純子
東急田園都市線用賀駅から徒歩5分のマンションに荷物を移動し終え、まだダンボールだらけの部屋を眺めた龍司は、大きなため息をついた。
美由紀の退職から2ヶ月後、七海から離婚宣告され、そこから半年かけて財産分与の手続きを行なった。共同経営だったため、その話し合いには、揉めはしなかったが時間を要した。男女として折り合いがつかず離婚をこの数年考えていたようだが、美由紀の一件が決定打になったようだった。しかし、七海からは美由紀については一切触れてこなかった。妻として夜の営みを5年も拒絶していたこと、優しく接することが出来ず叱責してしまっていたことなど、多少の原因が七海自身にもあることは理解しているからだろうし、その証拠に慰謝料などは請求してこなかった。龍司もまた美由紀については一切触れなかったが、落ち度があるのは間違いないから、離婚したいという七海を引き留めなかった。完全に美由紀の一件が頭にあることは互いに感じていたが、息子の裕太のために揉めることを回避した意味合いもきっとあるはずだ。
新生活のスタートに用賀を選んだのは、裕太に会いやすいように隣の駅にしたかったからである。落ち着きがあるが、格安スーパーや飲食店、コーヒーショップなどひと通り揃っているこの街は以前から気に入っていた。七海とは特に揉めている訳ではなかったし、裕太のために二子玉川のマンションに出入りするのも承諾してくれていた。荷解きをしながら、独身になった身軽さと家族を失った寂しさ、傷つけてしまった美由紀のことが同時に込み上げ、複雑な想いに駆られ、龍司は少し泣いた。
龍司は46歳になっていた。
気がつけば縁もゆかりも無い大都会に、ひとり孤独に放り出されてしまった。若い時から人一倍努力してきた自負はあるが、とにかく社会に出てからは苦労ばかりの人生であった。何が間違っていたのだろうか。何となくただ流れるままに目標も無くサラリーマン生活をしている連中の方が幸せであるように感じて、理不尽な想いに駆られた。
学生時代までは、輝かしい日々であった。文武両道、とはまさに自分のためにあるような言葉だったと思える。中学時代は生徒会長も務め、テストの成績も常にトップ5に入っていたし、高校時代は陸上競技でインターハイにも出場した。何も憂うことなど無く、青春を謳歌していたあの頃。仲間といつも馬鹿な話で笑い、陽が暮れるまでグラウンドで汗を流していた。
そして、清廉さと透明感が眩しかった、隣の席に座っていた、
純子 ──
今、どこで、何をしているのだろう。
あの日からもう27年。この人生の中で、純子は何度も何度も龍司の脳内に、時を感じさせない鮮度を保ったまま訪れてきた。はっきりしたことはわからないが、恐らく1〜2ヶ月に1回は。龍司がどれだけ忙しくても、他の誰かと恋をしていても、結婚をして子供が誕生しても、それとは無関係と言わんばかりに。
純子のような女性を追い求めていたのかもしれない。上品な言葉遣い、清純さが際立つ美しい顔や細身の身体、全てを浄化してくれるようなオーラ、屈託のない笑顔。全てにおいて、特別な存在だった。
純子との関係は、深くはなかった。むしろ、浅すぎたものであった。学校以外で会ったことは1度しか無く、告白した訳でも付き合った訳でもない。ただ授業で顔を合わせた時に、他愛もない話をして笑い合っただけだった。しかし龍司にとって、純子が理想の女性像であることは間違いないものであった。純子が0地点で、そこから近いか遠いか、そんな風に女性を見てしまうところもある。
片想いで終わった儚い恋であった。その後それなりにモテて何人かと付き合ったりもしたけれど、その中で何故、関わりがこんなにも薄かった純子のことだけが忘れられないのだろうか。
きっとあの卒業式の出来事が無ければ、思い出す人として残らなかったのかもしれない。そんなことを思い出し、龍司は懐かしい思いに駆られてひとり微笑した。