっているよ」
サラムが言うと、ジャンはうなずいただけだった。
「あの木です」
「ふーむ、あれか?」
ジャンが手で示すと、サラムは木のてっぺんを見上げる。確かに何かがある。そして彼はサラム班の一人に上を示しながら何かを言った。すると、彼はせっせと登り始めた。そして何かを見つけて、ナツメヤシの実を持って降りて来た。
「わ!おじさん、すごい!ありがとうございました!」
ジャンは思わず拍手してサラム班の人にキラキラとした目で見ている。彼は笑って、布をジャンに渡してから取ったナツメヤシを持って、サラムの後ろに歩いた。
「変わった模様だね」
「はい」
ジャンは布を見ながらうなずいた。
「この布は、お母様が好きな布でした」
ジャンは布を見つめながら言った。母親を懐かしく思ったのか、とサラムとジャヒールは思ったぐらい、ずっと布を見つめている。
「たまたま同じ布かもしれない」
ジャヒールが言うと、ジャンは首を振った。
「いいえ。昨日、この布を見た瞬間、すぐに分かりました。これはお母様が好きな布です」
「どうして分かる?」
「ここに、小さいけど、見えると思いますけど」
「何?」
「この赤い点、見えますか?他の青い点に、この赤い点があります」
ジャンが見せると、サラムとジャヒールは布を見ている。確かに、不自然な色がその赤い点だけだった。
「それはどうかしたのか?」
サラムが聞くと、ジャンの目から涙がポタポタと流れている。
「おい、どうした?」
サラムは心配になって、聞いた。けれど、ジャンは答えなかった。
「もしや、その布は、本当にジャンの母さんの布だった?」
ジャヒールが聞くと、ジャンはうなずいた。
「なぜここに?」
サラムが聞くと、ジャンは声を殺して、泣きながらただただその布を抱きしめた。
サラムは無言で、小さな弟を抱きしめて、落ち着くまで待っている。
「ごめんなさい」
しばらくすると、ジャンが小さな声で言った。
「もう大丈夫です」
ジャンが言うと、サラムは微笑んで、ジャンの頭をなでた。
「この布は、昨年イルカンディア人の命令で、お母様がイルカンディア女王のために差し出した布でした。お母様は、ご自分の手でこの布で模様を描いたのに・・、半年間もかかりました。私はたまにお母様の隣にいて、いろいろと遊びました」
「半年間・・。かなりかかるね」
「はい」
ジャンはうなずいた。
「この印は、一点だけ赤い点を端っこに、私が描きました、いびつな形だったけど、お母様はその周りにかわいらしい模様を描いて下さいました」
ジャンが布を見ながら説明した。たしかにいびつだった、とサラムは思っている。
「手で描くって、これを?」
「はい」
「どうやって?」
「蜜蝋で描いてから、染料液の中に入れて、乾かします。できるまで、その繰り返しです」
「大変な作業だ」
「はい」
ジャンが返事すると、ジャヒールとサラムは不思議な目でジャンの手にある布を見ている。
「この金色の模様も蜜蝋で?」
「いいえ、全体的に染め終えると、最後に、金を溶かして、金色を作って、その色でまた描きます」
「手で?」
「はい」
「すごいな」
ジャヒールが首を傾げながら布を見て、サラムの手で抱きかかえているジャンを見ている。
「イルカンディア人は、夫人の服だとか、良く奪ったりするのか?」
「んー、そこは良く分かりません。ただ、恐らくイルカンディア人にとって珍しかったから、欲しくなったじゃないかな・・。だって、この布は絹ではなく、普通の布なんです。多分お母様は普段着のために作った布だった、と思います」
ジャンが説明すると、サラムはまじめにジャンの話を聞いている。
「普通は上の人に献上された物は絹や宝石だと聞いた」
「はい。でも、イルカンディア人は、目に止まった物は何でも欲しがります。身につけている耳飾りや腕輪など、欲しいと言われたらすぐに差し出すしかありません。差し出さないと、罰せられますから」
「そうか」
「だから実家に、イルカンディア人が訪問している時に、お姉様たちが隠れています。顔に煤で黒くして、・・万が一見つかった場合、イルカンディア人が欲しがらないように、下女と同じ格好しています」
「ほう」
サラムは微笑んだ。
「でもジャンの母親も良く無事で」
「あ、うん」
ジャンは何かを思い出した。
「実は、二年ぐらい前、お母様にイルカンディア国から再婚の提案がありました。決められた日に、相手が家に来て、お母様と会って、話し合いました。しかし、お母様はずっと黙ってその人の話を聞いたけど、途中で立ち上がって、馬鹿馬鹿しいと言って、そのまま外へ出て行った。大理石の机に、お母様の指の痕がありました」
「指の痕?」
「そう、こうやって、指が三本と机にぎゅーと食い込んだような痕でした。煙も出たらしい」
ジャンが言うと、サラムとジャヒールは瞬いただけだった。大理石の机に指の痕が付くほど、どれほどの圧力をかけたか、想像も付かないことだ。
「たまたま机にそのような模様があったりして?」
「ありません」
ジャヒールの言葉に、ジャンは首を振った。
「ジャンは直に見たのか?」
「いいえ。私はまだ小さかったから、その時は別の部屋にいました。そのことを話したのはお祖父様でした。お祖父様は机の上にあった三本の指の痕を見せながら、その話をしました」
「そうか。じゃ、相手はどうなった?」
「怖くなって、二度と家に来ません。お祖父様の話からだと、あの時の相手のズボンが濡れたらしい・・、分かりませんけど」
「ははは」
サラムが笑って、ジャンを見ている。
「相手はイルカンディア人か?」
「はい」
「なるほど」
美人である可能性は高い、とサラムは思った。しかも、ただの美人ではない。
「きみの母親はきっときれいで強い女性だ。そのような女性はなかなかいない。夫を亡くして、一人で家を守る人は、どれほど大変か、想像絶することだろう。そういう人は敬意に値する人だ」
サラムがそう言いながら、再び歩いた。ジャヒールも無言でうなずいて、サラムの隣で歩いている。
「母は恋しいか?」
「いいえ」
ジャヒールが聞くと、ジャンは首を振った。
「私がどこにいても、お母様は必ず近くにいます。実際に、こんな形で、お母様が作った布に出合いました。きっとお母様は私のことを案じているでしょう」
ジャンはその布を見て、口づけした。
「そうか」
サラムはうなずいた。世界で不思議なことを一つや二つぐらいあってもおかしくない。これはきっと、ジャンがかわいいからだ、とサラムは思った。
「その布を大切にしなさい。いつかまた会える日まで、心の支えになるだろう」
「はい、ありがとうございます」
ジャンはうなずいて、その布をぎゅっと抱きしめた。