その3「悪魔の囁き」
「禁忌? どんなお話ですか?」
モアは妖しげに微笑むと、唇をリーザの耳元に寄せ、囁くようにして言った。
「リーザには愛する男性はいて?」
「え!? い、いません! そんなひと!?」
赤面するリーザにますます笑みを咲かせるモア。
仲睦まじいこの母娘の間に隠し事はない。
無論、リーザの意中の相手が集落の若い男の中にいないことも知っている。
今はまだ恋に恋をし、いずれ誰かと結ばれることを夢見ている段階にすぎない。
「なら、打ってつけですね。あなたにこそこの言い伝えが必要です。リーザは知っていますか? 【ロックグラン】の頂きに咲く一輪の花のことを」
「いいえ? 山頂にお花が咲いているのですか?」
「そうです。草木ひとつ育たない山々の中で、なぜか頂きにだけ咲く花。この地上のどこにも咲いていない幻の神の花」
「そんなの初耳です。どうして誰も教えてくれなかったのですか?」
「だって禁忌ですもの」
小声で告げられて、リーザははっとする。
禁忌――侵してはならない原則。
たとえ入山が許されている神子であろうとも、頂上を目指してはならぬという戒律があった。
登っていいのは祭壇がある八合目まで。
それより先は神域であり、一度足を踏み入れれば二度と戻ってこられないと言われている。
なのに、まるで見てきたかのようなその言い伝えが一体何を意味するかと言えば――。
「神子にしか伝わっていないのは禁忌を破った神子が過去にいたから。そして、その罰当たりはずっと継承されています」
「そんな……っ」
リーザは絶句した。
この集落では掟は絶対だ。
違反すれば集落から追放される。
そして、何の準備もなしに野に放たれた人間の末路は惨いものだと聞いている。
集落を北に七日歩けば隣町に辿り着くと言われているが、そこまでに高確率で魔物に襲われる。
たとえ運よく魔物に遭遇しなくても、厳しい気候の変化に肉体が耐え切れず三日と持たずに野垂れ死にする。
掟を破るとは死ぬということ。
厳しい戒律の中で育ってきたリーザはそれを頭から信じていたし、事実、集落の外は厳しい世界が広がっている。
身震いするほどの罰を想像してすぐにリーザはある恐ろしい事実に思い至った。
「ま、まさか、お母さまも山頂に!?」
「シッ! 声が大きいです……。いいですか、リーザ? これは神子に選ばれた者の特権でもあるのです。確かに集落の掟では頂上に登ってはいけないことになっています。しかし、神はそれをお許しになりました。いまだに私に天罰が下っていないのがその証拠です。そして、リーザ、よく聞いてください。このお話はここからが大切なのです」
一層声を低めて、モアは口にした。
「山頂の花を摘むと恋が叶う――そう言われています。私はそうしてお父さまと結ばれたのです」
少しはにかんだ笑みを見せると、リーザは目を丸くした。
「本当ですか? お母さま」
「はい。十五年前、私はお父さまに恋をして、この恋を叶えたいと願いました。私の先々代の神子からこのお話を聞かされて、私は入山したあのとき山頂を目指しました。そして、神の花を見つけたのです」
神の花を摘んだそのとき、世界は光に包まれた。
すべてが思い通りになるような万能感に満たされた。
下山すると、思ったとおり意中の男性はモアに一目ぼれし、男性のほうから求婚してきた。
その年の内に身ごもり、そうして生まれたのがリーザであった。
「そんなことが……」
にわかには信じられなかった。
けれど、元神子であり実母であるモアが言うのだから真実に違いない。
集落一の美貌を持つモアであればそのようなズルに縋る必要はなかったとも思うが、自身の美しさに無自覚なリーザにそれを指摘する筋合いはない。似たもの親子だからこそ共感できる部分もある。
「とても素敵なお話です! わたくしもそのお花を見つけたい!」
リーザはすっかりその気になった。
「早く儀式の日が来ないかしら」
「あらあら。さっきまで怖がっていた子とは思えませんね。わかっていると思いますけど、このことは誰にも内緒ですよ。特にお父さまにはね」
「はい。わかってます。お父さまには特に」
秘密を共有したふたりは、顔を見合わせると少女のように笑った。
今にして思えば、この夜のモアの語り口は完全に悪魔の囁きであった。




