第七話 鬼没
――三年前――
雨が降り注ぐ都市の中を一人の男が走っていた。
フォームは滅茶苦茶。呼吸も荒い。
乱れた重心が左右に揺れて、
もはや真っ直ぐ進めてすらいなかった。
足に溜まる疲労と雨の冷たさが体力を奪う。
しかし男は止まらない。止まれない。
立ち止まった者の末路は既に見てしまった。
「レベル『4』だ! 探せ探せ!」
「今回は多いな! ターゲットは八人!」
「生死問わず! 見つけ次第バキュンよ!」
屋上に追い詰められ射殺される男を見た。
防波堤から逃げようとして爆撃される女を見た。
追手の注意を引いて蜂の巣にされた友を見た。
皆、頼りになる優秀な仲間だった。
しかしそれでも『物量』が違い過ぎた。
どれほど隠れるのが上手い人間でも、
真の意味で街全体が敵となっては逃げられない。
何より、敵に情報が漏れたのでは仕方が無い。
「これが第八席の力か……俺たち、終わったな……」
「まさにスパイ殺し。過去送られた諜報員も、
これでもれなく全員ブチ殺されたって訳だ……」
「……死体を偽装すれば乗り切れないかな?
バリアさえ解ければ、都市の外に……!」
「良いなそれ! ……で、その後はどうする?
化け物共がいるあの森林地帯を歩いて抜けるか?」
仲間たちの心は完全に折られていた。
絶望に打ちひしがれ、暗い未来を想像している。
そんな光景を前に男は――
(あぁ良かった……皆ももう諦めてた……)
――とても安堵していた。
やがて彼らは自身の死を偽装し長い沈黙の時に入る。
牙を折られた獣に抵抗の意志など無く、
最低階級での従属に甘んじる生活を受け入れた。
しかしそんなことなど知らない上は
その後も何十人もの同輩たちを送り続ける。
絶望しかない地獄の死地へ、何人も何人も。
(あぁ……まただ。死んだな、アイツ。)
同輩を助けるなんてことはしない。
正体を明かせば、せっかく生き延びた全員が死ぬ。
あの時互いの目でのみ交わした暗黙の了解が
薄情な行動に正当性を持たせてくれた。
「これで良い……これで良いんだ……」
――だがどうやら、仲間はそう思っていなかったらしい。
「……同輩を連合に帰還させる。手伝ってくれ。」
それは現在から僅か数週間前。
二度と会うことは無いと思っていた仲間が、
突然訪ねてきて言い放った言葉だった。
「魔王軍の領土拡大が本格化し始めている。
このままじゃ情報戦で大きな遅れを取るぞ……!」
男は焦った顔で否定した。
相手の正気を疑って、馬鹿にして、
もう自分に関わらないでくれと拒絶した。
すると仲間は唇を曲げて突然声を震わせ始める。
「中央には娘がいる……! もう何年も会ってない……!
俺はもう帰れないかもしれないけど……せめて……!」
仲間は涙に濡れた顔を上げて男を見た。
そして彼の『表情』から何かを察すると、
軽蔑するように「もういい」と吐き捨て立ち去った。
(何でだよ……諦めろよ……)
その後、仲間たちは同輩を逃がす作戦を決行した。
彼らがどうなったのかを男は知らない。
一人遺された彼はただ酒をあおり、
諦念と隷属に甘んじているだけだった。
――現在・路地裏――
飛び掛かる民間人を朝霧たちは迎撃する。
フィオナは得意の糸で空中の敵を即座に拘束し、
朝霧が漏れた残りを拳骨で殴り落とす。
そして地に伏した彼らをアリスが術で気絶させた。
「大した手際だな。だがすぐに新手が来るぞ。」
男の言葉に追従するように、
大通りに出ていた大量の住民たちが
騒ぎに勘付き動き出していた。
当然フィオナはすぐに立ち去ろうと提案する。
が、朝霧は男に視線を送ったまま立ち止まっていた。
「貴方は来ないんですか?」
「あ? なんでわざわざ敵に追われるお前らと
一緒に行動なんかせにゃならんのだ?」
男の言葉に朝霧は「確かにそうだ」と納得した。
そして、壁に凭れて動こうとしない彼に対し、
深々と頭を下げて礼をする。
「助けてくれて、ありがとうございました。」
「……」
「桃香! 早く……!」
「うん! それじゃ、貴方も気を付けて!」
嵐が過ぎていくように
路地裏にはピタリと止まった静寂が戻る。
静寂はすぐに追手たちの声で乱されたが、
男の耳にはもうその喧騒は届いていなかった。
「『ありがとう』? 『気を付けて』?
なんだそりゃ……初めて言われた気がする……」
酒を持つ手をダランと下げて男は空を見上げた。
するとその視線の先にあった建物の壁に、
部下へ指示を送る男の影が映っていた。
隙の無い身のこなしと部下を動かせる立場。
そして対峙した経験のある異質な気配から
男はその人影が「第八席」であると理解した。
すると彼は膝を抱え赤子のように丸まる。
「あー、クソ……」
――――
都市の全てが敵となった。
どこまで逃げても追手とぶつかる。
その緊張感が気力をゴッソリと削っていく。
「退っけぇええ!」
河川を飛び越え迫る敵の腹を抱きかかえ、
朝霧は逆に相手を水中へと叩き落とす。
だが魔王に従う住民たちの攻勢は止まらない。
まるで恐怖という感情が欠落しているかのように、
人々は三人に向けて絶え間無く突撃を続ける。
(ッ……キリが無い……!)
「桃香、飛べ! 上に逃げるぞ!」
声を信じて跳躍し、
腰に巻き付くフィオナの糸に身を任せる。
ピンと張り詰めた糸の風切り音が響き渡り、
地上に群がる人々が一斉に空を見上げて騒ぎ出す。
「うっ……改めて見ると気持ち悪いほどいますね……」
「そうだな。だが全部を相手にする必要は無い。」
フィオナの事は常に戦艦の部下が見ている。
今のこの状況も仲間たちに伝わっているはずだ。
ならば三人の方から敵の大軍とぶつかる必要は無い。
彼女たちは戦艦が来るまで耐えきればいいのだ。
「バリアも主砲なら流石に壊せるだろう。
進軍が発覚するのは痛いが、捕まるよりずっと良い。」
少しでもマシな結末へ進めるように、
フィオナは先頭を走りながら脳を動かし続けた。
しかしそれとは対称的に
彼女の真後ろを走るアリスの動きが
若干悪くなっている事に朝霧は気が付いた。
「アリス? 大丈夫? 顔色が悪いけど……」
「大丈夫です……少し、厄にあてられただけ、っ!」
「アリス!?」
大粒の汗を流してアリスは倒れた。
外傷は特に無い。だが尋常では無い様子だ。
顔色はとても悪く吐き気も訴えている。
「どういうことだ桃香!? 彼女に一体何が!?」
「まさか厄を視過ぎて脳にダメージが……?
前も靄を視るのは『気分が悪い』って言ってたし。」
「そんなピーキーな祝福だったのか?」
「んん? でも、今までこんな事は一度も……」
朝霧たちはアリスの顔色を伺い考察する。
憔悴の原因は恐らく急激な体力の消耗。
平時なら耐えられる厄視でダウンしたのも
アリスの身体が平常では無かったからだ。
ならば後は、どうしてそうなったか、だ。
二人はこれまでの逃走中の光景を思い浮かべた。
彼女たちの間を物のように投げ飛ばされる彼女の姿を。
((あ、コレ私たちのせいかも!))
青ざめる朝霧たち。
やがて彼女たちのもとへ敵の声が迫ってくる。
「っ……! とにかく今は逃げるぞ!」
フィオナは背負ったアリス糸で縛りながら、
敵集団を見つめて立ち止まる朝霧に声を飛ばす。
だが朝霧は親友の提案を真っ向から拒絶する。
「私が囮になる。先に逃げてアリスを安全な場所へ。」
「な!? 何を馬鹿なことを……!」
「大丈夫だよフィオナ。今の私には転移がある。」
そう言って朝霧は胸元から
十字架のアクセサリーを取り出し触れる。
その瞬間、人々が見上げる先に淡緑の閃光が炸裂した。
「っ……桃香……!」
転移魔法の機動力と鬼の血による戦闘力。
確かに生還を前提にした囮には朝霧こそ相応しい。
そう自分を言い聞かせてフィオナは彼女の覚悟に賭けた。
その後の朝霧は囮として
これ以上無いほど派手に暴れまわった。
全身の半分以上が機械化した敵にも真正面から突撃し、
地上から遥かに離れたビルの合間で叩き壊す。
そして破片を蹴飛ばし着地を決めると、
眼前に並んだ敵集団を塵芥のように吹き飛ばした。
「何だコイツ……! バカ強ぇ……!」
「弾丸を弾きやがった! こいつの左手も機械か!?」
「おい下がれ! 立体道路を墜とす気だ……!」
景色の崩壊と共に追撃者たちの悲鳴が響き、
道を塞ぐ瓦礫の上では朝霧が砂煙を押し退け現れた。
ここまでに彼女が使ったのは聖遺物と肉体のみ。
大剣も魔術も使わずにこれほどの戦果を上げたことに、
最も驚いていたのは他ならぬ朝霧自身であった。
(身体が軽い……どんどん力が漲ってくる感覚がある。)
腹の底から湧き上がる高揚感にも似た感情に
朝霧は一切の嫌悪感を見せず身を任せる。
戦場はもはや独壇場。朝霧の無双状態であった。
(よし、この調子ならしばらくは――)
――その時、朝霧の背後に何者かが迫る。
「え?」
その人物は音もなく朝霧の横腹に魔力を叩き込んだ。
魔力は衝撃と共に彼女の体内を一瞬で通過し、
たった数秒という僅かな時間で勝敗を決めてしまう。
「あっ…………かっ……あ……!」
朝霧は声すら出せずに膝を震わせる。
やがて彼女の体は足元から崩れていった。
「強かったね、君。」
途切れゆく意識の中で最後に聞いたのは男の声。
掠れゆく視界の中に最後に捉えたのは、
人斬り騒動以来行方を眩ませた砂漠の青年だった。
(第八席……! ルシュディー、さん……っ!)
「目標一名――捕獲。」
明日は休載します。次の投稿は7/3(月)です。




