名もなき英雄③
名もなき英雄に憧れた。
過去、英雄と謳われた人間は数知れない。だが、歴史に名を残すことなく英雄の陰で散っていった豪傑たちはそれこそ無数に存在した。
彼らは英雄の武功に助力し果て、自ら立てた武功さえ英雄の勲章に吸収されて存在ごと抹消された。
人類のため平和のためにと戦った者がいた、富のため名声のためにと画策した者がいた。
時に勇敢に、時に卑劣に。
正々堂々を信奉し、卑怯千万を肯定し。
勝利という結果のみにこだわって、敗北に繋がろうとも経過だけに囚われて。
愛を説き、悪を為し。
正義を貫き、非道に生きた。
そんな彼らもまた「無名」でありながら英雄だったのだ――。
◆◆◆
幼き頃、英雄譚はチャンバラごっこの設定に過ぎなかった。
誰もが英雄ハルウスになれた。棒切れの聖剣を手にし、肩車した魔王を退治して、一つの演目が終わればその役割を脱ぎ捨てる。英雄は一人だけ。他の子供は魔王軍側で斬られ役。誰もが英雄ハルウスを演じたし、ハルウスに斬られもした。そこにある矛盾に気づくことなく「たった一人の英雄」の物語を再現した。
その矛盾に気づいたのはいつのことだったか。たぶん、子供たちの間でも意識した者はほとんどいないだろう。所詮ごっこ遊びだし、おとぎ話を真面目に考察すること自体無意味であった。
しかし、気づいてしまうともう意識から外すことができなくなった。ごっこ遊びを卒業し、英雄にはなれないのだと悟った後でもその思いに囚われ続けた。
たった一人の英雄――そんなものは存在しないのだ、と。
単純な話、お供や仲間がいなければ彼の武勇伝を語り継ぐことはできない。まさかやられた側が喧伝して回るはずがないし、英雄本人の証言だけを鵜呑みにするほど当時の人間も馬鹿ではなかっただろう。目撃者、生き証人がいたからこそ伝説は生まれるのだ。
英雄は、たった一人では「英雄」になれない。
彼を英雄にのし上げたのは、その他無数の「無名」たちである。
自分に「英雄」の資格はない。
目指すなら、名もなき英雄くらいが丁度いい。
◆◆◆
「……」
見上げた空には月が出ていた。雲が掛かり、ぼんやりとしているが青い光を地上に注いでくれている。行く末を照らし出すほどの力強さはないが、どこか優しくて、包み込んでくれているみたいで安心できた。
城郭の見張り台の上。そこにやって来たハルスとリリナを、聖騎士の鎧を装着したガレロが迎えた。
「よう。お二人さん」
「ガレロ……。なんだか久しぶりな気がする」
ハルスがそう言うと、ガレロは「俺もだ」と笑った。
「で、何だよリリナ? 俺とハルスを呼び出して。何かあんのか?」
リリナは、むう、と頬を膨らませた。
「だって、王都に来てからずっと会えてなかったんだもの。二人の顔が見たかったの」
ガレロは勇者になり、リリナはヴァイオラ親衛隊の隊長になった。そしてハルスは、雑兵ではあるもののアニに見出され、今では王族護衛騎士団の団長ケイヨス・ガンベルムの側近として働いている。
アコン村が焦土と化したあの日から、ずいぶん遠くに来た気がする。皆、どことなく顔つきが変わった。立場が人を変えたのだ。
もう昔のように接することはできそうにないと、三人ともなんとなく感じ取っていた。
「昼間、王都に魔物が出たけど、二人は大丈夫だったのか?」
「ええ。私はヴァイオラの警護をしていたからずっと王宮にいたわ」
「僕も。護衛騎士団とともにいたから外の騒ぎには勇者が駆り出されるまで気づかなかった。ガレロは戦ったの? その……勇者として」
戴冠式の後、広場でお披露目された勇者たちの中にガレロは並んでいた。ハルスはその姿を見て何とも言えない感情に支配された。自分を差し置いて勇者になった親友への醜い嫉妬。自分だけが選ばれなかったという絶望と劣等感。同時に、バジフィールドの死を思い出し、戦場に行かずに済むと考えて安堵もしていた。自分は勇者の器じゃない。あの中に混ざってなくて本当によかった。助かった。そんなふうにも考えて自己嫌悪に陥った。
壇上にいるガレロと、聴衆の一人に過ぎないハルス。
この差は何だ。
ああ、でも。勇者になったガレロは以前よりも頼もしく見えた。
英雄に一歩近づいたのだ。それだけはどうしようもなく羨ましかった。
そしてガレロは今日、勇者として華々しい初陣を飾ったのである。
「いや、実は俺、戦いに参加してないんだ。他の勇者がさっさと見せ場をかっ攫っていっちまったからさ。俺はここで外から魔物が来ないかずっと警戒していたんだ。で、気づいたら終わってた。活躍できなかったのは残念だったが、まあ、見張り役も重要な役目だし。これはこれでやり甲斐はあったぜ」
「そうね。ガレロが外を警戒してくれたから他の勇者様たちは戦いに集中できたんだと思う。だから、ありがとう。ガレロ」
「へへっ。リリナに感謝されるなんてな。子供の頃に木登り教えてやったとき以来じゃねえか?」
「仕方ないじゃない。ガレロってばいっつもしょうもないことして私を怒らせるんだからっ」
「ガキだったんだよ。自分が何者かなんて知らなかったんだ」
そう話すガレロの表情はこれまでにないほどの精悍さを湛えていた。勇者という役割を与えられて責任が生じ、同時に確かな自信が伴ったからだろう。かつてのような空回ってばかりいた無鉄砲さが抜け落ちて、今ではその顔つきは大人びて見えた。
一人取り残された気分になる。ハルスは思わず拳を固く握った。
「で? リリナ、用件は何だよ? まさか本当に顔が見たかったからってだけで俺たちを呼び出したのか?」
問われて、リリナは毅然とした面持ちで二人を見た。
「ハルス、ガレロ――これから戦いは激化していくし、もう止められない。だから、二人にも誓いを立ててほしいの」
思わずハルスとガレロは顔を見合わせた。
「二人が誓いを立ててくれたら、私、少しは安心できると思うから」
「誓いってどんなだよ?」
「〝何があっても必ず生きて帰ってくる〟って」
二人にも――そう言うからにはリリナもすでに同じ誓いを胸に抱いているらしい。あるいはヴァイオラ陛下か誰かに誓いを立てているのだろう。
幼馴染みに死んでほしくない。生きてまた再会できることを望んでいた。リリナはそれを二人にも誓ってほしかったのだ。
ただの口約束だ。そんなことで安心できるなら、とハルスは首肯しかけた。
そのとき、
「何だそりゃ。それだと、危なくなったらどんなことをしてでも逃げてこい、って言っているように聞こえるぜ?」
ガレロの矜持がそれを許さなかった。ただの口約束だと割り切っていない。
「そう言っているの。危なくなったら逃げて。どんなことをしてでも生き延びて。死ぬなんて絶対に駄目」
そしてリリナも。誓ったからには破ることを許さないと念を押す。
「――」
自分に嘘を吐くことも、この場凌ぎだと考えていたのも、ハルスだけだった。
悔しくて屈辱で、どうしようもなく恥ずかしい。
ハルスが視線を下げたことにも気づかずに、ガレロは突然声を荒げた。
「俺は死なねえ! 俺は勇者になったんだ! 死ぬわけがねえ! バジフィールド師匠みたいに死んでたまるかよ!」
「ガ、ガレロ……?」
あまりの剣幕にハルスもリリナも呆気にとられた。
「ど、どうしたんだ、ガレロ?」
「何かあったの?」
「どうした、だ? 何かあったの、だ? 何言ってんだよ! おまえらまさか忘れちまったわけじゃねえよな!? バジフィールド師匠の死に様をさあ!」
羊飼いのバジフィールド。アンバルハル王国に最初に誕生した勇者。そして、最初に魔王軍の犠牲になり死んでいった勇者だ。
ガレロが師事した勇者でもある。ハルスたち集落の若者のサバイバル訓練の講師として招かれ、その合宿中に魔王軍の襲撃に遭い命を落とした。
あの光景を思い出す。
「魔王軍の幹部たちにまったく歯が立たなくてよ! 無惨にも殺されてよ! 手足を切り落とされて、最後は魔物に喰われちまった! あんなもん見せられてどうしてそう平然としていられるんだ!?」
はあ、はあ、と呼吸を乱し、それでも止まらずにガレロは続けた。
「危なくなったら逃げろだと? 冗談じゃない! 俺は奴らを皆殺しにしてやる! 殺される前に殺すんだ! 絶対に逃げねえし、逃がさねえ! 俺は勇者だ! 奴らを根絶やしにしてやる! それができるんだ。それだけの力を手に入れたんだ。俺はバジフィールド師匠と同じ轍は踏まない……ッ!」
気炎というにはあまりにも負の感情があふれ出過ぎていた。勇者としての正義感や師の弔い合戦に懸ける義心なんてものは一切含まれていない。ガレロの言葉からは恐怖と焦燥しか感じ取れなかった。
「それが俺の使命だ……。神様がそう託したんだ。魔族を全滅させろってな。殺して殺して殺して殺せ――ッ。殺し尽くせってな! 俺は戦うぞ。勇者として」
「……ゆ、勇者として?」
「ああ。勇者ってのはそういうもんだろ?」
皮肉げに口角をつり上げるガレロ。リリナは震える声で反駁した。
「ち、違うわ! そんなの勇者様じゃない! 魔族と勇敢に戦い、人々に希望を与え世界を救う! それが勇者様よ! 殺すとかそんな物騒な言葉使わないで!」
ガレロに似合わないよ、と弱々しく呟いた。勇者云々ではなくガレロがそれを言い放ったことのほうがショックは大きかった。
「ハッ! 何を甘っちょろいこと言ってんだ? 魔族を殺し尽くすのと世界を救うのと、結局は同じことだろう? 殺るか殺られるかだ。戦場の悲惨な殺し合いを見もしない民衆どもを慮る必要がどこにある。英雄が聞いて呆れるぜ。そんなもの、殺し屋として一番優秀だったってだけの話だろ」
「民衆どもってそんな言い方……。どうしちゃったの、ガレロ? 昔はあんなに勇者様に憧れていたのに。ハルウスのような英雄になりたいっていつも言っていたじゃない」
「だから、ハルウスは特に殺しが上手かったんだろうよ。それだけだ。人類は救済してくれるなら誰が勇者であっても構わないんだよ、民衆はさ。ハルウスだってもしかしたら極悪人だったかもしれねえじゃねえか。たとえ悪魔であっても勇者になれるんだよ」
自分の手のひらを見つめ、自嘲した。
「俺なんかが選ばれたんだ。それが証拠だろ?」
ガレロは勇者に選ばれたことを誇りに感じていなかった。それどころか、お鉢が回ってきただけのこと、とどこか達観し嫌悪してすらいるようだった。ガレロが言ったことは一つの捉え方にすぎない。だが、成ったからこそ気づけた真実の側面。誰でもよかったのだ。戦えるのならば誰だって。それこそただの羊飼いや、ただの木こりでも――。
「神様ってのは本当に意地悪だよなあ」
ガレロがそう吐き捨てると、ハルスは悟った。
(――ああ、ガレロはもう「英雄」を信じてはいないのか)
理想と現実の差を、自ら勇者になったことですべて理解してしまったのだ。それこそ夢物語だと。戦場には勇壮の輝きも常勝の燦めきも存在しないのだと。あるのはただ夥しい数の死体の山と、血臭と、生きながらえたと安堵する卑小なる己だけ。生き残るとはそういうことだ。人類のためだとか正義の心だとか、そんなお題目に何ほどの価値があるというのか。殺される前に殺す。その繰り返しの果てに生存があるのであり、それ以外を考えている暇はない。
神が勇者を戦場に駆り立てて、そうして得た平和を人類があまねく享受する。
詰まるところ、英雄の役割とは「生贄」だ。
失敗した者は勇者であっても「英雄」として数えられることはない。あのバジフィールドのように。
リリナに誓うまでもなかった。
「英雄になるぜ。死にたくないからな」
自分一人で死にたくないから魔王軍を駆逐する。それが、ガレロが辿り着いた生き延びるための答えであった。「英雄」はすべてが終わった後にくっついてくるオマケでしかない。そんなもののために命は懸けられない。生き抜くために戦うだけだ。
誰よりも少年らしさを守ってきた皆のリーダーはもうどこにもいなかった。
しばらくの沈黙の後、リリナが静かに言った。
「私、『勇者』とか『英雄』とかそんなのどうだっていいと思ってる。ガレロに死んでほしくないの。いつか一緒にアコン村に帰りたい。望んでいるのはそれだけ。生きていてくれるならどんな形であれ嬉しい。……そう、思っていたんだけど……ね」
顔を上げたリリナの瞳は涙を湛えていた。
「嫌なものだね! 戦争って!」
懸命に作った笑顔が維持できず、顔を背けた拍子に踵を返した。そのまま歩き去る背中を二人の青年は黙って見送ることしかできなかった。
リリナの純真と慈愛はかつての幼馴染みに向けられたもの。今のガレロには嫌みにも当てこすりにも感じたことだろう。そしてハルスは、その思いが最後まで自分に向けられなかったことに強い嫉妬心を抱いた。立場が違うとはいえ、命の心配をされない自分はそれほどの価値しかないのかと勘繰らずにいられない。戦士としてというより男としてガレロより劣っていると、好意を寄せた少女に突きつけられた気分である。悔しくて情けない。あられもなく泣き叫びたくなった。
ガレロの視線がつつとハルスに向く。おまえも言いたいことがあるのか、と迷惑そうに訴えている。
ハルスもまた虚ろな眼差しをガレロに向けた。
「ガレロ。僕は止めないよ。精一杯戦ってほしい。魔王軍を蹴散らして本物の英雄になってほしい。協力したいんだ」
「協力?」
「ああ。僕にできることなら何だってするよ」
「おまえにできること?」
はっ、と失笑するガレロ。おまえなんかに何が――、と見くびっている。勇者になったガレロからしたら当然の反応だ。ただ魔法が使えるだけの雑兵に期待することなんて高が知れている。
別に構わない。信用してくれないならそれでもいい。
こっちで勝手にやるだけさ。
「僕が君を『英雄』にしてあげるよ」
自分もまた、名もなき英雄になるために。
「へえ。何考えてんのか知んねえけど、なら頼むわ」
「うん。それまでは何があっても死ぬことがないようにね――お互いに」
図らずも、リリナが望んだ誓いを立てるハルスの瞳の奥底に、昏く濁った意思が潜んでいたことを、ガレロはついに気づくことはなかった。
夜空に厚い雲が出てきた。優しい月影は瞬く間に見えなくなり、朧になった月光が不穏を地上に振り撒きはじめた――。
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