7-2 拷問
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アークが次に意識を取り戻した時、最初に知覚したのは濃厚に鼻にこびりつく血の臭いだ。次に得たのが体全体を覆う熱と倦怠感。それらを振り払いアークはゆっくりと鉄のように重い瞼を開いていく。
広がる視界の先は霞んでおり最初の内はボンヤリとした輪郭しか見えなかったが次第にその詳細が分かって来る。自分の前には何か黒い服を着た人間がいる、と。
「あ、起きたんだ。おはよう?それともこんばんはかな?」
そのように思考を巡らせているとアークの頭上から声がかけられる。顔を上げ、声の主を確かめる。
「お前……は」
「私はトア。あなたを捕まえた普通の人間。……よっと」
見上げた先にいたのはおおよそ予想の中でも最悪の部類だった。つまり先ほどの襲撃者、トアと名乗った少女がそこにいた。彼女は小さな何かを指で弾き上げると重力でそのまま落下してきたソレを手で掴む。そしてまた指で弾き上げ掴むといった子供の暇つぶしのようなことに興じていた。弄んでいるモノを除けば、の話であるが。
「それ……」
「ああこれ?見る?勝手にもらっちゃったけど。綺麗だよね」
アークの疑問に反応したトアは手のひらをアークの眼前で広げてその中をじっくりと見せてやる。
「爪」
ソレは芸術品を思わせるかのような透き通った美しさのある爪だった。こびり付いた血と肌も一種の刺激としてその美を際立たせている。しかしその持ち主は
「っ……!?ぁぁぁああああああああ!?!?!」
自身の身体から無理矢理に切り離された物を見せられ元の持ち主、アークは急速に自身を苛む全身の痛みを自覚する。痛みに神経が焼け正気を失いそうな中いやおうなく自身の状況を理解してしまう。
「なんだよこれ……なんだよこれぇ!……テメェ、アタシを……アタシを拷問してやがったのか……!!」
椅子に拘束されたまま吠える手負いの鮫に対し人間はそれまでを思い出し陶酔するような声色で答えてやる。
「そうだよ。あなたってほんとに頑丈なんだね。普通の人だったらもう何回も死んでると思うことされてるのに全然起きても来ないなんて。図太いというかなんというか、生物としての力が根本的に違うって感じ。面白いなぁ」
トアはアークから視線を外し爪を近くの古びた机の上に落とすと、置かれていた巨大なペットボトルの蓋を開ける。それをつまみ上げ、再び拘束されているアークの元に戻ってくる。痛みに喘ぐアークの首元をつかみ締め無理矢理に天を仰がせた。少女の力は見た目よりも強いものだったが普段のアークでは悠々と振りほどけるようなものだった、しかし、身体を侵す毒物と痛みはその程度の抵抗すらかなわないほどに彼女を消耗させていた。 アークがされるがままにされているトアは先ほどのペットボトルをアークの顔の高さまで持ち上げ。そして彼女の口元に突き込み。液体をその口内に注ぎ込み始めた。口を塞がれ呼吸は断たれたまま水だけが注がれる状況。当然直ぐに呼吸の限界が来る。アークがただの人間であればそうなっていた。
「アレ?……そっか人間じゃないとこういうことも起きるんだ。失敗失敗」
感心の声も当然、アークの首元。エラの部分が活発に可動していた。まるで塞がれた口の機能を補うようにだ。トアはその様を興味深く観察した後ペットボトルを捨てるとアークの元から離れていく。それを虚ろにで眺めていたアークの眼が見開かれる。殺人鬼が新しい玩具を用意していた。
「じゃあソコ塞いじゃおっか」
トアが愉快気に引っ張るソレはガムテープ。彼女はテープを伸ばしては切り一枚一枚丁寧にアークのエラを塞ぐように貼り付けていく。アークは可能な限り身を捩るがそんな些末な抵抗はなんの意味もなさない。瞬く間に全てのエラは塞がれ顎を起点に天井へと視界を向けさせられる。そこのは既に巨大な容器の姿があり。
「それじゃあ再開しよっか?」
「や……めろ……」
「ダメー」
トアは笑顔でそういって液を注いでいく。完全に気道を塞がれ苦しむアークをじっくりと観察する。
「地上で溺れる気分はどう?あなた魚みたいだしきっと格別だよね。後でじっくり感想を聞かせて欲しいな」
ゴクリ、ゴクリと徐々に水を嚥下する速度が上がりそれに比例するようにアークの身体は助けを求めるようにもがき始めた。だが、ここは陸で見ているのは殺人鬼のみだ。ライフセーバーは存在しない。
5本、6本と容器が空になりアークの生気も尽き果てんとする時ようやく水が止んだ。
「ゲホッ……ゴ、ぁえ……ゲホッ、ゴホッ……!ぉ……ェエ……」
ひとしきり水を吐き出した後、砂漠でオアシスを見つけた遭難者のように空気を掻き込むアークを他所にトアはその場を離れ、机の上に手を置く。
「ふふ、びしょびしょだねあんなに暴れたんだから仕方ないか。全部飲み切れなかったあなたにはいた~いお仕置きがまってます!頑張って耐えてね」
演技がかかった口調で告げるとトアは手元に置かれていた何らかのスイッチを押した。瞬間。
「う、ぁぁあああああああああ!?ギィィィィイイイイイ!?」
電流がアークの全身を駆け巡る。アークを拘束する椅子、その本体から常人ならば即死するほどの電気が流れていた。
電気椅子。古くは処刑道具として使用されていたものである。それが今アークの全身を苛んでいる。
「止め、止めて!……止めてぇ!!」
「そう言われるともっと強めちゃいたくなるな~。だって喋れるぐらいに元気があるってことでしょ?ねっ」
「やぁぁぁぁあああああああああ!!」
アークの反応を愉しむように遠隔操作によって電気椅子の電撃は強められていく。
致死の電撃を受け続ける中、電流と共にアークの脳内を様々な思考が駆け巡っていた。 全身を襲う激痛、いつまで続くのかという不安、ただの人間にここまでいいようにされている恥、そもそもサンの制止をきかず深夜遅くに遊び歩いていなければ襲われなかったのではないかという後悔。全てがアークの本心であることには間違いないだがそれらを塗りつぶすような一つの強い感情がアークの心を支配していた。
恐怖。
人間を遥かに超越した存在であるSHである自分を子供のように無邪気に、何の罪悪感もないように攻め立てる。目の前の、ただの人間であると名乗った得体のしれない人間に対する圧倒的な恐怖が渦巻いている。
そしてその自身にはとても制御できないあまりに強い感情は、SHであるアークにある変化を引き起こした。
「!?何?体が光って……ガッ!?」
突如として発光したアークの身体から部屋中に発せられた雷。その余波といっていい閃光にトアは触れ。地面を転がりそのまま動かなくなった。
アークショック。
恐怖によってもたらされた進化という福音はこの場において最も適切な力をアークに与えた。それは身体の再構成による傷と精神のリセットや敵の排除の力だけではなく彼女を襲う電気に対する耐性という形にも現れた。
「え?あれ?わた……アタシ、生きて?ヒッ、なんで倒れてるの!?と、とにかく逃げなきゃ」
電撃で電気が切れたことで暗くなった室内と床に倒れたトアという不可解に怯えつつも全快した身体能力で難なく己を拘束している電気椅子を破壊したアークは突き動かされるように立ち上がり部屋を後にしようとする。己を襲撃した相手にとどめを刺すという発想は全く浮かばなかった。彼女にあるのは一刻も早くここを抜け出して家に帰りたいという一心だけだ。
アークが扉をあけ放ち廊下を突き進もうとしようとしたその時、ふとした不安が脳裏をよぎった。先程から物音などしていない、気配も感じない。であればそのまま逃げてしまってもいいはずだ。しかし、気になる。敵が追ってこないのだという安心を得たいがため、彼女は息を飲みゆっくりと背後を振り返る。そしてすぐに後悔することとなる。
「ヒッ!?」
ソレは見ていた。
得体の知れない襲撃者は床に転がり動けずにいるが。それでも暗がりの部屋の中からジッとアークを見ていた。決して逃げられはしないと、そう主張しているかのような瞳に吸い込まれるような錯覚を得てアークは先ほどの恐怖を鮮明に思い出す。凍土に放り込まれたかのように全身が震え、歯がカチカチと音を鳴らして止まらない。気付けばアークは甲高い叫び声を上げて走り出していた。