SIDE―兄② 世界の王
――今、目の前に見えている光景が現実だという実感が湧かなかった。
薄暗い洞窟の中。松明の明かりと入り口から差し込むわずかな光を頼りに辺りを見渡せば、複数人が同時に寝食しても窮屈でない程度の空間が広がり、現に壁際に造成された土製の寝台には誰かしら横たわり寝息を立てていた。
ここでは性別や身分の違いによる配慮は極力排除されている。それは女であり元陛下であるヴァイオラたっての希望だったのだが、厳しい逃亡生活で疲弊しきった親衛隊の面々にはそもそも気を遣う余裕がなかった。四六時中気を張りつづけている彼らにとって心休まる瞬間は睡眠のときだけである。無礼と知りつつもヴァイオラに背を向けた彼らの寝姿からは重々しい疲労感だけが漂っていた。
……まだ夢を見ている感覚があった。目が覚めたら王宮の寝室にいて、魔王軍との戦いに備える一日がまた始まる。口うるさい大臣たちをどう説き伏せようか。恐怖に怯える民たちをどのようにして導いていこうか。演説の台詞や軍備の状況などを頭の中で逐一整理しながら決戦の日を見据え、逆算するように環境を整えていく。そんないつ終わるとも知れない日常に、半ば悟ったような境地で舞い戻ろうとする自分が、まだいる。
あの日々にはもう戻れない。そんなことはわかっている。だが、どうしたことか心が、理解が、いまだ追いつかない。魔王軍に敗北しアンバルハル王国が滅びたという事実を遠い夢のように感じてしまうのだ。
ロア・イーレット二世が土属性魔法で掘った洞窟での生活は現実感を損なわせる。自分が何者であったかも曖昧にさせる。どうしてこんな場所に隠れ潜んでいるのかさえ偶にわからなくなる。
それが現実逃避だということは知っていた。
おそらく、アテアが死んだことが一番堪えているのだと思う――と、他人事のように自己分析しているかぎり現実逃避は止まないのだろうなと悟り、ヴァイオラは苦笑した。
洞窟の外では魔族が血眼になってヴァイオラを捜索していた。魔王軍は王族の生き残りであるヴァイオラを公開処刑することでアンバルハル王国の陥落を内外に知らしめたいのだ。つまり、見せしめである。国内に燻る反乱の芽を完全に摘む狙いもあるのだろう。
そうはさせまいと親衛隊が守りを固め、今はリンキン・ナウトとジャンゴが交代で国境の様子を探ってくれている。隙あらば、他国に亡命するために。
そのとき、入り口付近に掲げた松明が揺らめいた。人の出入りに空気が流動したのだ。
間もなく足音が聞こえると、外を警備していたリリナが姿を現した。
「ヴァイオラ、起きてる? アディユスが亡命先の調査から戻ってきた。すぐに出立するから準備しろって」
夢から覚める頃合いだ。ここ数日間世話になったこの洞窟にも別れを告げるときがやってきた。
これまで拠点を転々としてはせっかく作った洞窟を破棄してきた。そのたびに帰る場所を失う寂しさを味わってきたが、同時に現実感を取り戻す。
王族でも女王でもない、ただの逃亡者という肩書きを拾い上げる。
「わかった。行こう」
洞窟の暗がりに飲み込まれて心まで闇に閉ざされる前に。
ヴァイオラは自らを鼓舞するように勢いよく立ち上がった。
◆◆◆
森の中を親衛隊とアディユスが一塊になって行進していく。殿にリンキン・ナウト、先頭にはジャンゴが付き、親衛隊が中央に配したヴァイオラを警護する形で一団は黙々と歩いていく。
拠点だった洞窟は跡形もなく潰して地中に押し戻した。惜しむ気持ちはあれど、作り手のロアが無感情に自らの成果物を取り壊しているのを見ると何も言えなくなった。ただ前に進むしかないのだと気持ちを新たにさせられた。
だが、先頭集団のやや速い歩調の迷いの無さには訝しむ気持ちがなきにしもあらずだった。一体どこに向かっているのやら。頭上を木々の枝葉が遮って太陽の位置もわからないでは大体の方角すら掴めなかった。北ならばラクン・アナ、南ならマジャン・カオ。この森は広大だが南北に細長く広がっている。森を抜けるのに掛かった時間と距離、それに太陽の位置から答えは得られるのだろうが、何にせよ森を抜けねば始まらない。
ヴァイオラがそんなことをつらつら考えていると、不意に前を歩くアディユスが止まれと号令を掛けた。
「ここで小休止を挟む。森を抜ける頃には陽が落ちていたほうが動きやすいのでな、体力に自信がない者は今のうちにたっぷり時間を掛けて休んでおけ」
ルーノやクレハはもちろんのこと、ロアとレティアもまだ子供と呼べる年頃である。アザンカに至っては常に雷魔法を動力源にして車椅子を動かしているので体力のみならず魔力の消耗まで激しい。団体行動をする以上、何をするにも体力が少ない彼らにペースを合わさざるを得ず、こうした休憩はかなりの頻度で取られている。
そのことがヴァイオラには不思議だった。アディユスらしからぬ行いに思えたのだ。いくら親衛隊が魔導兵として優秀でも一人も脱落させることなく同行させるのはかえって効率を悪くしている気がするのだ。皮肉屋で合理的に物事を考えるアディユスならばルーノたちは真っ先に切り捨てる対象として見ていてもおかしくないのに。
いや、そもそもこうしてヴァイオラの亡命を手伝っていることからして不自然だった。アディユスの目的は魔王を討つことだと出会った当初に聞かされた。ヴァイオラに接近しアンバルハル王国軍の軍師になったのは、魔王を戦場に引きずり出し一対一の状況を整えるためなのだと。
ならば、王国が乗っ取られ女王ですらなくなった今のヴァイオラはもはや不要の存在であるはず。用済みとして切り捨ててさっさと他国の王族に乗り換えればいいものを、どうしていまだに側近として尽くしてくれるのだろうか。
ヴァイオラが投げる胡乱げな視線に気づいたアディユスは、周囲への警戒を一旦緩めて近づいてきた。
「何か言いたいことがあるのか? 何だ」
こういう物言いは出会った頃から相変わらずだ。余計なお喋りを排除して簡潔な回答だけを求める。そこに情愛が混ざる隙間はない。なおのことこの男の真意が気に掛かった。
「私はもう女王ではない。なのに、なぜおまえはここまでしてくれる?」
「なぜも何もない。それが最も効率的だからだ」
当然とばかりに言い放つ。が、ヴァイオラには意味がわからなかった。効率を考えるならば陣営を乗り換えたほうがよほど早いように思うのだが……
なおも訝しげに眉をひそめていると、アディユスはこれ見よがしに嘆息した。
「おまえが考えていることを当ててやろう。魔王軍に対抗する軍勢を手に入れたければ他国に取り入ったほうがもっと効率的ではないか――そんなところだろう。確かに効率だけを見ればそのほうが早かろう。
だが、これは盤上遊戯ではない。どのような駒にも感情がある。そこに至るまでの背景が存在する。おまえを切り捨てて他国へ渡ったとして、私を受け入れる人間の軍がそもそもあると思うか? 魔王軍の裏切り者で、一国を滅ぼした要因の一つであるこの私を誰が信用するというのだ」
なるほど。仮に今ヴァイオラが別の国の王位にあったとして、魔王軍の裏切り者を軍師に迎え入れるかと問われれば確実に「否」と答えるだろう。魔王復活が懐疑的だった頃ならまだしも、すでに一国を攻め落とされている現状ではアディユスのような得体の知れない魔族から協力を申し込まれても敵の間者としか思わないはずだ。
たとえアディユスが身分を偽ったとしても同じこと。いや、元魔王軍の幹部という強力な肩書きが通用しなければ何を騙っても門前払いだろう。
「その点、おまえはどの国の王とも面識があろう。亡命を無事果たした暁には私とその国の王との間で便宜を図ってもらいたい。それが再起を図る上での最短ルートだ」
納得した。アディユスの徹底的な合理主義が生きていてむしろ安心できた。
「よくわかった。親衛隊に配慮してくれているのも私に対する阿りだったんだな」
別に不満はない。実際に親衛隊の子供たちを最後まで面倒見てくれるかどうかは不安の種だったのだ。理由がどうあれ見捨てずに居てくれるなら文句はない。
だが、アディユスは不本意だと言わんばかりに眉間にしわを寄せた。
「何を言う。彼らは貴重な戦力だ。あれほどの人材は魔王軍にもそうはいない。一人一人が幹部に匹敵する潜在力を秘めている。育て方次第では万の軍勢にも匹敵しよう。ぞんざいに扱っていいはずがない」
驚いた。そこまで買っていたとは思わなかった。一見、一匹狼のように思えるが、アディユスなりに味方の重要性を理解しているのかもしれない。
……いや、それも含めて合理主義か。
いまや血統と経歴しか意味を持たないヴァイオラは自嘲するしかなかった。亡命先で運よく重用されたそのときこそ、ヴァイオラは本当の意味で用済みになるのだ。
「そして、私は最初に誓ったはずだ。忘れたとは言わさんぞ」
不意にアディユスの顔が間近に迫った。
まるで忠誠を誓う騎士のように片膝を立てて、倒木に腰掛けるヴァイオラと目線の高さを合わせた。
「な、何だ? 何をだ?」
狼狽するヴァイオラに、アディユスは真摯に口にした。
「おまえを世界の王にするという誓いだ」
「……」
世界の王――
六か国の軍隊及び勇者連合を率いて魔王軍から世界を救った者には、その功労を称えて『総帥』の称号が与えられることになる。
世界の軍勢の総大将――すなわち『世界の王』というわけだ。
終戦を迎えれば単なる名誉称号でしかなくなるが、歴史上その地位に就いた者は『神』だけである。アディユスはかつてヴァイオラを『神』にすると言って口説いたのだった。
まさか本気だったとは。
「……私を乗せるための安い方便かと思っていたぞ」
「侮るな。私は私の魂に誓ったのだ。誓いを破ることは私自身への冒涜となる。今一度誓おう。私はおまえを世界の王にする。何があっても私が必ずおまえを守る。おまえは私にだけ守られていろ。わかったな?」
「――っ」
それだけ言うと満足したのか、アディユスはさっさと立ち上がって離れていった。
ヴァイオラはといえば、不覚にも頬の火照りを感じていた。誤魔化したくて必死に両手で顔を拭う。自分が面食いだとは思わないが、あの端正な顔で口説かれるとどうしても意識してしまう。――くそ。不意打ちなんて卑怯じゃないか。
完全に目が覚めた。アディユスの野望やアンバルハル奪還を達成するには『世界の王』は避けては通れない道らしい。今がその始まりだった。ここからが本当の戦いなのだ。敗戦の将だといつまでもいじけている場合ではない。
覚悟を決めた。ヴァイオラもまた戦士の顔になる。
「そろそろ行こう。必ずや亡命を成功させる。皆の者、ついてこい!」
アディユスに代わって指揮を執る。世界を背負う気でいるなら魔族ごときに気後れするわけにいかない。
この森を抜けたとき、真の物語が幕を開くのだ。
◆◆◆
この日、ヴァイオラ元女王は親衛隊とともに亡命を成功させる。
一行が向かった先は、北か南か――
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