誰がために
そのように見くびられているとは露知らず、オプロン・トニカは魔王軍の予測どおり蓄積された疲労により逃げ足を鈍らせていた。
老体であることももちろんだが、盲目がより神経をすり減らしていた。
また、生涯演奏一筋でやってきた音楽家に体力的余力など望むべくもなく、ふらつく足元をなんとか前進させるだけで精一杯だった。
特技だけでなく身体能力も向上してもらいたかった――というのが本音だが、どのみちこの老体では超人的膂力など宝の持ち腐れだろう。
(まったく。歳は取りたくないものですな)
「お嬢さん方。わたくしに構わずお逃げなさい」
左右から体を支えていたレティアとエスメが顔を上げた。
一方は「はあ!?」と目を吊り上げて、もう一方は「あらあら」と困ったような顔をして。
「何言ってんの!? そんなことしたらヴァイオラ様のお役に立てないじゃない!」
「王女様のこともそうだけどー、おじいちゃんを置いて行けないわねー」
「……わたくしとて死にたくありません。大丈夫です。わたくしには《不可視》の魔法があります。その辺にでも隠れてやり過ごしますよ」
逆に言えば、レティアとエスメがいるとそれが難しくなる。三人分の魔法を常に掛け続けなければならないし、そうなると体力的にやはり厳しい。
我ながら妙案かと思ったが、返ってきた指摘に閉口した。
「音楽かき鳴らしながら隠れるっていうの? 馬鹿なの?」
「……」
「レティアちゃん、めっ、よー? おじいちゃんに馬鹿とか言ったらー」
どうやら思考まで鈍っていたようだ。女性二人を逃がしたいあまりにそんな単純な欠点にさえ気がつかないなんて。
「いい? レティーたちは絶対に任務を投げ出したりしない。今度そんなことを言ったらおじいさんの口を氷漬けにして二度と喋らせないようにしてやるから」
「それ、死んじゃわないかしらー?」
「ははっ、参りましたな」
どうやら決意は固いらしい。となれば、自分が一刻も早く安全圏に逃げ込むしか彼女らを救う手立てはない。
「とはいえ、どちらに逃げればよいものか」
「最初は王都の中に避難するつもりだったのよ! でも、あの敵幹部と立ち位置が入れ替わっちゃったもんだから外に逃げるしかなくなったの!」
「このまま北門に向かうしかないわねー。でもー、あっちはあっちで大変そうじゃなーい?」
「北はロアとラクトが担当だったっけ。……頼りない二人だわ」
引き続き、北門方向に歩いていく。
だが間もなく、進行方向から猛烈な勢いで土煙が巻き上がるのを確認した。
「何か駆けて来ますな……! すごい勢いです……! ややっ、この足運びは――サザン・グレー殿ではありませんかっ!?」
「よく音だけでわかるわね。エスメ、見える?」
「たぶんそうみたーい。騎士の鎧ぃ? みたいなの着てるわー」
「じゃあ、北門は勇者様が勝ったのね!」
レティアが声を弾ませた。確かに、サザン・グレーが持ち場を離れたということは北門から脅威が去ったことを意味する。だが、それがすなわち敵に勝利したことと結びつくわけではない。
オプロン・トニカの耳は、サザン・グレーを追う飛翔体の音も聴き取っていた。
サザン・グレーはその存在に気づいていない?
仕留めたと思っていた敵に背後を狙われているのだとしたら――。
「戦闘準備をッ! お嬢さん方はご自分の命を優先するように!」
「え? お、おじいさん?」
「レティアちゃん! 魔王軍よ!」
超高速で接近するサザン・グレーの姿をはっきりと視認したそのとき、レティアもその背後にいる影を捉えた。
漆黒の翅を羽ばたかせる蝶々の化身――殺戮蝶リーザ・モアだ。
リーザ・モアの視線がレティアたちを捕捉した。殺気がびりびりと伝わってきた。その瞬間、サザン・グレーもまた背後のリーザ・モアに気づいた。
「サザン・グレー殿と共闘します!」
ヴァイオリンを構える。
あるいはこれが誰かにとっての鎮魂曲になることを、オプロン・トニカはこのとき密かに予感した――。




