勇者シナリオ⑧『悪徳神父サンポー・マックィン』その4
さらに二日後の夜のことだった。
新たな戸籍の捏造と偽装用の死体の入手にはそれ相応の手間と時間が掛かるという話で、それにはベフォマト・ゾーイも納得し、気長に待とうと決めていた。
希望が見えたこともあり、維持してきた緊張感が若干弛んだ。ずっと同じ倉庫の中で身を潜ませているのも息が詰まる。少しくらいなら大丈夫だろうと倉庫から忍び出た。
教会内部にいては職員に見つかる恐れがある。ベフォマト・ゾーイは勘を頼りに建物内をさまよい、裏口に到達した。
久方ぶりに出た外の空気を清々しく感じられたのは最初の一呼吸だけだった。直後に鼻腔を襲ったのはドブ底のような悪臭であった。それは周辺一帯に漂っており、臭いの発生源は一か所というわけではなさそうだった。
路地に出ると悪臭の原因が判明した。そこはまるで整備されていない裏路地で、路面のむき出しの土の上を汚水がちろちろと流れていた。通常道路は、雨水や生活排水が道の左右にある側溝に流れるように中央を盛り上げて設計されるものだが、そこは中央が窪んでいて汚水が流れ込む形になっている。わざとそう設計したのではなく、踏み固められた土が次第に凹んでそうなったようだ。排水溝があるならまだしも、汚水はあちこちにぬかるみを作り悪臭の原因となっていた。
俗にいうスラムである。比較的治安がよいとされている王都アンハルにも、スラム街は王都を囲う城郭の際――『壁際』にいくつも存在していた。そしてここは最も疫病が蔓延している第十教会地区にある汚染区域の路地であった。
ベフォマト・ゾーイには知る由もないことだが、衛生面を改善しようという声は意識の低い地域住民から出るはずもなく、それ幸いと整備費用を丸ごと着服する役人が横行しており、十年以上前からこの状態であるものをこの先改善される見込みはない。
これならばラクン・アナのほうがよっぽど清潔に保たれている。女帝の気質によるもので街の景観はどこも美しいものばかりであった。もっとも、ゴミが一つでも落ちていれば市民全員が処罰の対象になるという欠点を加味すると息苦しさの度合いはあまり変わらないが。
自由の国アンバルハル。だが、自由過ぎるのも善し悪しだということをいみじくも象徴した問題であった。
「……。――ん?」
絶句し、呼吸も止めていたせいか、その物音を聞き逃さなかった。
二つ先の路地からだ。足音を殺し、息を潜めながらこちらに向かってくる複数の気配を感じ取る。ベフォマト・ゾーイはすかさず教会の敷地に戻り雑木の陰に身を隠した。
背の高い石塀の裏側までやってくると彼らの話し声がよく聞こえた。
「悪いですねえ。帰り道まで護衛していただいちゃってぇ。おかげで誰にも襲われずに済みました」
神父の声だ。その他複数の失笑する気配が漂う。
「こっちが本職だからな。仕事はするさ。しかし、この街で誰がおまえを襲うと言うんだ。神父サンポーよ」
「いやほら近頃物騒ですし、不審者がどこに潜んでいるかわかりませんからねえ。たとえば――ラクン・アナからの亡命者とかあ?」
ベフォマト・ゾーイはぎょっとして身を固くした。
護衛が本職というからには相手は警備兵か何かだろう。そんな人間に軽々しく亡命者がいることを匂わせるなど……どういうつもりだ……。
兵士が苦笑気味に答えた。
「心配するな。計画どおり明日、ここにいる者だけで教会の倉庫を検める。そこで亡命者ベフォマト・ゾーイを密入国の罪で捕まえる」
「――ッ!?」
叫びそうになるのをすんでのところでこらえた。
……いま、何と言った?
俺の名前だ。密入国の罪で捕らえるとも……。
神父にしか素性を教えていないのに……!
「気を付けてくださいねえ。窮鼠、猫を噛むという言葉もありますし」
「何言ってやがる。神父も一緒に取り押さえるんだよ」
「はえ? わ、私もですかあ? それはちょっと勘弁しちゃもらえませんかねえ? 騙している手前、心苦しくってぇ」
「それこそ何を言う。こんなふうに亡命者を売り飛ばすのなんざ初めてのことじゃあるまいし」
「そうだそうだ。ラクン・アナからベフォマト・ゾーイの手配書が届いているかどうか。懸賞金に幾ら懸けられているかとか、俺たちに詳しく調べさせておいてよく言うぜ。こうまで手馴れてちゃ罪悪感が入り込む余地なんて無いだろうに」
「ひどい! いつもいつもあなた方にも懸賞金の取り分を分けてあげているというのに! 私の仕事は通報までです。それ以上は働きまっしぇーん!」
「相変わらずふざけた野郎だ。まあいい。逮捕は俺たちだけでやってやる。ところで、前々から聞きたかったんだが、神父はいつもどうやって亡命者を見つけだしているんだ? この広い王都の中で誰よりも先に発見して匿うことができるなんてどう考えてもおかしい。何か裏があるんじゃないのか? 言えよ。言わないと懸賞金を回してやらんぞ」
「ぇえ!? そんなの脅しじゃないですか!?」
「いいじゃねえか。俺たち警備兵が見つけたってどうせ懸賞金は出ないんだ。だから、神父の手口を真似する気はねえよ」
「……はあ。仕方ないですねえ。他の人に言ったら嫌ですよ? 単純な話、ラクン・アナから来る馬車を気に掛けていればいいんです。亡命や密入国をする輩ってのは大概荷馬車に隠れているものですからねえ。真っ先に見つけて優しくしてあげればまんまと絆されてホイホイ付いてくるって寸法です。なんせ私、神父ですし? あっさり信頼してくれます。今は気が緩んでいるでしょうから拘束するのも簡単ですよお!」
「なるほど。ひどい神父だ」
わっはっは、と遠慮のない哄笑が木霊した。
ベフォマト・ゾーイは知らず拳を握りしめていた。うまく呼吸が出来ているかも定かじゃない。
絶望と怒りで目の前がチカチカと明滅する。今すぐにも飛び出してその顔面を殴り飛ばしてやりたかった。
神父と兵士たちの会話は続く。
「生死は問わず――ということだが、やはりまた生け捕りにするのか?」
「はいぃ。そっちのほうが先方にとってもいいでしょうし、何より下手なことして北国から難癖つけられでもしたら王宮に迷惑かけちゃいますから。私、王宮に目を付けられると死活問題になりますので。いっひっひ」
「まったく。悪徳とはおまえのような奴を言うんだろうよ。サンポー・マックィン」
ベフォマト・ゾーイは一足先に倉庫に戻っていく。




