表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/37

都合の良い女以上、不倫未満

「ちょっと話があるんだけど、いい?」

 それは、明日のランチの店についての相談などとは明らかに違う温度を纏い、妻の七海から発せられた。長谷川龍司は、いつもよりゆったりとした速度で自宅のソファーに座り、何となく予感していた通告をこれから受けることになるのだろうと、小さく短いため息をひとつ吐いた。

「離婚、して欲しいんです」

 16年間、共同経営の事業を共にしたビジネスパートナーでもあり、苦楽を共にした龍司に対しての敬意を併せ持った、しかしドライで淡々とした、七海らしい言い方であった。

 29歳の時、2歳下の七海と結婚した。45歳になり、解雇通告を受けたようだな、と不意に思ってしまった自分が悲しかった。一度決めたら、地球がひっくり返っても曲がらない人である。理由は色々あるだろうし、何となくわかってはいたが、特に何も聞かなかった。いや、聞けなかった。流石に一定量のショックは龍司にもあったからだ。

 4年前、札幌から東京に移転してきて以来、龍司の歯車の全てが狂い出していた。東京出身の七海が「地元に住みたい」と言い出したことが発端であった。大学生活の4年間以外は、ずっと北海道で生きてきた龍司にとって、東京での生活は目まぐるしく、希薄な人間関係に心身をすり減らし、個人事業のコンサルティング業も途端にうまく回らなくなり、世界規模のウィルス蔓延も不運に重なって、収入は激減した。仕方なく本業の合間に派遣社員としてバイトなどを始めたが、慣れない東京の満員電車は苦痛以外の何物でもなかった。息子の裕太を転校させて悲しませたことへの罪悪感も引きずっていて、常に脳内にモヤがかかり根幹が疲弊して蝕まれていくような、そんな感覚の中で龍司は暮らしていた。何故、東京に移転することを受け入れてしまったのだろうか。後悔の念に龍司は支配されていた。七海とも男女としてはかなり冷めている状態ではあったが、裕太がいること、ビジネスの共同経営者であること、それらが龍司と七海をかろうじて繋ぎとめていた。

 七海は、とてもドライな性格であった。付き合い出し結婚してから2〜3年くらいまではさすがに優しかったが、徐々に冷淡な部分が露出してきて、龍司は幾度となく寂しい思いをしてきた。龍司の情緒的で繊細な性格をどこか馬鹿にしているところがあり、七海の前で龍司が落ち込んだり愚痴をこぼすことは、許さなかった。そういった雰囲気に対して、露骨な嫌悪感を隠さず「本当にそういうの、やめてくれる?」と叱責する。人として、ビジネスマンとしての七海は非常に素晴らしかった。明るさ、マナー、空気を読む力、熱量、行動力、どれを取っても尊敬に値する人だと龍司は感じてきた。しかしどうやら「男女」としては全く噛み合わない2人だったらしい、と、十数年の月日により、ハッキリと答えが出てしまったような気がする。きっと、七海のような女が妻として理想、そう思う男も少なくはないだろう。竹を割ったようなサッパリとした性格。だが、少なくとも龍司が求めている理想像とは相反する人であることはすでに明確であった。友達、ビジネスパートナー、それ止まりだったら、最高の相手だったのかもしれない。男というのはほとんどが弱い生き物であり、愛する妻に仕事の愚痴をこぼしたり、落ち込んでいたりする時には「大丈夫? 無理しないでね」などど優しく癒やしてほしいものであり、龍司も漏れなくそういった類いの典型的な男子であったから、七海の対応にはいつも傷つけられてきた。

 もう龍司の精神は限界を越えていた。このままでは自分の全てが壊れてしまうのではないか、という不安に晒されて、慣れない大都会の片隅で生きていた。だから、龍司が別の異性に癒やしを求めてしまうのは、罪悪感を併せもちながらもごく自然なことであった。龍司が求めている優しさを七海からは感じられない上に、夫婦の営みも5年以上は拒絶されていた。「だから自身を維持するための必要悪で、仕方のないこと」という、女性側からすると何とも不誠実な言い訳に聞こえてしまうが、男性側からすると、それは仕方ないよね、そのままだと鬱病とかになるじゃん、みたいな「言い訳ではなく真面目な理由」として、それを龍司は自分に許してしまった経緯がある。

 

 橋本美由紀は8歳下の、取引先企業のアシスタントから主任に抜擢されたばかりで、細身のパンツスーツがよく似合う女だった。明るい天真爛漫な性格と、スレンダーな身体、エキゾチックな顔立ちが「いい女だな」と初見で感じてはいたが、異性としてお近づきになりたい、などとは思ってはいなかった。美由紀は龍司だけでなく、妻の七海とも仕事上の関わりがあり、そんなスイッチは龍司に入る訳がない。しかし美由紀との距離感に変化が起きてしまった。それは一瞬の出来事であった。

 翌月に控えたプロジェクトの打ち合わせからの流れで軽く一杯、そんな意味合いで、京王井の頭線渋谷駅マークシティの脇にある路地の地下に降りていくショットバーに美由紀と立ち寄った時には、そんなことになるとは微塵も想像していなかった。

「長谷川さん、ちょっと最近疲れてません? 体調とか、大丈夫なんですか?」

 半個室で横並びに座るタイプの座席を見た時には取引先の女性とは不適切な空間に思えて躊躇したが、場の流れで座ってしまい、龍司はジンジャーハイボール、美由紀はレモンサワーを注文した直後に美由紀が顔を覗き込むように聞いてきた。店内はオーソドックスなジャスの音色が隣の座席の会話が聞こえるような、聞こえないような、絶妙な音量で流れている。空腹のままハイボールを立て続けに2杯飲んだせいか、気がつけば七海の愚痴を美由紀にこぼしていた。美由紀にとっては七海も仕事上の取引相手であるから言葉選びには気を遣ったが、美由紀の優しい問いかけに自身の酔いも加勢されて、気がつけば1時間ほど龍司は1人で話してしまい、美由紀は相槌を打ったり表情を目まぐるしく変えてただ聞いてくれた。

「ごめん、1人でずっと嫁の愚痴なんか話しちゃって」

 ハッとして龍司は恥ずかしい気持ちになり、美由紀にそう伝えると、

「けど長谷川さんわたし、そうなんじゃないかな、と思ってましたよ」

 意外だった。美由紀は気さくな女性であったが、取引先とのプライベートには全く踏み込んでくることはなく、そういったことには関心がないような雰囲気だったから。

「七海さんって、他の人には凄く気を遣って思いやりがあるけど、長谷川さんにはけっこう塩対応っていうか、冷たいですよね。素敵なご主人なのにな、って」

 ドキッとした。

「素敵なご主人」というのは、意図があるのか、なんとなく社交辞令的なものなのか、美由紀の表情からは読み取れなかった。確かに龍司自身、見た目は割と良い部類の男である自負はあった。40代半ばになったが、10歳くらい若く見られて驚かれることもある。流石に体型は昔のままとは行かないが、男性としての色気は兼ね備えているつもりだ。しかし、美由紀が龍司に異性としての好意を持っているとは、やはり思えなかった。ただその一言により、龍司の中に決して灯ってはいけない微かな炎が燃え上がりそうになるが、必死でそれを鎮火しなければならない、人生の経験上、咄嗟にそう感じていた。あくまでも、取引先を不快にさせない言葉の選択だったのだと。しかし何気ないその美由紀の一言にさえ、ぐらついてしまうほど自分自身が弱っていることも事実であった。そして次の美由紀の言葉に、龍司はさらに揺さぶられてしまう。

「わたしでよければ、愚痴でも何でも話してくださいね。長谷川さんがそれで少しでも気が紛れるなら嬉しいですから。あと長谷川さんわたしね、そういう話を聞いてる時間も嫌じゃないから」

 美由紀はさりげなく「タメ口」を投入してきた。「ただの取引先」という境界線をスッと美由紀が越えてきた瞬間だと、龍司は本能的に感じた。この程度でグラつくほど、女性経験が無い訳ではなかった。むしろ、若い時からけっこうモテてきた自負はあるし、まわりと比較して経験値は相当高いということも自他共に認めるところでもあった。しかし七海と夫婦として折り合いがつかず弱りきっている今の龍司は、ちょっと吹けばすぐ飛んでいくような、ダウン寸前のボクサーのようであった。

 美由紀の優しさが不足していた何かを身体に染み渡るように補っていく。一応、冷静さを保った自分も共存していた。自分は精神的に弱っているだけなのだと。見た目とキャラが「いい女系」の美由紀と雰囲気が良いバーに二人きりで飲み、優しい言葉をかけられ酔いもその助けになり、ちょっとした「可能性」が脳内によぎってしまった、そんな自己分析が龍司の胸の内にあった。

 さらに1時間、他愛もない話で何とかその場を紛らわせて会計を済ませて帰ろうと立ち上がった時、ふらつきそうになり、思いのほか酔ってしまった自分に気付く。それは美由紀も同様であった。

「ちょっと飲みすぎましたね〜」

 ほろ酔いの美由紀の無邪気な笑顔。龍司の内側にトキメキが去来し、動揺しそうになるが何とか平静さを保ち、支払いを済ませて出口に向かう。

「階段という場所は、男女のドラマの引き金になる」

 いつかの飲み会で遊び人の先輩がそう言い、皆で爆笑したことを何となく思い出しながら、美由紀と並んで地上へと続く階段を昇っていた時「あっ」という声と共に美由紀がふらつき、反射的に龍司の右腕のジャケットの裾を掴み、それと同時に龍司もまた咄嗟に左手で美由紀の上半身を背中から支える形になってしまった。美由紀を支えた左手が、たまたまブラジャーのホックとわかる部分に触れる形になってしまい、不謹慎ながら微かな興奮を覚えた。大丈夫? と声をかけようとしたが、思いの外、美由紀の美しい顔が近すぎたせいで、ドキッとして無言になる。美由紀もまた、黙って龍司を見つめていた。5秒ほどその状態から二人は動けず、まるで永遠のように長い時間に感じた。

「あの……」

 沈黙を破ったのは美由紀であった。

「長谷川さん、わたしね……。誰にも言わないですよ」

 次に気が付いた時には、二人は重なり合っていた。「取引先の担当」という美由紀との構図に大きな変化がもたらされてしまった一瞬。遠慮がちな、しかし淫美なキスのあと、美由紀は言った。

「長谷川さんと不倫したい訳じゃない。わたしも恋愛するの面倒になってたし、秘密は守るけど干渉もしない。そういうのも楽でアリなのかなって。都合の良い女以上、不倫未満、みたいな?」

 そう言って、悪戯に笑う美由紀を見つめながら、取り返しの付かないことをしてしまった罪悪感と、七海と結婚して以来、味わったことのない背徳感に興奮してザワザワしている自分に龍司はただ身を預けているのが精一杯であった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ