ひとり遠く
それは紛れもなく、疑いようもなく、最上純子、その人であった。すれ違い、龍司に背を向けて去っていく。これは、現実なのか。龍司は足早に、しかし近付きすぎて不審がられないように、Uターンして純子を追った。逆側の歩道へ移動し、その「純子に違いない女性」の顔を確認出来る位置まで到達し、緊張感の中、恐る恐る彼女の顔を確認した。
全くの、他人であった ──
冷静に考えたら、当然だった。純子は今、46歳なのだから。
帰宅しアイスカフェラテを飲みながら、自分自身のことを落ち着けるように加熱式タバコで一服した。つい10分前に起きた夢遊病に侵されたような出来事について、興奮が抑えられない状態のまま回想していた。何度思い返しても、あれは、純子だった。見間違えるはずがない。確信を持って、絶対的に、純子本人だった。では何故、再確認した時には他人だったのだろうか。確かに20歳くらいの若い女性だったから、冷静に考えたら無理がある話だ。しかし、どうしても「似ている人」ではなく「最上純子本人」としか結論付けることが出来ない。離婚のショックで頭がおかしくなったのだろうか。龍司は、自分自身を疑った。視界に入ってきた衝撃的な真実と、無理がある、という冷静な分析。龍司の中で、一進一退の攻防戦が繰り広げられていた。着地点が全く見いだせない。
ここは一旦、頭をリセットすることにしよう、と龍司は思った。時間を置いて、冷静な視点でまた考えてみることが得策だ。外出準備をして、用賀駅の中央林間行きのホームへ向かう。宮前平駅から徒歩5分、天然温泉のサウナへ元々行く予定だった。水風呂で頭を冷やせば、正常な判断が出来るようになるだろう。駅を出て5分だが、急激な坂を登らなくてはならないことが唯一の難点だった。しかしそれを考慮しても通う価値のある、龍司にとってお気に入りの温泉サウナ。
施設はとても清潔感があり広く、食事処やマッサージ店も併設、休憩スペースも十分すぎるほどの席数がある。漫画や雑誌も豊富に揃っていて、のんびり過ごしたい日には最高の環境だ。サウナ内も清潔で、セルフロウリュも可能。浴槽も広く、焦げ茶色の天然温泉の湯質も申し分ない。そして何よりも龍司が気に入っているのは、露天風呂の周辺にある外気浴スペースの広さだ。フラットになるチェアーの数が他のサウナと比較しても数倍あり、雨天でも外気浴が可能な屋根付きのスペースまである。東京都内から電車で20分弱にも関わらず、このスペックが整っているサウナは他にはない。
快晴で気温は25度。平日の昼間なので、空いている。最高のサウナ日和で、これなら先程の謎の現象について、落ち着いてゆっくり考えることが出来そうだ。95度のサウナで10分間汗を流し、16度の水風呂に1分間。この間は、何も考えることが出来ない。強制的に頭の中が完全に空っぽに出来る、この時間が好きだ。外気浴スペースの日陰のチェアーに寝そべり、目を閉じて「ととのい」の時間を堪能する。心身共に、完璧にリセットされていく。
やっと冷静な自分になれたところで、龍司は先程の現象について考えを巡らせていた。
「見間違い」
これが一番可能性が高いだろう。友達に相談したとしても、ほぼ全員がこの答えを出すに違いない。最も理性的で、的確な回答だ。しかし、龍司自身の「感覚」は、それを受け入れきれていない。どう冷静に分析しても、100歩譲ったとしても、あれは純子に違いなかった。雨の御幸通で、最後に別れたあの日の純子、そのままだった。
龍司は、気が付けばその分析をやめ、18歳の純子との日々へタイムトリップしていた。右側にいる、純子の左側の横顔。教科書に視線を落としたまま、白く細い指で、滑らかで静かに髪をかき上げる所作が、とても美しかった。
白いヘアバンド。
半分に割って渡してくれた消しゴム。
時折、目が合い、微笑を返してくるアイコンタクト。
もう一生会えない人。
こんなに月日が経っているのに、どうしてずっと純子のことを忘れられないのだろうか。
遥かに遠い昔、遥か離れた北海道の田舎町での、何気ない日々。
こんなにも、遠くに来てしまった。距離も、年月も。
そして龍司は、ひとりだった。




