湖畔にて③
この章は第28部分~第29部分の間に起きた出来事です。
時系列が前後して申し訳ありませんが、ご了承ください。
森の奥――。木々のざわめきと飛び立つ鳥の鳴き声が猛威の出現を伝えた。勇者の第六感はさらにその正体に当たりを付けた。世界を取り巻く魔王の波動に匹敵する暗黒闘気。これほどの気を纏う魔物は幻獣種くらいのものである。
「――」
アテアの目つきが変わる。バカンスを楽しむ緩んだ気持ちから切り替わり、勇者としての本能が瞬時に目を覚ます。思わず鞘を握り締め、強張る体を解放させるかのように一気に駆け出した。
「待てアテア! 一人で行くなっ!」
アニも尋常じゃない気配に気づいたようだが、制止するより早くアテアは動いていた。一歩で数メトルもアニを突き放し、二歩目で生身の人間では追いつけないほどの距離を走った。ただ一直線に、大気を震撼させる脅威の出処に駆けていく。
途中でふたりの人間とすれ違った。きっと木に繋がれた馬の持ち主たちだろう。その正体までは確認することなく――どうでもいいと切り捨てて、アテアは洞窟の入口に到着する。
洞窟の周辺は森の中にあってぽっかりと円形に開けていた。空が見え、見通しがいい。身を隠せそうな場所はなかった。
「……」
足の裏をかすかにくすぐる振動と、それに伴い近づいてくる足音。巨大な何かを内部に潜ませる暗闇を、アテアは剣を構えて見据えた。
来る。
予想したタイミングで、そいつは姿を現した。
『――ほう。よもや太陽とともに勇者の姿を拝むことになろうとはな』
「……ボクも驚きだよ。こんなところでドラゴンに会えるなんてさ。しかも、喋ってる」
『我はエルダードラゴンと呼ばれる最古の竜。言語を操ることなど造作もない。まあ、使い道もないのだがなあ』
ドラゴンはにんまりと笑う。どういった経緯で洞窟から出てこようと思ったのか知らないが、会話をしている今の状況を楽しんでいるようだった。
ドラゴン――その姿をアテアはもちろん初めて見る。伝説や英雄譚には必ず登場する悪神の代表格みたいな存在。伝えられているとおりの姿だった。巨大な体。尖った翼。岩のような肌。鋭い爪と禍々しい角。瞳は知性を宿すのに、眇める蛇の目にひとかけらの情は見当たらない。人間はおろか魔族さえ見下すかのような圧倒的な偉力を撒き散らす。
アテアは臆することなく話しかけた。
「君はここに封印されていたドラゴン?」
『いかにも』
「どうして出てきたの? やっぱり魔王が復活したから?」
ほう? とドラゴンは目を細めた。
『復活と言ったか。ならば魔王め、一度は敗れたらしいな。クフハハハ、なかなかやるではないか人間どもよ。あの勇者め、我を封じたのもまぐれではなかったようだ』
その勇者の名が【英雄ハルウス】だということをドラゴンは知らない。アテアも今は思い至らないし、昔話に興味はない。
「魔王復活が理由じゃないなら、じゃあ何で?」
『我を眠りから叩き起こした人間どもに礼を言いたくてな。貴様も奴らの仲間か?』
「知らないよ。あ、でも、さっき誰かとすれ違った気がする」
『では、貴様はなぜ我の邪魔立てをする? なぜ我に剣を向けるのだ?』
「決まっているだろ。ボクは勇者だ」
その返答は完璧すぎた。ドラゴンは『つまらぬことを訊いたわ!』と哄笑した。
『我が魔物魔獣の類であるから駆けつけたのか! さすがは勇者よ! いつの時代もうつけ者は後を絶たぬ!』
それが楽しくて仕方ないとばかりに雄叫びを上げ、臨戦態勢はそうして整った。
『よかろう。貴様ではないが、勇者に報復する機会を早々に得られたのは運がいい。勇者の亡骸を土産に魔王に会いにいくとしよう!』
「できるものならやってみなよ!」
戦闘開始ッ!
◆◆◆
戦いは、アテアの初撃の空振りから始まった。
「――――っ!?」
一息に距離を詰め、ドラゴンの視線をかわして中空に飛び上がったのは頭部への斬撃を狙ってのことだった。しかし、あるべき場所にドラゴンの顔はなく、振り下ろした一撃は風刃を放って地面を一直線に抉っただけだった。頭部はおろか視界にはドラゴンの巨体すら消えていた。空振った今でも柄を握る手のひらに斬撃の衝撃が来ないことが信じられなかった。絶対に避けられない間合いだったはずなのに。
瞬間移動――? 何らかの魔法によるまやかしか――? しかし、直後に煽ってきた突風がそれら疑問を否定する。巨体が高速で動けばその体積だけ空気が巻き込まれる。風圧がドラゴンの軌道を後追いし、アテアに位置を教えてくれた。――左後方。
驚嘆すべきは、ドラゴンのこの高速移動がただの跳躍によって引き起こされたということだ。単なる身体能力。魔法も翼も必要とせず、ドラゴンがステップを踏んだに過ぎない足運び。
伝説のドラゴンは、まさかの肉弾戦が得意だった。
『気を強く持て』
尻尾をしならせて鞭のように飛ばしてきた。
「――――ッッッ!?」
空中で直撃を喰らったアテアはそのまま地面に叩きつけられた。間一髪、両腕を交差して衝撃に耐え切ってみせたが、防御した腕が痺れて剣を取りこぼしてしまう。剣を拾うか迷ったのも一瞬、ドラゴンは尻尾を振るった勢いに任せて巨体を回転させ、今度は前足の爪を振り下ろした。剣を諦めて後方に逃げる。この刹那の判断がアテアの命を救った。
直前までアテアがいた位置に、ドラゴンの爪が大穴を穿った。
『ほう。よく今のをかわせたな。勇者は数多く見てきたが、貴様は中でも優秀だ』
「……そりゃどうも」
確かに咄嗟の判断で命を拾ったが、しかし剣を手放したのは致命的だった。おかげで剣はドラゴンの足に踏まれている。
(どうしよう……どうする……)
剣を失った場合を想定したことがなかった。徒手空拳で魔族と相対しようなどとはこれっぽっちも思わなかったし、まさかその相手がドラゴンになろうとはどうして予想できただろう。たとえ想定していたとしても活路を見い出せたとは思えない。ここまで巨体でありながらアテアよりも速く動けるドラゴンを、素手でどうやって倒せというのか。
まずは剣を拾う。反撃はそれからだ。
『どうした? もうおしまいか?』
そんなことは当然ドラゴンにも見抜かれている。承知した上で剣を踏んでいるのだからあのドラゴンも性根が腐っている。まるで誰かさんみたいだ。
なおのこと、負けたくない。
こんな奴には絶対に負けられない。
『掛かってこんのか?』
面白がって挑発するドラゴン。そこまで言うなら――。
「ふっ!」
予備動作もなしに疾駆する。瞬時に間合いを詰めたアテアは、聳えるドラゴンの胴体を渾身の一撃で殴りつける。――が、その拳はまたもや空を切り、バックステップを踏んだドラゴンのカウンターに再度見舞われることとなる。大きく開けた口から咆哮を放つ。それは空気を圧縮した大砲となってアテアを吹き飛ばした。
「キャア――――ッ!」
さらに連射。アテアの体が鞠のように右に左に弾け飛ぶ。トドメとばかりに放たれた渾身の衝撃波が正面から直撃した。
(あ……まずい、コレ。……意識が)
アテアの視界は白濁に染まっていった。
◆◆◆
咆哮弾の嵐はひとまず鳴り止んだ。
土埃を巻き上げて地面を抉り滑っていくアテア。上下ビキニを着たままのアテアは全身が泥にまみれ、露出した肌に汚れていない箇所を見つけるほうが難しい有り様だった。
怪物に追われて躓き転んだか弱き人間の娘――事情を知らぬ者にはそうとしか見えない光景で、今のアテアは格好からして場違いであり、無様をさらしていた。
『――むう』
だが、翻弄しているはずのドラゴンは制止して佇んだ。なぜか追撃することを躊躇ったのだ。姿形が年端の行かぬ小娘であったとしても油断ならない相手であることは重々承知のはずなのに。
相手は勇者だ。得物である剣を押さえているかぎりドラゴンが致命傷を負うことはおそらくない。対戦を楽しみたいという欲求はあるものの、復讐を果たす機をあえて逃すほど傲慢ではなかった。勇者だからこそ侮らない。ドラゴンは今こそ追い討ちをかけるべきなのだ。
なのに、ドラゴンは動かない。
いや、動けない。
『何なのだ、貴様――?』
アテアが立ち上がる。その目が据わっている。意識がないのか焦点が定まっていない。おそらく咆哮の衝撃波をもろに受けた影響で意識が飛んでいた。しかし、その肌に傷らしい傷はただの一つも付いていない。頑丈を通り越している。――こやつの体、鉄か何かで出来ているのか。
感情を感じさせない瞳。まるで機械人形のようだった。
「ふっ」
それこそ機械的な動きで、先ほどの焼き直しであるかのような寸分違わぬ駆け出しで、アテアはまたもやドラゴンの懐に飛び込んだ。
(――ふんッ! 性懲りもなく!)
わずかに後退してアテアの間合いを外す。同じことの繰り返しというならドラゴンもまた同一のカウンターで迎え撃つ。鼻から酸素を取り込むと、咆哮弾をぶちかまさんと顎門を開いた。
(喰らえ――っ!)
ズドン、という轟音が響き渡った。
……ドラゴンが放った大砲の音ではない。その発生源はありえぬ場所だった。
アテアが間合いを詰めていた。ドラゴンに避けられた瞬間、ただ触れることにのみ全霊を掛けて足を出し腕を伸ばしたのだろう。伸びきった腕でかろうじてドラゴンの肌に拳を押し付けていた。腰が入っていないパンチ。いや、パンチと言えるかも怪しい一撃。ドラゴンはにわかに失笑しかけた。そのとき――。
はらわたが内側から爆散したかのような衝撃が胴体の一点から広がった。小娘の細腕、小粒のような拳と侮るなかれ。実際に接触して得た体感では、その拳は巌の如き強堅さであった。
『ご、がはあっ――!』
開いた口から体液がこぼれ出る。咆哮を撃ち出すつもりだったドラゴンはしばらく呼吸の仕方を忘れた。そして、それは完全なる隙となった。
(――――はっ!?)
アテアがいない。いつの間に。いや、ドラゴンの耳は跳躍した音を漏らさず聞いている。――上。咄嗟に眼球を真上に回転させる。見ると、太陽を背負う形でアテアが空高く飛び上がっていた。
アテアが虚空を握る。まるでそこに剣の柄でもあるかのように。
そのとき、ドラゴンの目に大上段に振り上げられた刀身が見えた。アテアが放つ張り詰めた闘気が幻影を生み出したのだ。
「ライトニング――」
まずい。
避け――。
「ブレー……ド」
ドラゴンは咄嗟に身を竦ませて勇者の一撃に備えた。しかし、待てど暮らせど死神の鎌が降ってくることはなかった。
アテアは剣を振り下ろした態勢のまま、地面に着地していた。
「――あれ? ボク、剣もないのに何やってんだろ……」
そこで、アテアは夢から覚めたかのように正気を取り戻した。
『――』
おそろしい。アテアが両腕を振り下ろした瞬間、ドラゴンは確かに脳天を一刀両断されていた。結局そんなものは幻に過ぎなかったのだが、そのように錯覚させるほどの剣気――実力を有していることはもはや疑う余地がない。それに、先ほどの拳による一撃。不安定な姿勢で押し付けただけの拳にあれほどの威力があろうとは。剣技だけでなく格闘技においても魔族を圧倒する力を秘めている。潜在能力だけなら、もしかしたらすでにこのエルダードラゴンよりも……。
この娘は――いや、この戦士は今ここで殺しておかなければ。やがて竜族の天敵になるであろう。
まだ強さが発展途上にあるうちに、この勇者を葬らねばならない。
「あ、――わわわわっ!?」
アテアはドラゴンの間合いから慌てて逃げ出した。
「ととっ、危ない危ない! 意識が飛んじゃってたよ! くっそう! 剣さえ拾えればこんな奴ぅ……っ」
直前まで素手でドラゴンを圧倒していたことをもう忘れていた。やはり無意識であったか。
ならば、潜在する能力を引き出しきる前に殺すのみ――。
『ゆくぞ、勇者よ――! 直ちにその息の根を止めてやる!』
とにかく剣を拾わせてはならない。
「へ、へん! そう簡単にはいかないんじゃないかな!」
ドラゴンは間合いを測りながら、咆哮弾と物理攻撃を織り交ぜてアテアを翻弄していく。アテアはとにかく動き回って速さでかく乱しようとするも、ドラゴンがそれを上回る反射速度で対応するため攻めきれずにいる。
体力も強さも経験も何もかもドラゴンが勝っている。消耗戦ではアテアに明らかに分が悪い。敗れるのも時間の問題だった。唯一アテアに勝機があるとすれば、ドラゴンが目覚めたばかりで本調子でないということだろうが……。
その程度のハンデで覆せるほど両者の実力差は小さくない。
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エルダードラゴン LV.30
HP 2833/3000
MP 989/999
ATK 350
MTK 400
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アテア LV.15
HP 874/1230
MP 72/72
ATK 120
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