記憶喪失
11月3日。
龍司は、新千歳空港1Fのロビーにいた。2泊3日で滞在し札幌での仕事を終え、東京に戻る。19時発の便に搭乗する前に、純子と話す約束になっていた。
空港という場所には、様々なドラマがある。その空間が醸し出す独特の雰囲気は、これから27年振りに純子の声を聴くことになる龍司を否が応にも高揚させてくれる。しかしその一方で、少し冷めた心情も龍司の中に共存していた。27年間、暖めるように大切に持ち続けていた純子との思い出が、純子本人によりあっけなく打ち砕かれ、あっさりと長年の疑念に対して「一番避けたかった内容」で回答を通告されてしまったからである。電話を純子にかける目的は「純子の声を聴くだけ」という趣旨に降格されていた。
それでも、嬉しかった。今までの人生の中で、龍司自身に永らく残存していた純子への想い。直接話すことで、全てが決着出来ると確信していた。そして何よりただ単純に、あの柔らかい包み込むような声に触れたかった。例の怪奇現象は、完全に龍司から消え去っていた。
作り込み過ぎた恋愛ドラマのようだな、と龍司は思った。映画や小説の世界でしかあり得ない展開のストーリー。こんなことが自分の身に起きていることが、未だに信じられない。
夢の中に存在する純子のまま留めておきたい、という気持ちもあった。現実に向き合うことで、その陶器のような美しい思い出にヒビが入ってしまう。しかし、やっぱり直接話してみたい。声が聴きたい。龍司の中の攻防戦は続き、一向にまとまらないまま、あっという間に16時になってしまった。
電話出来る状況になったら、純子からメッセージが届くことになっていた。
「電話どーぞ」
ちょうど16時に、連絡は来た。
急激に龍司の鼓動が速度を高めていく。ついに、この瞬間が。これまでの様々な記憶が龍司に去来した。ひとつ大きく息を吐き、意を決して番号を入力し、発信ボタンを押した。
3回コール音が鳴り、純子は、出た。
「もしもし ……?」
語尾のところで少し照れ笑いを入れながら、純子は言った。
27年ぶりに、龍司の聴覚に染み渡る、純子の声。何も、変わっていなかった。あの頃のまま、柔らかな、清廉さと品格を感じさせる声だった。杞憂は一瞬で消え、龍司のこれまでの苦悩やストレスが、あっという間に浄化された。
「最上、元気だった? 忙しいのにごめんね」
「ううん、大丈夫だよ」
15分しかない。純子が仕事を終え、子供を迎えに行く合間のわずかな時間。前置きの話など、してられなかった。
「実はね、オレずっと、最上のことを忘れられなくて。高校の時、好きだった」
シンプルに、龍司は言った。遅すぎる、告白。27年前に、言うべきだった。しかし、ついに龍司は、言った。今からどうしたい、という訳ではないことも、付け加えた。先に言っておかないと、警戒心を持たれてしまいそうだから。
純子は、驚いていた。それを言うために、この人は私を探し出して電話をかけてくれたのか、というニュアンスの、驚き。
全てを話してしまおうと思った。
英語の授業で隣りだったこと。
体育祭での、応援。
龍司と純子は、いい感じの雰囲気だった、ということ。
卒業式での、ショートカットのこと。
純子は、全てがうる憶えだった。「長谷川龍司」という同級生がいて、話したことがあること。卒業式の日に、純子自身が髪をばっさりショートにしていたこと。この2点のみが、純子のはっきりとした記憶。まるで、記憶喪失の人と話しているような悲しさがあった。ショートカットにした理由は、昔過ぎて思い出せない、と言っていた。
あの時に「好きだ」と言おうとしたが、言えなかった。
純子にそのことを伝えた。純子は「ありがとう」と。
イエスとも、ノーとも取れるような抑揚で、ありがとう、と言ってくれた。
しかし不思議なもので、話が全く嚙み合わないにも関わらず、昔のように龍司と純子の会話はとても盛り上がっていた。記憶喪失の純子に対して龍司が必死に様々な出来事を伝え、覚えていない純子が笑う。
この数週間、龍司の身に起きた、純子のことで急に頭がいっぱいになったこと、それがきっかけで連絡を取ろうと思ったということも、純子に話した。昔と変わらない純子がいることを確認し、全てを伝えても気持ち悪がられない確信があったから。純子は、かなり驚いていた。自分のことを、こんなにも記憶している人が存在していたことへの驚愕だった。
15分間の約束のはずが、気が付いたら1時間弱も話していた。
じゃあまたね、と互いに伝え、電話を切った。
清々しい気持ちになっていた。結局、ショートカットの謎は迷宮入りしたままだったが、それはもうどうでもよくなっていた。残酷かと思っていた現実は、意外にも龍司を積年の呪縛から解放してくれた。
変わらない、あの日のままだった、純子。
純子を好きになって、本当に、良かった。
すっきりとした気持ちで、また明日から仕事が出来そうだ。
純子は、何も覚えていなかった。しかし龍司は、この結末に満足していた。
「最上純子」という俗社会とはかけ離れた異世界から旅立つように、龍司を乗せた飛行機は離陸した。
これが結末ではなく、2人の序章であることは、まだ誰も、知らない。
運命の足音は、すぐ後ろにまで迫っていた。




