第五十八話 魔法無き世界
今回で総部数500となりました
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今後とも応援よろしくお願いします
――二十六年前・日本――
窓を開ければ一陣の風。
一直線に通り抜けられるよう設計された屋内を
ヒュルリと小気味良い音が流れて征く。
決して広いとは言えないが、
狭いと愚痴るのは憚れるほど綺麗な一軒家。
それが『こちらの世界』における朝霧家であった。
「はいこれ。君たちの住民票にぃ、印鑑にぃ、通帳ね!」
そんな朝霧家のリビングで、
緑髪の魔女が新婚夫婦と会話をしていた。
机の上に広げられていたのは重要書類の数々。
異世界へと渡った彼らが問題無く暮らしていけるよう、
魔女が作成してくれた、仮初の経歴であった。
「こんな事にも精通しているんだな、原初の魔女は。」
「伊達に長いことコッチでも活動してないからね~。
ブルボン朝で『伯爵』してた時なんかは
王様からお城一つ貰って実験室にしてたくらいさ!」
(……正直、それがどの程度の事なのか分からんが、
あの伸び切った鼻を見るに……相当な自慢らしいな。)
家主の拏業は声には出さず推し量る。
その口元がやや緩んでいるのは、
彼が心底寛げているからであろう。
そんな心境を吐露するように、
拏業は書類を眺めながら
非常に柔らかい口調で感謝を告げる。
「とにかく、何から何まで世話になった。
今後も頼りにさせて貰う。」
「――いや。私が援助するのは此処までだ。」
「え……?」
「今は魔法世界の方が危険な状態だからね。
向こうに集中したい。」
「そ、そんな……!」
ソフィアの発言に納得しつつも、
拏業は動揺を隠せず大声を発してしまう。
慣れない等というレベルではない未知の世界で
一切の頼り無く放置される事が不安で仕方ないのだ。
しかしそんな父の激情を感じ取り、
ミナの腕の中で寝ていた赤子が泣き出した。
慌てた拏業たちは我が子をあやす。
魔法や超常などは一切使わない、
普通の両親と同じように。
その光景を、頬杖したまま魔女は眺めた。
やがて赤子な泣き止むのを確認すると
彼女は口元を柔らかく緩めて会話を再開させる。
「これを機に全ての魔法から脱却してみたら?
君たちの口座には一年分の生活費を入れてあるから。」
「……猶予一年で、コッチでの仕事を見つける訳か。」
「まだ二十代前半なんだし余裕じゃん。それに……
家族のためなら頑張れるだろ――『お父さん』?」
「――!」
拏業は母の腕中で眠る赤子へと振り返った。
その瞬間あらゆる期待と責任が胸の中で渦巻く。
そしてそれら全てを唾と共に飲み込んだ。
「ま、全ての退路を断つのが不安というのなら……」
拏業の胸中を察した魔女は
懐から一つの魔法具を取り出した。
それは拳サイズの棒のような形状をした、
何かのボタンらしき機械だった。
「魔法世界に戻れる唯一の片道切符だ。」
「!」
「目的のある逃走なら恥ずべき事じゃない。
ま、私と再会出来るかはかなり分の悪い賭けだけどね?」
それじゃ私はこれで、と呟やくと
魔女は眠る赤子に笑顔で手を振り消失した。
魔女が扱う転移術の完成度は凄まじく、
彼女のいた跡には欠片の残滓すら残されていなかった。
まるで本当に、この世から消えたように。
「行っちゃったね、ソフィアさん。」
「そうだな……、ってミナ。
お前、ツノの隠蔽魔術が解けかかってるぞ?」
あ、と声を上げてミナは見上げる。
鬼族にとっての誇りであり象徴でもあるツノは
この魔法無き世界ではただの異物に過ぎない。
故に拏業の隠蔽魔術で隠し続けていた。
だがミナはそんなツノに手を伸ばすと――
「えい。」
――根元からボキッとへし折った。
「ちょおまっ!? 何してんの!?」
「ぶっちゃけもう要らないし、いいかなって。
それに……もう魔法とは縁を切るべきじゃない?」
折った誇りをさっさと机に置くと
ミナは抱きしめた赤子に目線を合わせて提案した。
彼女の言葉に感化された拏業もまた、
鼻を鳴らし自身に掛けていた複数の術を解く。
――魔法無き世界での新たな生活を夢見て。
そして彼はミナの前に歩み寄ると
可愛い娘の顔を覗き込んだ。
まん丸とした輪郭には柔らかさがあり、
自然と彼らの顔を優しく歪めさせる。
「桃香はどう育てようか? どんな子になって欲しい?」
「……何でも良い、かな。」
少し考えて、ミナはそう呟いた。
そしてやや驚いた顔を見せる拏業に
とても幸せそうな笑顔を向ける。
「桃香が健やかに育つのなら、何でも良いよ。
今はただ――この子の成長が楽しみで仕方ないの。」
そう言うと、母親は娘に顔を近づける。
思わず過去の毒気が抜かれるほどに
その最愛の妻と娘の姿は幸福に満ちていた。
やがて拏業も二人を包み込むように
そっと手を伸ばし、抱きしめる。
(何があっても……必ず――)
――――
月日は刹那のように流れていく。
桃香の成長もそれに呼応するように
一日一日を駆け足で走り抜けていった。
朝霧桃香、当時六歳。
幼稚園の年長となった彼女は
友達数人と共に親の迎えを待ち続ける。
六歳。物心などはとっくに付き、
人によっては記憶も残る時期。
つまり親の顔もハッキリと覚えている齢だ。
そしてこの時期、拏業は既に――
「桃香ー。迎えに来たぞー?」
「パパだー! じゃあね皆、バイバーイ!」
――良い父親となっていた。
二十代後半の美男美女夫婦は園内でも有名で、
保育士だけでなく保護者間でも人気だった。
加えて桃香を含めた家族の仲も非常に良好で、
一部の主婦は「眼福、眼福」とにこやかに頷く。
「今日も楽しかったか?」
「うん! ミクちゃんやユイちゃんと遊んだの!」
「そっか。それは良かっ……ん?」
「どうしたの、パパ?」
「いや……何でも無い。何か買って帰ろうか。」
「っ~~! ならケーキ! ケーキ買って!」
喜びを全身で表現しながら
桃香は拏業を振り回すように腕を前後に揺らす。
だが拏業はそんな少女の手を静かに見つめていた。
(六歳ってこんなに握力あるんだな……)
――――
成長は続き、桃香はどんどん育っていく。
朝霧桃香十二歳。小学六年生の冬。
彼女は両親の見守る中、河原で花を集めていた。
「なぁ美那? 桃香は何をやってるんだ?」
「お友達のユイちゃんが県外の学校に行くんだって。
だから彼女の好きなお花で髪飾りを贈るらしいの。」
(俺らの娘良い子過ぎね?)
「でも苦戦してるみたいね。まぁ時期が悪いよ。」
肌寒い河原に腰を落とし、
幼い桃香は口を尖らせながら花を探す。
頑固で強情で、それでいて無垢な顔をしていた。
「……止めないのか?」
「貴方は止められたら嬉しい?」
「……嫌、かもな。」
「ならまだ止めない。もう少しだけ見守ろ?」
そう言うと美那は
長丁場を見据え石段へと腰掛けた。
そんな彼女の隣に拏業もまた腰を落とすと、
再び美那は呟くように口を開いた。
「この前桃香に聞かれた。
……『ウチにお爺ちゃんたちはいないの?』って。」
「! 何て答えた?」
「いたけど会えなくなっちゃった、って答えた。
シュンとしてたよ。本当の事言うべきだったかな?」
「……任せるよ。美那の判断なら。」
そっか、とだけ言葉を溢すと、
彼女はそのまま頭を傾け夫の肩へと乗せた。
「私たちは――ずっとあの子の傍に居てあげようね?」
約束だよ?、と美那は目線を向ける事なく問う。
そして拏業もまた「あぁ約束だ」と力強く頷いた。
するとそんな二人の姿を指差し桃香は叫ぶ。
「あー! また二人だけでイチャコラしてるー!」
((イチャコラって……))
「この後は夜の街に繰り出すんですかー?」
((マセてるなー、今の子は……))
「あ、でも、キスは駄目だよ? 子供出来ちゃう……」
((全然ピュアッピュアだったわ。))
美那は少し笑い、石段から言葉を返した。
「……桃香、髪飾りはもういいの?」
「そうだった! 向こうの方探してくる!」
トコトコと走り去る娘の背中を見送り、
美那は苦笑しながら呟いた。
「ああいうのもいずれちゃんと教えなきゃね!」
「親から教わる話じゃねぇだろ……」
「アニメのお話しは現実じゃない事も、
毎年来るサンタさんが貴方だって事も、
お年玉はもう帰って来ない事も全部伝えなきゃ。」
「桃香泣くぞ?」
美那の冗談にツッコミを入れながら、
拏業は沈み征く夕陽に目を細めた。
そして花が集まった事を喜ぶ娘の声と
肩から伝わる妻の温もりに浸り、
こんな日々が続けばいいなと、静かに願った。
――――
更に月日は流れて、朝霧桃香十六歳。
現在から見て丁度十年前――『運命の時』。
その日は中学校の卒業式だった。
しかし拏業は目を見開き肩で呼吸をする。
動揺する彼の眼前では、学校が燃えていた。
「……桃香?」
炎の中に見えた人影に拏業は声を掛ける。
最初は疑念の混じった声だったが、
すぐに確信を得た声色は怒声に変わった。
「桃香……!? 桃香ッ!」
だが燃え上がる炎中の影は
父親の声に人語ならざる返事を返す。
「――ウガシャアアアアアアアア!!」




