ガードフェンス
16時45分。麻布十番の路上に龍司はいた。
15時からの大先輩の経営者との時間は夢のようだった。用意してきた質問や、いくつかの事案に対してのアドバイスもらったり、逆に龍司が質問されて答えたり、今後の龍司の経営者としての人生に大きく影響する時間となった。丁寧に深々とお礼をしてオフィスを後にし、純子との電話に備えた。
「夢のような時間のあとは、また夢のような電話、か」
龍司はそんな独り言を呟いていた。
麻布十番から見える東京タワーは、とても美しかった。陽が傾いていくのと反比例して、輝きを増している。人口2万人にも満たない北海道の田舎町で育った自分が、大都会で孤独になり、こんな光景を眺めている。とても不思議な感覚だった。
17時にジャストに純子に電話をかけた。
「もしもし」
純子は、穏やかな、ゆったりとした口調で電話に出た。
「ごめんね、最上。また時間取ってもらって」
「ううん。全然だよ。わたしの方こそ、急に長文のメッセージ送ってごめんね」
「すごく嬉しかったよ、ありがとう」
そこには、記憶喪失の純子はいなかった。
龍司が知っている、昔と何も変わらない、最上純子、その人であった。昔の話だとしても互いに「好きだった」と伝え合った2人の間には、明らかに先日とは違う何かが生まれているのを龍司は感じた。
純子は、この2日間に純子自身の身に起きた出来事を話してくれた。
── 2日前。電話を切った後、急いで子供を迎えに行き、夕食を済ませ、入浴し、ベットに入る。いつものルーティーンをこなして一日を終えていた。しかし、突然の出来事に胸はザワザワと音を立てている。その日に話されたことを回想しながら思いを巡らせていた。
長谷川くんが言っていた話は、遥か彼方の記憶の片隅を探ってみてもなかなか思い出すことが出来なかった。本当に、そんなことがあったのだろうか。なかなか寝付けずに、ただ時間だけが過ぎていく。
しかし突然降りてきた、記憶の映像。
体育祭で大きな声で長谷川くんを応援した時、ぎこちなく右手を挙げて応えてくれた、あの日の情景。
「確かに‥‥。わたし、そうだった‥‥」
単発的にポツポツと思い出される、断片的な記憶。
教室の長谷川くんの横顔。卒業式。雨の御幸通。
そして点が線となり繋がった瞬間、まるで滝のような記憶の豪雨に打たれ、あっという間に全てを思い出してしまった。
そして翌日には仕事をしながらも、1日中悩みに悩んだ。全てを思い出したことを、本当なら今更言わない方がいいのかもしれない。言ってしまったら、絶妙なバランスで保たれている何かが崩れてしまいそうな予感。
しかし27年の時を経て、自分を探し出してまで全てを打ち明けてくれた長谷川くん。
それはとても勇気のいることだったと思う。だからこそ、その勇気にちゃんと応えなければ駄目だ、そう感じたから、メッセージを送った ──
純子は、包み隠さずそう話してくれた。
高校時代があまり良い記憶がなかったから、黒く塗りつぶし、蓋をして忘れるように生きていた、だから本当に記憶喪失だったのかも、ということも告白してくれた。
「突然登場した長谷川くんに、強引に記憶の蓋を開けられてしまった」と。
学生時代が黒歴史だった、と純子。意外だった。そんな風には見えなかった。突っ込んで聞いてもいいのかわからないが、遠慮がちに龍司はそのことについて質問した。黒く塗り潰したくなるような、何かがあったのか。
純子はしばらく、無言になった。龍司は、聞いてはいけないことだったな、とすぐに後悔した。
「あ、言いたくなかったら全然言わないでね」と伝える。
「あのね、わたしね」
純子の空気感が変わり、意を決したように続ける。
「長谷川くんに…… 3回もフラれたと思って、それが辛すぎて」
龍司は、えっ、と発した後、絶句してしまった。
何という、青春ドラマのような、すれ違いなんだろう。少なくとも純子のことが好きでたまらなかった龍司が、純子を振る訳がない。
「オレに振られたって、一体いつの話」
「わたし、一生懸命話しかけてた時期があるでしょ。けど長谷川くん、どんどん目を合わせてくれなくなって、悲しくて」
それは、龍司にもはっきりと記憶があった。神戸に行くと告げられ、辛すぎて、自分の気持ちが進まないように抑えていた時のことだ。
「あと、卒業式ね。やっぱり諦められなくて、せめて連絡が取れるようにはしておきたいと思って。前日に髪をバッサリ切って、長谷川くんが教室から出てくるのを待ってた。ここまでしたんだから、気付いて欲しかった。けど、連絡先も何も聞いてくれなかった」
想いが溢れ出るように、話す純子。
「最上から、言ってよ、連絡先のことくらい。ショートカットが衝撃過ぎて、オレあの時、何も考えられなかった」
2人は、思い出して笑いあった。
「19歳の夏休みね、連絡くれたでしょ。すごく嬉しかった。あの時は、何か言ってくれると期待してたけど、何も言ってくれずに去っていって、本当に悲しかった」
純子から、告白やそれに近いリアクションは、一度もなかった。でもそうやって純子なりに一生懸命伝えてくれていたのだが、控えめすぎる純子のアピールと、鈍感すぎる若すぎた龍司は、互いに好きだったのにも関わらず、そうやってすれ違っていたのだった。
龍司の恋心には全く気付かず、純子の中では「振られた」という記憶として定着してしまったらしい。純子らしいな、と龍司は思った。
その3つの場面について、どう思っていたのかを純子に解説するように伝えた。
大げさなリアクションで聞いている、純子。
27年越しの、答え合わせ。
こんな日が来るとは、夢にも思っていなかった。
一つひとつの話に純子は驚き、笑っている。
それに対して、龍司も、笑う。
あの頃のようだった。
そう、こんな感じだった。
英語の授業の前に、こうやって、二人は ──
しかし月日の流れは無情だった。純子は既婚者で、子供もいる。可能性が無いから、龍司は恥ずかしがらずに話せる部分もあった。家庭を築いていることは、当然だと思っていたからガッカリまではしなかった。
好きだった、と言えたこと。あの頃、実は心が重なり合っていたこと。それを確かめることが出来た、それ自体が奇跡でドラマのようだから充分だった。
「今世はヘタレで言えなかったけど、来世はバッチリ告白するから、覚悟しとけよ」
龍司は笑って言った。
「家族と幸せに過ごしてね。オレが力になれることがあれば何でも言って。相談とかも遠慮なく話してよ」
そう、付け加えた。
純子は、すぐに答えずしばらく沈黙したあと、こう言った。
「家族と、幸せに、か」
何か含みのある言い方だった。どういう意味なのかわからず、龍司は聞いた。
純子は少しの間を置き、全く予想外のことを龍司に告げた。
「あのね、長谷川くん、わたし、離婚するの」
2人の間に流れている空気には、何かが生まれ、そして何かが崩壊した。
理性というガードフェンスから飛ばされないよう、必死でそれにしがみつく。
それをあざ笑うかのように、運命の突風は容赦なく2人に吹き付けていた。
東京タワーは、慈悲深くきらびやかに輝き続けていた。




