その3「魔物討伐」
桃源郷に到着し、辺りを見渡して嘆息する。
「今日もいませんわね、あの庭師」
折を見て訪問しているが、女王蜂は初めて会ったとき以来一度も漆黒の女を見ていない。
このときの女王蜂には知る由もないが、漆黒の女は『殺戮蝶』の異名で知られる魔王軍の幹部であった。
常時戦いに参加している殺戮蝶が、自ら作った桃源郷を訪れるのは偶の保養期間だけである。
「桃源郷に棲む魔物」などと恐れられているが、人間が襲われるときはその保養期間と重なった場合のみなので、行商人一行は収穫日を一日ずらしていればおそらく死なずに済んでいた。
殺戮蝶としても庭を横切る害虫を目撃したから無視できなかっただけであり、俯瞰して見れば双方ともに運がなかった話であった。
一方、女王蜂にとっては刺激的な体験だった。
自分以外の特級魔族の存在を初めて知ったのだから。
桃源郷も欲しいが、何より殺戮蝶が気になっていた。
(まあ、気長に待ちますわ。ここも彼女もわらわの物ですし)
すでに所有物認定しているので焦ることはない。
また、魔族の寿命は長く、だからなのか朽ち果てるものにはいちいち心を砕かない。
仮に金輪際再会することがなかったとしても惜しんだりはしない。縁がなかったとすっぱり諦めるだけである。
今ある物を目一杯愛することが長生きを楽しむ秘訣。
女王蜂は即席の玉座を作ると、山盛りの果実と花蜜の樽を周りに並べて豪遊した。
「あら? 客人かしら?」
桃源郷の主になった気でいる女王蜂は、森を突っ切ってこちらを目指す行軍の足音に気づいた。数にして二百から三百。ただ果実を収穫に来た泥棒ではまさかあるまい。
この土地を丸ごと簒奪しにきたのだと即座に理解した。
「まったく。品位に欠けますわね」
事前に特使の一つも寄越さないとは。作法も儀礼もあったものではない。もっとも、こういった礼儀知らずの輩を正面から叩き潰すのは嫌いじゃないが。
女王蜂は文句を言いつつも意気揚々と槍に手を伸ばし、その口許に嗜虐的な笑みを浮かべた。
◇◇◇
先遣隊が森を抜けて現れた。
次の瞬間、真横から吹きぬけた疾風が先頭にいた五人の頭部を側面から粉砕した。槍と拳による殴打である。桃源郷の美しさに目を奪われた一瞬の出来事であった。
「いやですわ。せっかくならわらわの美しさに目を眩ませてやるべきでしたわね。申し訳ないことをしましたわ」
疾風の正体は人間離れした美女だった。
後続の兵士たちは我に返り、突如現れたその女を桃源郷に棲む魔物だと認識し、慌てて武器を構えて陣形を整えた。
女王蜂を取り囲む。
続々と兵士が到着し、人垣はどんどん膨らんでいった。
「せっかくのお庭を荒らされては堪りませんわね。わらわはここから一歩も動きませんのでどこからでも掛かってくるがいいですわ!」
そう言った矢先、もはや女王蜂の姿さえ視認できない最後尾にいた兵士たちは、魔物討伐を他に任せて桃源郷に足を踏み入れた。
彼らの目的は桃源郷の資源を乱獲することである。
魔物討伐に割いた兵士の数は十分――と見て取り、任務を内部調査に切り替えたのだ。
桃源郷を調べ尽くさんと散開する兵士たち……しかし、端から順に次々と小石の弾丸によって心臓を撃ち抜かれていった。
一歩も動かないと宣言した女王蜂がその場で垂直に跳んで投擲したのである。
「わらわを無視するとはいい度胸ですわね。お庭へ侵入した者は優先的に殺してやりますわ。死にたくなければ引き返すか、わらわを倒すしかありませんわよ?」
優雅に妖艶に、純白の黄金蜂が偉力を解き放つ。
「さあ、掛かってきなさいな」
魔物が想定していたよりも強いとわかり、兵士たちは魔物討伐に集中し始めた。
剣を槍を正面に構え勇ましく気勢を上げると女王蜂に殺到した。
◇◇◇
――ワザクール教国の兵士たちは周辺国からも勇猛果敢にして残虐と恐れられている。
戦とは遠征先にて虐殺の限りを尽くし、略奪したモノとヒトを大量に抱えて凱旋することを言う。
兵士が敗走してくるという事態を国民は誰一人として想定しておらず、当の兵士たちもそれは同じだっただろう。多少の犠牲は付き物として飲み込んでいるが、その一部に我が身が組み込まれた場合のみ万に一つの不運を呪うのだ。
壊滅も壊走も敵対する側の無様な見せ物という認識でしかなかった。
だからか――、この展開を予測した者は皆無であり、五十人が息絶えたところでようやくこれが『戦』でないことをすべての兵士が感じ取った。
「お次はどなたですの?」
屍の山の上で金髪の女が踊っている。
斬りかかった兵士を端から順に、殴り、突き刺し、踏み潰し――その場から一歩も動くことなく兵どもを死体に変えていった。
にわかに静寂が訪れた。息を呑む音にさえ緊張が走る。
威勢を挫かれた兵士たちはどう動けばいいかわからずに立ち尽くした。
戦友と上官を目の前で簡単に惨殺されて、夢から覚めたように己の矮小さを思い知ったただの雑兵には斬りかかるだけでも荷が重い。
だが、引き返すという選択肢もやはり頭になかった。
そもそも勝つ以外の戦の終わらせ方を知らなかった。
手柄を立てるのはいつも先陣を任せられる腕自慢ばかりでそれを不満に思っていたというのに。いざそいつらがいなくなり矢面に立たされて初めて恐怖に全身が震えた。
背中を見せる度胸はなく、しかして立ち向かう勇気もない。
結果、蛇に睨まれたカエルの如く膠着した。
「何をしているのです!? それでも教国の兵士ですか!?」
そのとき、耳をつんざくような女の怒鳴り声が響き渡った。
兵団本隊の中央、御輿に担がれて登場したのはワザクール教国の王妃である。桃源郷を直に見たいというワガママを実現させて行軍に同行したのである。
王妃直属の道士組が詠唱しながら前に出た。
紡いだ魔法は多種多様。編み込んだ複雑な魔力帯と膨大な魔力量は一目で高位の威力だとわかる。
女王蜂は「へえ」と口許を歪ませると軽やかに屍の上から飛び降りた。
「ようやく骨のありそうな相手が出てきましたわね! よくってよ! わらわを楽しませなさいな!」
「アレが魔物ですか!? さあ、おまえたち! 教国の力を見せておやりなさい!」
王妃の号令の下、道士組が魔法を放たんとしたその瞬間――。
桃源郷の内部で巨大な爆発が起きた。
女王蜂は爆風に背中を押されて思わずたたらを踏む。
女王蜂も、王妃も、道士たちも、何事かと目を見開いた。
爆炎の中を漆黒の女が歩いていた。
桃源郷の主、殺戮蝶の帰還であった。




