英雄の背中
ヴァイオラ・バルサの原点は、幼少期に読み聞かされた人魔大戦の英雄譚であった。
世を混沌の渦に巻き込んだ魔王軍。その脅威を吹き飛ばし、人類に希望を与えつづけた勇者たち。
中でもアンバルハル王国の英雄『ハルウス』の活躍は、ヴァイオラに深い感銘を与えた。故郷を同じくする者であるとともに、その故郷を命懸けで守りぬいた不屈の精神は幼心に愛国心と自尊心を植えつけた。
理不尽な暴力に正面から立ち向かい、決して振り返らずに未来の道を指し示す。
憧れたのはそんな姿だ。
妄想の中で正面を向くハルウスを仰ぎ見る。
きっとその背中は広く大きく美しいに違いなく――。
◆◆◆
魔王が復活し、アンバルハル国内に魔王軍が侵攻してきて早一ヶ月。しかし、ヴァイオラにはかつて感じていたほどの気負いはなかった。参謀たるアニの存在の大きさや、アテアを始めとする兵士たちの士気の高さが双肩に圧し掛かっていた重圧を軽くしていた。それはつまり独りではないという安心感と、独りよがりにならずに済むという安堵によるものだった。
『大将』という自ら被った役割は、王女であったからこそ成れたもの。芽生えた信念と境遇が奇跡的に噛み合って今の自分を作り上げた。当初は、年若い王女のごっこ遊びと揶揄された。王宮内では腫れ物のように扱われ、市井においても失笑された。賛同を得ようともがいた時期は、王女であるから駄目なのかと失望したこともあった。
けれども、アニが現れ、アテアが勇者となり、魔王軍を撃退したときようやく道が開けた。王女であったことも、『大将』と成った今も、まるで予定調和であるかのようにすべてがうまく機能した。
堰を切って流れ出した運命は留まることを知らない。清濁を飲み込み、正否を無視して、打倒魔王という大河を形成していく。そして、それはこれからもずっと続くのだ。
王女であることはもう悔やまない。私に役割を与えてくれたから。
――しかし、女であることを今ほど悔やんだことはない!
剣技をどんなに鍛えても、男の屈強な肉体の前には無力だった。その相手が勇者だったからといって自身の非力さを正当化することはできなかった。何より悔しかったのは男が放つ獣欲に身が竦んだことだ。怖かった。逃げ出したかった。身が穢される恐怖は死ぬことよりも嫌だった。そのとき、自分が女であるとこの上なく自覚した。
涙を堪えきれない。
軍服をまとった日から流すまいと決めていたのに。
「ヴァイオラ、無事か!?」
――ああ、
遥か昔の英雄譚。
久方ぶりに思いだす。
なりたかったのは、颯爽と現れる勇者にだったはずなのに――。
◆◆◆
「誰だテメエ?」
バーライオンが扉を振り返った。苛立ちぎみにではあるが、口許がわずかに歪んでいる。それはこの状況を愉しんでいるからだろうか。
「ノックもしねえでよお。ずいぶん無粋な真似してくれるじゃねえか。殺されたくなかったらさっさと出ていきな」
アニを無視し、ヴァイオラに向き直る。
無骨な手でヴァイオラの乳房を鷲掴みにした。
「へっへっへっへ、服の上からじゃわからなかったが、割と育ってたようで安心したぜ、殿下ァ」
「ンアッ!」
思わず洩れ出た声がアニを動かした。
「誰の女に手ぇ出してやがる、てめえ――ッ!」
駄目だ、アニ!
この男には勝てない。
勇者なんだ。
魔王を討伐できる可能性を秘めた人類の希望。
おまえじゃ勝てない。
殺される……ッ。
「逃げろ……逃げて、アニ!」
「誰の女って、そんなもん俺のに決まって――」
バーライオンの言葉が途切れた瞬間、体を押さえつけていた巨漢の重みがフッと消えた。
流星が墜ちてきたのかと思った。
アニとバーライオンが折り重なって壁に激突した。
王女の居室の壁である、防音機能が施されてある以上薄いはずもなく……。だが、まるで大砲が撃ち込まれでもしたかのようにぶち破られ、アニとバーライオンはそのまま隣室へと転がっていった。
バーライオンの巨体がのそりと起き上がる。
「チィ……ッ! なんだ今のはッ!?」
そのときにはもう、アニはこちらの部屋に戻り、ヴァイオラを背にして立っていた。
「……っ」
その後姿に呼吸が止まった。
何度も夢想した英雄の背中がそこにあった。
「ヴァイオラ、逃げろ。衛兵を連れてどっかに隠れてろ」
「っ、そ、それはどういう……」
「経緯は知らないが、こうなってしまえばバーライオンも引っ込みがつかない。意地でもおまえを襲うだろう。おまえさえ無事ならあいつの負けだ。朝まで持たせる」
それは、バーライオンを足止めするということか……。
アニが?
一人で?
「む、無理だ! わかっているのか!? バーライオンは勇者……!」
「心配するな。勝算ならある」
シーツを乱暴に投げ渡される。
その瞬間、バーライオンが壁を乗り越えてアニに襲い掛かってきた。
アニはバーライオンを片手でいなし、爆風を巻き起こして今度は窓に向かって突進していく。窓を割り、空中に飛び出した。
一緒に押し出されたバーライオンが吠えた。
「テメエ、邪魔しやがって! ぶっ殺す……!」
「その前に、生きていられたらな!」
ふたりは王宮四階の高さから落下した。
「――」
にわかに静寂を取り戻した居室の中、ヴァイオラの震える息遣いだけが響く。
なんということだ……っ。
シーツで胸部を隠し、急いで廊下に出た。ドアの前では衛兵が伸びていた。彼らでは無理だ。目を覚ましたところでバーライオンは止められないだろう。いや、どんな衛兵でも奴には勝てない。
アテアを、――――いや駄目だ。妹は巻き込めない。
どうしよう。
どうしたら。
「何事か!? ……む? そこにいるのはヴァイオラ様ではないですか?」
「ケイヨス・ガンベルム……!」
轟音を聞きつけて来たのだろう、王族護衛騎士団団長のケイヨス・ガンベルムがそこにいた。
「い、一体どうなさったのです!? そのお姿はっ」
ケイヨス・ガンベルムに縋りついた。
「すぐに中庭へ! アニを、アニを助けてくれ……!」
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