第五十九話 もう貴女の事を愛せない
其れは日常の中で起きた交通事故のように、
あまりにも唐突で、あまりにも残酷な覚醒だった。
予兆は当日の朝に本人が申告した体の違和感のみ。
しかし熱も無く歩けている姿を見た美那は、
せっかくの卒業式だからと桃香を人前に出してしまう。
――それが失敗だった。
外せぬ仕事を片付け拏業が到着した時には既に、
何の変哲も無かったはずの中学校は崩壊し
メラメラと燃え上がる不気味な炎に包まれていた。
(何が……!? 何で……!? ……美那は何処だ!?)
状況など飲み込めるはずも無く、
拏業は熱い瓦礫の上で無様に困惑していた。
唯一理解出来たのは、桃香が犯人という事実のみ。
鬼神の直系たる鬼の子が目を覚ましたという現実のみ。
「ウガシャアアアア!!」
「っ! 魂源魔術……悪魔の章ッ……!」
天帝の下で幼少期より鍛えられた肉体には
未だに術を行使出来るだけの技量が刻まれていた。
しかし十年近いブランクがあるのもまた事実。
術の発生速度も精度も全盛期とは比較にならない。
業火を突き抜け迫る鬼の子は
父の術をその片腕で容易く弾くと、
そのまま拏業の腹に頭突きを喰らわせる。
ツノこそ無い突撃では致命傷には至らない。
だが吹き飛ばされ壁に直撃した拏業は
今のでアバラ骨が数本持って行かれた事を悟った。
(痛っ……けど、俺はまだ動ける……!)
拏業には力があり、祝福がある。
例え暴走する半血の鬼が相手だろうと
最終的に彼が敗北する未来は有り得ない。
だが、いやだからこそ、
拏業はより困難な試練に頭を悩ませていた。
(――どうやってこの場を収めればいい?)
起きた騒ぎはもう隠しようが無い。
後は被害が広がらないよう努めるくらい。
それを実現するのに最も手早く楽な方法は……
(殺す? ざけんな! あれは俺の娘だぞ!?)
ミサイルの如く迫り来る娘を回避しながら、
拏業は平穏で錆びた勘を酷使し打開案を模索する。
しかし責め立てるような業火が熱を籠もらせ、
不快な油汗と共に思考を際限無く鈍らせた。
加えてサイレンの音も耳に届き始め、
ボロボロと崩れていく周囲の光景と合わさり
拏業にタイムリミットの接近を直感させる。
(もうやるしか……ない……!)
盗賊の目に――十数年ぶりの殺意が宿った。
その時、瓦礫を押し退け何かが飛び出し、
衝突しようとする父娘の間に割って入った。
「美那……?」
彼女は夫に失望と悲しみの目を向けていた。
だがそんな美那の胸を――
「ウガシャアアアア!!」
――幼き凶手が貫き穿つ。
拏業の眼前で妻が娘に貫かれた。
「っ――!? 美那ァアア!?」
酷く焦った咆吼が燃える残骸に響き渡った。
だがそんな夫の心配を余所に
美那は愛する娘の身体を強く抱きしめる。
そして垂れ流す血と共に声を発した。
「大丈夫……大丈夫よ桃香……愛してる……!」
美那は暴れる娘の剛力を鬼神の腕力で相殺し、
荒々しく溢れ出す力の奔流を魔力操作で制御する。
抑え込むのでは無く、あえて使い果たさせるように。
「だから――戻ってきて……!」
直後、パンと弾けた魔力が周囲の焔を吹き飛ばす。
そして黒く焦げた残骸の上で
魔力を消耗した桃香は眠るように脱力していった。
「桃香……! 美那……!」
倒れ行く二人の家族を拏業はすぐに抱き留める。
どちらを気にかければ良いか一瞬迷ったが、
彼はすぐに重傷を負った妻の方に顔を向けた。
「天使の章っ……第三節っ……!」
「私は大丈、夫……桃香の傍に、いてあげて……」
「大丈夫なモンか……! すぐに直す……!」
拏業は持てる力の全てを美那に注いだ。
するとそんな彼の背中に向けて、
聞き慣れた少女の弱々しい呼び声が届く。
「――お父……さん?」
「!? 桃香……! 意識は戻ったのか!?」
「あれ? 卒業式は……? ここ何処……?」
桃香は仰向けに倒れたまま周囲を見回した。
彼女の朧気な視界に飛び込んで来たのは無数の瓦礫と
怨めしそうな顔を向ける見覚えのある死体たちだった。
「ミクちゃん……? ケンジ君……? カサイ先生……?」
「っ、見るな桃香……!」
「私……確か……急に苦しくなって……それで――」
暴走時の記憶は――ある。
次第に桃香は呼吸を病的に加速させ、
震えた両手で顔を覆い発狂した。
拏業はそんな娘を強く抱きしめ頭を撫でる。
それ以外に出来る事が何も思い付かなかった。
やがて廃墟と化した中学校には
ぶ厚い黒雲から冷たい雨水が降り注ぐ。
そして事情を知らぬ消防隊員たちが、
大惨事から唯一生き残った家族を囲んだ。
――数日後・美那の病室――
事件は原因不明の爆発事故として処理された。
警察も魔法の存在を知らないのだから無理はない。
事件の真相を知るのは生存者である一家のみ。
犯人である娘を匿う朝霧家のみであった。
「医者はなんて?」
「主要な臓器複数にダメージがあって、
普通ならもう死んでてもおかしく無いってさ……」
「生きているのは鬼神の血のお陰か。
だが安心したよ。命に別状は無いんだろ?」
「……ううん。今の医術じゃ……ダメみたい。」
「え?」
「『今は奇跡的に生きているけど長くは無い。
かなり甘く見積もっても、あと一年』……だってさ。」
美那の宣告を聞き、
拏業の精神は大きく揺さぶられた。
今にも崩れ落ちそうな両足で必死に堪え、
頼り甲斐も無いほど表情を歪めて動揺する。
だがそんな拏業を見つめながら、
美那は彼が何か言うよりも早く言葉を繋げた。
後に娘も得意となる「作り笑顔」を添えて。
「だから桃香の事はお願いね?」
それは己が命の期限を知ってしまった者の、
諦観に近い呪いの言の葉だった。
潔く死を受け入れようとする彼女の姿は
凛としていて美しさすら帯びていたのだろう。
だが拏業にはその「潔さ」が受け入れられなかった。
「――魔法世界に戻る。」
「え?」
「魔法世界に戻って美那を治せる術師を探す。」
拏業の目は本気だった。
もう決断してしまったのだと訴えるように
その目は一点を見据えて固定されていた。
「当てはあるの? ソフィアさんには会えないかもよ?
それに今の桃香にいきなりあっちの世界は……」
「いや。行くのは俺一人だ。」
「は?」
「原初の魔女はアビスフィア帝国を追っている。
なら、俺が天帝の部下に戻れば、いずれ会える……!」
「――!?」
事実、それはソフィア・グノーシスと再会出来る
最も確率の高い現実的なルートであった。
無論天帝と魔女が「今現在も敵対中」という
確認しようの無い前提条件が必須ではあったが、
それでも希望を託せる唯一の手段に違い無い。
少なくとも拏業の脳内ではそうだった。
しかし美那は夫の提案に傷付いた。
傷付いただけでは無く、怒りすら覚え始めていた。
「それって――貴方が逃げたいだけじゃないの?」
「は?」
互いの声色に怒りが宿った。
「だってそうでしょ!? 桃香を置いていくなんて……!
あの子は今何も理解出来ないまま苦しんでるのよ!?」
「ふざけるな……! これのどこが逃げなんだよ!?
第一これは、お前を助けるためのことなんだぞ!?」
「私のことは良いから桃香を助けてよ……!」
「桃香より先にお前が死んだら意味が無いんだよ……!」
「貴方にとって桃香はその程度なの!?」
「二人とも大事だって意味だ! 何で分かんねぇ!?」
「嘘よ、嘘ッ……! だって貴方――」
「――あの時桃香の事を殺そうとしてたじゃない!」
ヒートアップの末に美那は拏業の弱みを突いた。
合理的思考が弾き出した冷酷な決断。
一瞬でも脳を支配した殺意の悪感情。
それらが事実である分、拏業は閉口してしまう。
「……悪い。」
拏業は長い沈黙の末に一言そう呟くと、
本当に逃げるように美那の病室を後にした。
一人残された美那は、顔を覆って泣いていた。
――――
弱々しい背中で帰宅した拏業は桃香の下に向かう。
彼女は事件以来、抜け殻のように放心していた。
「お父さん……お帰り……」
「あぁただいま。……また泣いていたのか?」
「うん。ぼうっとしてると……あの夢が出てきちゃうの。
ミクちゃんの腕が千切れて、先生の顔が回転して、
皆燃えて、瓦礫に潰される夢――私が皆を殺す夢。」
「……」
「ねぇお父さん。あれは夢なんだよね?」
「あぁ。悪い夢だ。」
「じゃあ何で、お母さんはまだ退院出来ないの?
お母さんの怪我はっ……本当にあの夢と関係無いの!?」
「っ……!」
「もう……自分が何なのか分かんないよ……!
もしあの夢が現実なら私もう――死にたい……!」
もう誰も彼もが限界だった。
そして今この瞬間最も決断力の残っていた拏業は
ほとんど衝動的に行動を選択してしまう。
「桃香。悪い夢を忘れたく無いか?」
悪魔が契約を持ちかけるように、
拏業は何も分からぬ桃香に提案した。
そして判断力の無い今の彼女は
夢現の境が曖昧なままその提案を受け入れる。
「目を瞑ってればいいの……?」
「あぁ。父さんが頑張るから桃香は何もしなくて良い。」
娘の額に手を押し当て、
魔法使いは複数の術を同時に発動した。
最重要となるのは鬼神の血を覚醒させない封印術。
そして悪夢を忘れされる忘却術の二つだ。
(まずは鬼の血の制限……! 魔力ごと封印する……!)
「あ、凄い……身体の感覚が、変わったかも?」
「まだ目は開けるなよ? もう少しだから!」
術の成功を喜び拏業の口元は緩んだ。
そして彼の作業は忘却術の行使へと移行する。
だが丁度その時、桃香が僅かに弾んだ声で提案した。
「これが終わったら私もお見舞いに行っても良い?
二人で一緒にさ、元気な姿をお母さんに見せようよ。」
拏業の口が、僅かに開いた。
やがて彼は歪めながらその口を閉じ、
そしていつもの声色を取り繕って台詞を吐く。
「悪い。父さんはしばらく帰って来れないんだ……」
「え?」
「だから桃香……美那を頼む。」
魂源魔術行使、天使の章――第十四節『ザドキエル』。
かつて怠惰のサギトがアンブロシウスの守護者に掛けた
記憶干渉と全く同じ大魔術である。
怠惰はこの術で継続的な記憶消去を行ったが、
今回拏業は桃香の記憶の『一括改変』を実行した。
消した内容は事件に関する全て、そして――
「……あ、れ?」
――父親に関する全ての記憶であった。
「今私、誰かと話して……そんな訳無いか……」
――――
余命宣告を受けつつも体の動かせる美那は、
余生を自由に過ごすという意味で退院が実現する。
しかし彼女が帰宅した時には既に、
最愛の人の痕跡は跡形も無く消え失せていた。
「お父さん? 私が物心付く頃には蒸発したんでしょ?」
共に笑いあった記憶も、共に成長してきた記憶も、
娘の頭の中からは綺麗さっぱり無くなっていた。
残されたのは事実を忘れて明るくなった娘が一人。
「嘘つき! 嘘つき……!」
ずっと彼女の傍にいてあげようと約束したはずの男は、
一人だけで勝手に魔法の世界へと消えてしまう。
かつて「捨てないで」と懇願した美那にとってそれは
裏切り以外の何物でも無かった。
加えて彼女の心を最も蝕んだのは――
「お母さん……?」
「――っ!?」
――滑稽な人形と化した娘の存在だった。
「またお父さんの事を思い出しているの?
もう止めて! 私たちを捨てた人の事なんて忘れよ?」
(違う……違うの……桃香!)
「許せない……! お母さんがこんなに苦しんでいるのに!
私が絶対に見つけ出して謝罪させるから!」
(待って、それ以上されたら私っ――)
目の前にいるのは突如暴走した不安定な存在。
自分の胸を貫いた脅威の存在。
それが娘ヅラをして、笑顔で近付いてくる。
彼女のために決断した最愛の人を侮辱しながら。
(――もう貴女の事を愛せない。)
例え声に出さずとも、
その目は口以上に彼女の本心を表していた。
しかし記憶の欠けた桃香には伝わらない。
――――
「ごめんね、桃香。お母さんはここまでみたい。」
現在から見て八年前。
朝霧桃香十八歳。高校三年生。
医者の想定よりも美那はずっと長く生きた。
しかし桃香と過ごしたこの三年間、
終ぞ拏業が帰ってくる事は一度も無かった。
「……ごめんね、お父さんを許してあげて。」
自らの死を嘆き苦しむ娘だったモノの姿に
美那は数年ぶりに心から笑っていた。
とても満足のいく死に様では無かったが、
盗人と共に里を抜けた報いだと納得していた。
(これは誰もが、自分を信じて動いた結果……その末路。)
美那は桃香へと衰弱しきった手を伸ばし、
そして優しく、諭すように言葉を投げた。
「あなたは自由なの、自分を信じなさい。
自分の信じる『正義』に従い、なさい。」
末尾に一粒の嘘を添えて――
「――桃香、愛してる。」
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