終止符
その日からさらに3ヶ月が経過し、龍司と美由紀の関係は、もう崩壊寸前のビルのようであった。七海も含めた3人での打合せ中には、美由紀は露骨にそれとわかる態度が出てしまうまでに症状は進行していたが、責めるわけにもいかない。龍司は、この状況に対して為す術を失っていた。大海原にひとり流され、360度陸地は見えず、方角も全くわからず、ただ死を待つのみの漂流者のようであった。苦しい日々が永遠に続くような感覚に疲労困憊し、美由紀と関係を持つ前とはまた違った焦燥感に追い詰められていた。
突如として展開が大きく動いたのは、そこからさらに1ヶ月が経過した頃。取引先から「担当者変更」のメールが届く。慌てて電話し理由を聞くと「橋本美由紀は、一身上の都合で退職しました」と。驚きとショックで電話中にも関わらずしばらく無言になってしまった。先週、美由紀のマンションで会った時には、そんな話は全く出てこなかった。「迷惑がかからないように、心のバランスをしっかり取るね」と、美由紀は以前より少し落ち着きを取り戻していて、少し安心していた矢先の出来事であった。何が起きたのか、美由紀に確かめずにはいられなかった。
「コンビニに行ってくる」と七海に告げ、東急大井町線二子玉川駅から徒歩8分の自宅マンションを出て、すぐに美由紀に電話をかけたが、不在だった。「ニコタマ」から武蔵小山までは、大井町線に乗り大岡山駅で目黒線に乗り換え20分弱で到着出来る。しかしそれはあまりにも冷静ではないな、と自重した。美由紀が着信に気付いていることは、確信めいてわかっていた。何度もかけ直し、12回目にやっと美由紀は観念して電話に出た。
「どうして退職した? もちろんオレが原因なんだろう?」
前置きなしにそう切り出したが、美由紀はなかなか答えてくれない。ここは下手に問い詰めるべきではないなと思い、無言のまま美由紀を待った。1分ほど経ち、美由紀から発せられた言葉は、龍司を奈落の底に突き落とすものであった。
「七海さんに…… バレたと思います」
龍司の脳内機能は完全停止し、自分の身体の全てが不活性化していくような感覚に陥った。どれだけ細心の注意を払おうと、遊び人の先輩の言った通り、やはり七海もエスパーであった。
龍司が機能停止しているのとは対称的に、そこから美由紀は淡々と事の経緯を話してくれた。七海が別の担当者に「主人と橋本さん、何か怪しい」と打ち明け、それが会社経由で美由紀に伝わったこと。決定的な証拠は無いものの、七海はそれを確信していること。しかし、美由紀は最後までそれを認めなかったこと。それらを簡潔に説明してくれたが、とにかく絶対に起きてはならないことが起きてしまったことに違いは無かった。認めなかったから直接謝罪はしなかったが、関係があったことは事実であったから、責任を取って自主退職し、福島の実家に帰る、そう美由紀は言った。
龍司は、胸が引き裂かれそうになっていた。美由紀は最後まで秘密を守り、自分を犠牲にして龍司を守ってくれたからだ。道路上に立ち尽くしていたが、やがてその場に座り込んで人目もはばからず嗚咽した。
「ごめん、本当にオレのせいで…… 本当に……」
涙が止まらず、それ以上何も言えなくなってしまった。せっかくのキャリアを自分のせいで潰してしまったこと、そして何よりも、実家に帰るという美由紀を引き留めることが出来ない立場の自分を恨んだ。美由紀は最後まで、龍司を責めなかった。「応援してるから頑張ってね。そして幸せになってください」と告げ、2人の関係に終止符が打たれた。
終話ボタンが美由紀から押され、スマートフォンをポケットにしまった後になっても、龍司はその場から動けずにいた。心臓がナイフで刺されたような痛み。割り切れて無いのは、龍司自身であったことに今更気付かされてしまった。美由紀のことを、気が付けば龍司は好きになってしまっていたのだった。失うことは、この世の終わりと等しいことであった。しかし、何をどうすることも出来ない残酷さが現実として押し寄せてきた。フラフラとした足取りでコンビニのトイレに向かい、泣いたとバレないだろうか、と鏡で確認する。ビール二本とつまみを買い、帰宅する頃にはまた失敗が許されない舞台に立たなければならない。
七海は、美由紀と龍司の関係を確信しているだろう。しかしここでそれをあっさり認めてしまったら、美由紀の犠牲が無駄になってしまう。多少不自然だとしても、帰宅後すぐに風呂に入り、七海に顔を見られない角度でテレビを観ながらビールを一本飲んで、すぐ寝室に向かう。そう決めて、龍司は重い身体を引きずるように、多摩川をまたぐ線路から鳴り響く電車の走行音を背に、自宅へと足を向けた。