その5「悪鬼」
【ロックグラン】の頂きに辿り着いた。
すべての山々を見下ろせる高さ。
周りには空しかなく、衣服をはためかす風の音しか聞こえない。
それでも天はいまだ遥かに遠く、一筋の陽光がこの場所を照らしていた。
なんて神々しい。地上にはありえない眩さだった。
(ああ――、神様を近くに感じます。この山は本当に神の山だったのですね)
信仰心が満たされたのと同時に、モアから聞かされた伝承の信憑性を俄然高めた。
神の存在を確認できた今ならば、ここに咲く花にも神秘を期待できる。
そして、唐突に閃いた予感に従って振り返れば、果たして視線の先には一輪の花が咲いていた。
小さくて可憐で儚い小さな白い花が、岩の隙間からかろうじて顔を出していた。
呼ばれた気がした。
一歩近づくと、返事をするように花弁が風に揺れた。
「私を待っていてくださったのですね!」
首肯するかのようにまた揺れた。
もう間違いない。
神様は――花の精霊はリーザの恋を応援している。
ここまで登ってきた疲れも吹っ飛び、リーザは小走りに花に近づいた。
「ありがとうございます。これであの方と結ばれる……」
幸せな未来を想像してはにかむと、そっと花に手を伸ばし――。
ぶちり、と茎から摘み取った。
◇◇◇
「アアアアァァアアァアァアァアアアアアァアァァァァァァ!!!!!」
晴天に絶叫が木霊した。
まるで四肢をもぎ取られた獣の断末魔のような悲鳴にリーザは反射的に竦み上がった。
絶叫の震えが大気を揺るがし、振動は地面にも伝わった。
足許がうねり、その揺れは段々と大きくなって立っていられなくなる。
「何!? 何なの!?」
思わず両手を突いて地震に耐える。
そのとき、背後に巨大な気配を感じた。
まるで雲がのしかかったきたかのように錯覚するが、晴れ渡った青空に白い影は一つも見当たらない。
では、一体何が背後にいるというのか。
「わたしのお花……。ようやく咲いたわたしのお花……」
ぞっとするほど陰湿な声音。
まるで死者がこの世を呪う怨嗟のよう。
神などではありえない。
花の精霊かとも考えたがそれも違う。
おそらくソレは悪魔の類に他ならない。
恐る恐る振り返る。
やはりそこにいたのは、毒々しい色をした花弁に口を生やしたような悪魔――瘴気を振りまく魔界の怪物だった。
「返せぇええぇえぇええええ! わたしのお花ぁああああああぁあぁ!」
怪物が蔓の触手を伸ばすとリーザを突き飛ばした。
「――――え?」
虚空に投げ出されたリーザは為す術なく落下した。
絶壁ゆえにリーザを受け止める地面はずっと下方にしかなかった。
そして、地面への着地を頭蓋の割れる音とともに聞く。
――――グシャ。
◇◇◇
「――――」
即死でなかったのは一体どんな運命のいたずらだったのか。
見開いたままの瞳が山頂を見つめていた。
魔界の怪物は神子殺しの咎により神の鉄槌を今まさに喰らっていた。
『――よもや人の子を殺めるとはな。出過ぎた真似をしたものよ。悪鬼に成り果てた精霊よ、貴様には永遠の苦しみを与えよう』
雷が怪物を一刀両断した。
黒焦げになった怪物はしかし、全身を聖なる炎で燃やされながらもかろうじて生きながらえていた。
神の言葉が本気なら、あの怪物は聖火に燃やされながら永劫に苦しみ続けることになる。
リーザは無意識に握った『黒蝶のお守り』に魔力を込めた。
すると、置物でしかなかった蝶々に命が宿り、羽を広げ、手の中をすり抜けるようにして飛んでいった。
やがてリーザの意識は遠ざかったが、視界は集落を俯瞰する蝶々の目線に接続した。
蝶々の羽ばたきに合わせて上下する映像が現実感を損なわせる。
これは夢?
蝶々は集落の中を飛んでいき、リーザの実家に辿り着いた。
窓の隙間から侵入し、娘の無事を神に祈っていた父親の拳に止まった。




