午前休
重力に逆らう気もなく重たい身体を起こしてスマホの目覚ましアプリのアラームを止めると、ついでに家族に『おはよう』とパンダのスタンプを送る。スマホの画面を落として目を閉じるとまたドサッと布団に倒れ込んで溜め息を吐く。目を閉じたまま隣で寝ていたはずのモチモチな手触りが気持ちいい最愛の友人を手探りで探して抱きしめ直すとそのままごろりと転がって週末のことに思いを馳せる。昨日までの大学の学祭期間は長期休暇以外は帰れないからと実家に帰省。充実した時間だった。冬服もたくさん買ってもらって、一人では食べないような美味しいものも食べさせてもらった。
ふと目を開けて少し体を起こして足元にあるテレビ台の上のブルーレイディスクレコーダーで時間を確認すると、目覚ましの時間から一時間経っていて慌てて布団を蹴り飛ばす。体を起こしたら友人、ドリーを座布団の上に丁重に移動させる。
「おはよう、ドリー」
それからタオルケットと羽毛布団を上から順番に畳んで押入れに押し込んだら敷布団を丸めて立てる。すると俺の寝ていた形のままに湿って変色している。
「あちゃ」
除湿機を転がして電源をオンにするとブォーっと風が布団目掛けて吹いていく。
「任せたぞ、除湿機くん」
ポンポンと除湿機を撫でてからドリーを抱きかかえて隣に座らせてから俺が座布団に座る。座布団の隣のキャスター付きの棚からリングファイルとルーズリーフ、万年筆を取り出して辺りを見回す。
「スマホ? おーい、どこ行った?」
立ち上がってもう一度見回すと部屋の隅に充電器に挿しっぱなしで放置されているスマホを見つけた。
「抜かなかったっけ。いや、抜かなかったか」
肩を震わせながらコタツと棚の隙間を抜けてスマホの元へ。充電器からスマホを抜いて念の為今日の授業を確認しようとホームページからマイページを開く。先週言われた通り二限は休講。
「十三時には教室に着いていたいから、用意に三十分、片付けとご飯食べるのに三十分で、十二時にお昼ご飯を食べ始められるように……いって。ごめん」
今日の動きを確認しながら元いた場所に戻ろうとしてコタツにかかとをぶつけた。謝りながら位置を直して座ると、少しジンジンするかかとを擦りながらスマホをいじる。イヤホンのフォーンプラグをスマホに挿して音楽アプリでお気に入りのアニソンを流す。
「あれ、イヤホン壊れたかな」
イヤホンを差し直そうとしたのに、人差し指は耳に触れた。何故か机に置かれたままだったイヤホンを耳に差してみると音がちゃんと聞こえて少し口元が緩む。先週もらった授業ファイルを開いて机に置くとかかとを擦るのは止めて万年筆を持つ。
スライドをなんとなくまとめながらルーズリーフに書き写すこと二時間。
「お腹空いた」
腹の虫が鳴きやまない。ルーズリーフをファイルに挟んでひとまずリュックに仕舞って渋々立ち上がると、引き戸を開けてキッチンに向かう。スリッパは面倒だから履かずにつま先立ちで歩く。床、冷たい。冷蔵庫のドアを開けると、ほとんど空っぽ。
「ああ、帰る前に賞味期限切れそうだからって食べきったっけ。どうしよ、おかずないとお腹空く」
最悪お昼ご飯におかずがあれば授業中にお腹は鳴らないだろう。
「久しぶりに中華粥でも作るか」
一度冷蔵庫を覗き込んでしまえばキッチンの寒さは大したこと無くて、素足のまま普通に歩いて部屋に戻る。ケトルを手に取ってキッチンの流しで水を最低ライン少し上くらいまで入れてカチッとスイッチオン。あれ、ランプが光らない。
「電源入ってないし」
主電源を入れてランプが無事に光ったことを確認すると口が緩みそうで、唇に力を入れて堪えながら俺はまたキッチンに戻る。
「丼と、タッパー二つでいいな」
しゃもじも持って部屋の片隅の炊飯器の電源を切ってから蓋を開けると、堪らないホクホクした香りに癒される。お昼ご飯と夕飯用のご飯をタッパーに詰めてから朝ご飯分に残ったご飯を丼に盛る。タッパー二つを冷ますためにキッチンに放置してからスプーンと鶏ガラを流しの上の棚から取ると、部屋に置いてきた丼にスプーンですくえた適当な一杯を入れて、スプーンも置いたまま鶏ガラだけ元の場所に戻す。部屋とキッチンの間の段差につまづいてバランスを崩しかけたタイミングでケトルがカチッとスイッチを押し返す音がした。
「イリュージョン!」
丼に沸きたてのお湯を注いだら、キッチンからコショウを取ってきて適当に振りかける。コショウは後で戻せばいいか。
丼を机に置いたら写真を一枚撮って記録用のグループチャットに送信してから食べ始める。米が柔らかい。単純な味。熱々。総じて美味い。
熱いうちに舌をやけどしかけながら食べ切ると、丼とスプーンを洗って仕舞う。それから冷蔵庫から昨日の夜作っておいた麦茶を出してコップに注いだらレンジでチン。空白の二分の間に手をぶらぶらさせながら部屋の中をゆっくりぐるぐると、踊っている気分で歩き回る。俺今凄く運動してるな、とほくそ笑んでいると、レンジが終わったから早く出せや、とせっついてくるから足を止めてコップを取り出す。温かいけど猫舌がやけどするほとではないちょうどいい温度に温まった麦茶を五百ミリリットルの水筒に移す。これを二回繰り返したら水筒の用意も完璧。
「あとは人類学のレポート始めるか」
パソコンを開いて電源を入れる間にタブレットに保存してあった資料を開いたら、さらに同時にスマホで実家で集めてきた文書資料の写真を開こうとしてふと手が止まった。ちょうど下りてきたポップアップ。目を逸らしてしまいたいメッセージが視界に入ってしまった。
「いや、三限テストかいっ」
右隣にツッコんだけど、そういえば誰もいなかった。一人暮らしだからな。ドリーは左にいるし。それにしても、先週の俺はどうしてカレンダーに入力してくれてあったんだろう。記述テストならまだしも発音テスト。これがなかったらすっかり忘れて教室に行って、みんなの前で辱めを受けるところだった。いや、苦手なりにも六年間の蓄積がある英語ならまだしも、開始一年目の中国語をノー勉でテストを受けたら自殺行為だ。単位を落とすことより怖いことなんて今の俺には存在しない。
「偉いぞ、先週の俺」
心の中で自分の頭を撫でたらパソコンには申し訳ないけど電源を落として、タブレットも閉じた。スマホにダウンロードしてあった音源を探しながら教科書を開く。今度はイヤホンを差し忘れないように先に耳につけた。
「あった。ポチッとな」
今度は何故か音が遠い。本格的に壊したかもな。とりあえず音量を上げて聞こえる音量に調節したら何度かシャドーイングをしていく。声調と拼音の確認が終わったらあとは口が覚えるまで繰り返し読むだけ。教科書に視線を向けたままスマホを閉じてフォーンプラグを抜こうとしたら手が空振った。不思議に思って視線を下げる。
「あれ、いつの間に抜いたっけ」
まあ、いっか。とりあえず暗唱出来るまでひたすら読み続けているとあっという間に一時間が経つ。ある程度覚えたし、ここで一回他の科目でも挟むか。
「何しよっかな」
棚を眺めても急ぎの科目はないからリュックから今朝のリングファイルを取り出そうとして、隣のクリアファイルから覗いている紙に気がついた。
資料論のレポート。そういえば今週末提出だった。でもこれは帰省前に書ききった、はずなのに、どうして下書きの鉛筆の跡が残っているんだ。消さねば、今すぐに。忘れる前に。
五秒で決まった次にやること。リュックからレポートの用紙を引っ張り出して机に広げる。家のはケチって貰い物の可愛い、正直外では使いづらいピンクの香り付き消しゴムを使っているけど、これは凄くというかめちゃくちゃ消えないから、学校用の筆箱から使い心地最高ないつもより十円高い黒い消しゴムを取り出す。レポート用紙一枚を消すために何円分の消しゴムが消えるのだろうかと思うと家の消しゴムを使いたい。でも、消し跡が残っていたせいで成績が落ちたら切腹ものだ。金は使わなければ良いってものではない。使い所を考えるべきなんだ。そう自分に言い聞かせないと手が動かない。
「俺は決してケチではない、節約家と言ってくれ」
一人の部屋でこれを言うのは寂しいものだ。
丁寧に、丁寧に。レポートを完成させていく俺がレポートを終わらせたのは十二時丁度。すぐにご飯を作って大学に向かわないと。
ご飯のタッパーを冷蔵庫から出してそこに醤油、マヨネーズ、ガーリックペーストをかけてレンジにおまかせ。次はおかずを、と冷蔵庫を覗きながら俺は気がついた。現在十二時五分。家から大学まで余裕を持って徒歩二十分。三限は一時からだから家を出るのは十二時四十分。着替えと髪を濡らすのにだいたい十分かかるから十二時半には食器の片付けを終わらせなければならない。片付けに十分、歯磨きもするから五分追加。つまり、十二時十五分にはご飯を食べ終わる必要がある。ご飯を三分以内に食べる自信はあるがあと七分でおかずは作れるのか。あ、家出る前にトイレ行きたい。
これから時間にして三時間授業を受けるのにご飯一杯では足りる気がしないけど、諦めよう。一日に最低限摂取したい野菜は夕飯で頑張ればいい。
優雅なはずの午前休の締めくくりにこんなに慌てなければいけないなんて。次の機会には、絶対優雅に過ごしてやる。