聖母マリア
夏休みまで残り1週間となった。他の同級生は陸上部を引退したが、龍司は8月のインターハイに向けて、1〜2年生に混じって練習に明け暮れる日々であった。
陸上競技が本当に好きだった。部活のメンバーは個性的で、面白い連中ばかりだった。とにかく毎日楽しすぎて、部活をやるために学校に通っているようなものだった。同級生が引退してしまい一抹の寂しさを感じていたが、体育教員になることを目指している龍司は、大学に進んでも陸上競技を続けることを決めていたから卒業までずっと練習は続けるつもりだ。
北海道とはいえ、真夏は30度を越える日も少なくなく、暑かった。照りつける日差しに汗まみれになりながら龍司は、青春の最後の1ページに刻み込むように砂場へ何度も飛び込み、グラウンドでの時間を過ごした。
純子とは、英語の授業以外ではほとんど話す機会が無かった。
告白したい。
どうやって呼び出したら、不自然ではなくなるのだろうか。経験値の浅すぎる龍司にはわからなかった。
「放課後、たまには一緒に帰らない?」は突発的だろうか。
「話があるから、体育館の裏に来てくれないか」は露骨過ぎてダメだ。
考えれば考えるほど緊張感が高まり、頭が回らなくなって思いつかない。龍司は途方に暮れていた。
1学期最後の英語の授業となった。ここで純子に個別に会う約束を取り付けられなければ、悶々とした夏休みを過ごす羽目になることは明白だった。万が一告白がうまくいった場合、純子との最高の夏休みが待っている。ここ最近の純子の様子を見ていたら「もしかして、告白して大丈夫なのではないだろうか」という期待感も少しはあった。英語の授業が行われる8組の教室に向かいながら、龍司は緊張していた。途中ヒロシとすれ違い声をかけられたが、生返事しか返すことが出来なかった。
教室に到着。すでに純子は、いた。いつもの爽やかな笑顔で龍司を迎えてくれる。夏の制服のブラウスから細い真っ白で透き通るような美しい腕が伸びていて、ドキッとした。他愛もない話を続けているうちに、授業が始まってしまった。
切り出せなかった。もう龍司に残されたチャンスは、授業終わりの僅かな時間のみとなった。授業の内容は、全く頭に入ってこない。龍司の意識は全て、右隣にいる純子に向けられていた。
純子を、見たい。
例え手が届かない存在だとしても、この胸に焼き付けておきたい。気付かれないように横目で見たかったが、変に意識しすぎているせいなのか、なかなか純子を捉えることが出来ずにいた。ドキドキしながら、やっとの思いで純子を視界に入れた。
── 純子と、目が合っていた。
龍司の心臓が一度、ドクン、と大きく鼓動した。しかし純子は表情を変えない。でも明らかに目線は重なっている。目が合っていることに気付いていないようだ。物思いにふけているのだろうか。
ボーッとしたような、穏やかで柔らかな優しさが際立つ、美しい顔だった。龍司は、女神のようなその純子の表情に見惚れていた。世の中の全ての音が、消えていた。
窓から吹き込んできた微風が、純子の長く美しい髪を揺らした。それを左手で無意識に耳にかけるような仕草。聖母マリアのような、純子。目線は合ったままだった。
龍司にとって純子は、この世で最も純粋な、清廉な、可憐な存在だった。
純子しか、見えなくなっていた。
好きだ。
その好きだ、という言葉が安っぽく感じるほど、純子への気持ちは大きくなっていた。
好きだ、以上のこの想いは、正しくは何と表現するものなのだろう。
愛してる、とは違う、この恋心の最頂点。好きだ、の向こう側。
龍司はもう張り裂けそうになっていた。
「あと5分ありますが、授業は終わり。チャイムが鳴るまで自由にしててよし」
先生の計らいが、龍司にとっては神からの啓示だった。純子と話すチャンスをくれた、神様。とにかく何かを誘うんだ、言え、龍司。心の中で自分を鼓舞しながらも何気ない会話で間を繋ぐ以上に進めずにいた。
とりあえずきっかけとして、進路について純子に聞いてみた。この高校から進学する者は、9割以上が札幌市内の専門学校や大学を選択する。純子が札幌のどの大学に行くのか今日まで知らなかった。
「大学に行ったら、たまに札幌で会おうよ」
そう会話を繋ごうと思っていた。龍司は札幌市内にある、国立の教育大学を第一志望としていた。
「わたしね、神戸の大学に行くんだ」
思わず、えっ、と漏らしてしまったあと、言葉が繋がらなかった。神戸って、関西の、神戸。
「どうして‥‥」と責めるように言ってしまいそうになり、耐える。
「へー、そうなんだね」と、何とか返答したが、心中は愕然としていた。
札幌と神戸。
インターネットも携帯電話も無いこの時代において、北海道の田舎町の高校生にとってそれは「ニューヨークに行きます」と言われているような絶望的な距離。こんなにも喪失感を感じたことは、18年間の人生で初めてだった。遠距離になることを覚悟して告白しても構わないが、龍司は一瞬でその事実に萎えてしまい、言い出せなくなってしまった。
18歳。子供だけど、それなりに大人だ。それがどういった意味を為すのかは理解できた。大学生の貧弱な経済力を考慮したときに、札幌と神戸、それはあまりにも無理がありすぎる。一気に地獄の底に落とされてしまったように感じた。
チャイムが鳴り、その場に残ることが辛くなった龍司。
じゃあね、と純子に告げ廊下に出たが、3組へと戻る足取りはあまりにも重い。
何も考えることが出来なくなってしまった。
時は正常に刻んでいるはずだが、全てがスローモーションに見えた。
つい先程まで色鮮やかだったこの世の全てが、モノクロームな世界へと変わっていた。




