その6「黒蝶のお守り」
「――こ、これは!?」
組んだ両拳のてっぺんに黒い羽根の蝶々が一匹止まっていた。
「まさか、リーザの身に何かが!?」
リーザに持たせた『黒蝶のお守り』が術者の危険を報せに飛んできたのだ。
父はすぐに状況を理解すると、【ロックグラン】に向かうべく家を出ようとした。
それを、母が止めた。
「なりません。儀式の最中です。神子以外が入山することは禁じられています」
「リーザが死ぬかもしれないんだぞ! 神子である前に私たちの娘じゃないか! 私は助けに行くぞ!」
「なりません。蝶々が飛んできたということは山頂から落下したのでしょう。今から行ってももう間に合いませんよ」
「山頂から……?」
その確信めいた発言に父は眉をひそめ、すぐさま何かに気づいた。
「ま、まさか、あの話をモアにしたのか? 山頂に咲く花を摘んだら恋が叶うとかいうあの話を」
母はじっと自分の夫の顔を見つめていた。
父が叫んだ。
「なんてことを! あの話は迷信だったじゃないか! 十五年前、山頂に花なんて咲いていないことを実際に確認してきた君が! 他でもない君が! 実の娘にそんな嘘を吐いたのか!?」
母の表情が悲しげに歪む。
しかし、その口許には笑みが浮かんだ。
「だって、あの子なんかにアナタを渡したくなかったのよ……っ」
「何だって?」
「知ってる? リーザが愛していたのは実の父親であるアナタだった。もちろん知っているわよね。アナタもリーザの気持ちに気づいていたからこそ過剰にリーザの肌に触れていた。いやらしい手つきで愛撫していたわ」
「な、何を馬鹿なことを……」
「物陰に引っ張り込んでどんな行為に及んでいたのか、私が知らないとでも思って?」
「……」
「それでも一線を越えなかったのは儀式があったからでしょう? この集落では女は十五で成人する。リーザは神子だから儀式を終えるまで処女でなければならない。アナタは儀式が終わるのを待った。リーザもその気だった。だから山頂に登ったのよ。帰ってきたらアナタを誘惑する気でいたのでしょう。そしてアナタも、リーザの誘いを受けるつもりだった」
「……ばかばかしい。こんなことを言い合っている場合じゃないんだぞ!」
母の追及を振り切るように――あるいは逃げ出すかのように――父は戸口に向かった。
「駄目! 行っては駄目! 行かないでアナタ!」
母は父に背中から抱きついた。
行かせまいと胸に回した腕に力を込め、背中には豊満な乳房をわざとらしく押し付けた。
「抱いてください。今すぐに。十五年前、儀式を終えて帰ってきた私を無理やり襲ったあのときのように」
「……」
母の色香に抗える男など老若問わずしていないだろう。
父も戸口を掴んでいた手をにわかに下した。
振り返る。間近に迫る、上気した母の顔はそれだけで媚薬であった。
思考力が低下するだけでなく体中の細胞すべてを刺激される。
見つめられるだけで果てそうになる淫靡さがある。
父も例に漏れず甘い色香に吸い寄せられていった。
だが、いざ唇同士が触れそうになった瞬間、父の目に理性が戻る。
その上、そこに失望の色が宿ったのを母は見逃さなかった。
どれほど妖艶でも、どれほど美しくても、肌のハリや潤いは、十五の娘とは比べるべくもなく劣っている。十五年前の父に劣情を催した乙女の体ではもうないのだ。
父がいま抱きたい体はリーザの柔肌に他ならない。
「リ、リーザを助けに行かないと! 私の可愛いリーザ!」
母を突き飛ばし、今度こそ戸口を出ようとして無防備な背中を再度さらした。
このとき、母の目つきが据わったのを見逃したことが父の運の尽きだった。
次の瞬間、母が隠し持っていたナイフが父の背中に突き立った。
その鋭利な切っ先が肋骨の間をすり抜けてまっすぐ心臓に到達したのは偶然にすぎないが、最後の一押しにナイフが体内で捻じれたのは紛れもなく母の意志によるものだ。
明確な殺意は心臓を抉り突き破り、父を即死に至らしめた。
「リーザに奪われるくらいなら……。アナタは永遠に私のものよ……」
許さないから。
許さないから。
私をモノにしておいて私を捨てていくなんて。
「許さないんだから」
父の亡骸を呆然と見下ろすと、母の目からすうっと一筋の雫が滑り落ちた。




