第五十話 紅月墜とす曇天に
まず一秒が経過した。
今にも狂い出しそうな二匹の獣が、
時刻に適さない月下の雪原でぶつかり合う。
互いに血を撒き散らしながら、我武者羅に。
次いで二秒が経過した。
この間に交えた拳の数は十と八発。
もはや常人には捉えられない速度と殺意で、
脳ミソの中に残る理性を弾きながら殴り合う。
そうして三秒が経過した。
荒れ狂う黒雲が獣のような咆吼を上げる。
とっくに彼の意識は混濁しており、
振るう黒刀の一閃も次第に乱雑な物になっていく。
それは、アラン自身が一番実感していた。
(マズい……先に俺が落ちる……!)
目の前にいるはずなのに敵が遠くに見えた。
そこまででは無いはずなのに敵が巨人に見えた。
攻撃を通せているはずなのに敵が不死身に見えた。
(フッ! 恐怖、か……それはもう要らねぇんだよ!)
目の光を取り戻しアランは大地を踏みしめる。
同時に彼は理性を飛ばすアクセルを踏んだ。
恐怖は邪魔。雑念も邪魔。ブレーキは要らない。
発狂の危険を度外視しアランは更にギアを上げる。
(この小僧……! 攻撃の重みが増した!)
破れかぶれの一歩手前。
ギリギリ理性の乗った連撃が速度を上げる。
やがて嵐のような猛攻を前に
人狼の回復能力が追いつかなくなっていた。
「正に曇天の暴風雨……! これほどまでとは!」
暗雲が白狼を押す。
紅月の下で嵐が人狼の王を追い詰めていた。
経過した時間は合計八秒。決着の時は近い――
(――行ける! この一騎討ちは俺の勝ちだ……!)
「ならば、決闘そのものを反故しようか。」
人狼王が呟いたのとほぼ同時に、
アランの視界に目を疑うような光景が飛び込んだ。
それまで観戦していた人狼たちが、
決闘の決着を待たずしてユノたちに襲いかかったのだ。
「な!?」
「スマンな小僧。人狼たちは欲望を抑えられない。」
動揺し動きの止まったアランの腹に
鋭い人狼の回し蹴りが炸裂した。
蹴りは黒鉄の装甲を薄氷のように容易く砕き、
アランの身体を大砲の弾みたいに吹き飛ばした。
やがて彼は首都正門とは真逆の方向で
大破し転がっていた車両の上に叩き付けられる。
「決着だ、神太刀。」
嵐のような衝突はものの数秒で終幕した。
立っているのは人狼王グラン・ヴォルフ。
脱力したアランが起き上がる気配は無い。
「さて、締め作業に入るとするか。」
そう言うと人狼王は革命軍の残党たちに目を向けた。
丁度月の幻術で強化された配下の人狼たちに
一人、また一人と嬲り殺されている所だ。
ユノや数名のMCA幹部がまだ応戦しているが、
それも放っておけば、直に集結しそうだった。
「くッ……! 人狼王、貴様ァ!」
「そう喚くなよ、ユノ・ノイズ!」
雪の塊を指先で固めると
グラン・ヴォルフはそれをユノに向け放つ。
氷の弾丸が彼女の肩を殴り付け、
優秀な魔女であるユノを容易く地面に墜とした。
「ッ……! まさかこんな形で決着するとは……」
「文句ならあの世であの小僧に言ってくれ。
オレはただ幻術の効力を強めただけ。
そして配下がそれに耐えきれ無くなっただけだ。」
奇襲による致命傷を受け、
グラン・ヴォルフは『紅月の祭典』の輝度を上げた。
それは自身を満月の姿にするための行動だったが、
元々の理性が乏しい周囲の人狼たちにとって
跳ね上がった月の魔力は有害であった。
「その結果がコレか?」
「あぁ。たった数秒で……
目の前の肉に我慢が出来なくなった。」
人狼王は部下の姿をぼんやりと眺めながら
何かを失ったかのような声で呟いた。
ユノはその表情を読み取りつつも彼を責める。
「だが貴様は、あえてそれを狙ったのだろ?」
「まぁな。だが……悪いがコレが人狼族の性だ。
オレたちは一生、人間のように理知的にはなれない。」
「今すぐ月を消せ! そうすれば彼らも戻るのだろ?」
「……確かに月を消せば後遺症は残るが、
奴らの理性も多少は戻る……だが何故戻す必要がある?」
人狼の王は不格好な笑みをユノに向ける。
「本能のままに生きて何が悪い!?
欲望に身を任せ肉を喰らう! それの何が悪い!」
「月を……消す気は無いのだな?」
「クドいぞ、ユノ・ノイズ!
あの月こそ我らの本性! 我らの理想の体現なのだ!」
グラン・ヴォルフは咆吼と共に爪を尖らせ、
そのまま地に伏すユノの頭部を狙った。
しかしその時、彼女の口角が少し上がる。
「そうか、なら君の負けだな――」
言葉が耳に入ると同時に
人狼王の鋭利な爪がピタリと止まる。
理解不能な言動に脳が停止したのも一因だが、
何より原因となったのは轟く翼の音だった。
グラン・ヴォルフは音の方に顔を向ける。
するとそこには空を目指し飛翔する
一体の魔法生物の姿があった。
「あれは……ヒポグリフか!」
鷲と馬の中間の生命体が月を目指し空を駆ける。
そしてその背には尖った髪の青年が一人。
神秘保護協会の幹部、十将獣のマスティフだった。
「ようやく見つけたぜ! 大幻術の発生源!」
迷い無く魔法生物と青年は空に向った。
その角度から人狼王も彼らの目的を察する。
しかし大地を駆ける人狼たちに
空を舞う獲物を墜とす技術など無い。
やがてマスティフは月の真下に辿り着いた。
(魔術の効果範囲が本当に宇宙までいくのは稀だ。
こういう幻術は大体どっかに発生源を隠してる!)
マスティフは両手を広げヒポグリフから身を投げ出す。
そして空中で身体の向きを変えると、
特定した幻術の発生源に向けて祝福を発動した。
「喰らえ人狼王ッ! 祝福――『逆流』!」
マスティフが両手を伸ばした先で、
紅い稲妻が轟々と鳴り響いた。
それと同時に可視化した真っ赤な球体が
青年の魔法によって粉々に砕かれる。
――刹那、そこにあったエネルギーの全てが、
術者である人狼王の体内へと流れ込んだ。
「ぬぅ!? ぬぁあぉぉおぉぉぉぉッ!!」
紅い魔力が天から大地へと降り注ぐ。
まるで巻き取られたカーテンのように
空を覆っていた紅色が人狼王へと集約した。
やがて正門前には元の青空が復活する。
それと同時に人狼たちは元の姿に戻り倒れ、
形勢逆転を確認したユノが立ち上がった。
「これにて月は墜ちた。人狼王よ。
貴殿の精神は紅月の魔力に耐えきれるかな?」
「ぬぅう……ッ! 謀ったな、ユノ・ノイズっ……!
発生源の特定など……数秒で出来る芸当では無い!」
身体を突き抜ける稲妻に理性を飛ばされながら、
人狼王はユノに怒りの顔を向けた。
利口な彼は遅まきながらも
彼女たちが動かしていた作戦に感づいたのだ。
「始めていたな!? 一騎討ちの開始と同時に!
いやそもそも……! あの一騎討ちは時間稼ぎか!」
「ご名答!」
「真面目に決闘スる、気など……無かったのカ!?」
「それはお互い様だろ?
……というか君は少し人間を過大評価しているぞ。」
「な、に!?」
「人間だって欲望に忠実という事さ。
その点で言えば、やはり我々はお互い様だ!」
「っ……。――うるさいッ!」
少しの納得とそれを拒む心が揺れ、
狂える人狼は巨大な爪をユノに向ける。
しかしその凶刃が彼女に届くことは無かった。
「正当な決着がお望みなら、二人だけで着けてこい。」
「ッ!?」
人狼王は視線の先で蠢く影に気付いた。
横転した車両の上で鋼鉄を突出された化け物の影に。
直後ソレは足場を蹴飛ばし一瞬で人狼王へと接近した。
「チキンレースはまだ続いているらしい。」
ユノの真横を危険な刃の砲弾が通過した。
その鉄塊は人狼王を呑み込み、尚も止まらず、
首都正門に向けて真っ直ぐ飛翔し続ける。
「ぐォ!? 小僧……貴様……!」
「どう、しタ人狼王!? オレはマダ生きテるぞ!」
(こいつ……まダ、理性を飛ばシて……!?)
アランの状態に気付き、人狼王も覚悟を決める。
腹に刺さった刃に手を掛けると、
全身に走る赤雷のエネルギーで満月の姿に至る。
(負ケ……無い! マけ、たく無いィッ……!)
紅月と曇天は互いに決着を臨んでいた。
二人は残り僅かな魔力を放出する。
ここまでくれば後はもう気持ちの勝負。
強い魔力を放つためには、ブレーキは不要だ。
「「うぉぉぉおおおおおおおおおおッ!!」」
銀世界に轍を刻みながら、
両者の混ざった赤黒い塊が正門に激突した。
やがて衝撃が城壁ごと周囲を砕ききった。
――――
「――とんだ悪女だな。ユノという奴は。」
立ち込める土煙の中で声がする。
周囲は全く見えないが、倒れた影から声がした。
誰もいない空間で二人だけが会話をしていた。
「お前も不服だろう? 一騎打ちに水を差されて。
全力の私と、全力でぶつかりたかったろうに……」
「あ? あぁ、月が消された事ボヤてんのか?
言っとくが幻術の攻略を依頼したのは俺の方だ。」
「はぁ!? ……んだよ。
誰も正面から私に勝つ気などなかったのか……!」
「いや、アンタに正面から勝ちたかったのは本気さ。
少なくとも戦闘中はずっとその事だけ考えてた。」
「……なら何故一騎打ちが妨害される策を取った?」
「確かに俺はアンタに個人で勝ちたかった。けど――
それで戦争に負ける事だけは絶対避けなきゃならねぇ。
仲間に迷惑を掛けてまで、個人の勝利は欲しく無い。」
影の一つが起き上がる。
遠くの景色など粉塵で見えないはずなのに、
その影は何処か遠くの誰かを見ているようだった。
「ふっ……やはり人間はッ……理性的ではないか……!」
羨ましそうな、そして嬉しそうな言葉を最後に
人狼たちの王はゆっくりと意識を手放した。
やがて彼らを覆い隠していた土煙は霧散していき、
瓦礫の山に立つ勝者の姿だけを露わにする。
「本堂君! ……どうやら、勝ったようだな。」
「気持ち的には……かなり微妙ですけどね?」
首都正門前戦線――決着。
人狼王グラン・ヴォルフは気絶し門は開かれた。
本堂アランは戦歴に勝利の二文字を刻み込む。
――城内・最上階――
扉の前で戦士たちは荒い呼吸を整える。
この場に残った味方は僅か十数名。
主要な戦力はメアリーら二番隊の精鋭だった。
「ようやく、此処まで来たな……リチャード。」
「えぇ。でもまだ終わった訳じゃない。」
まるで門のような扉に手を当て、
リチャードは目を閉じ最後の精神統一をした。
この先にいるのは敵の総大将。即ち女帝だ。
「正直、勝てると思うか? 今の戦力で?」
「はぁ? 二番隊の精鋭部隊じゃ不安なわけ?」
「いや……そんなつもりは……!」
「分かってる、冗談……でも今更引き返せない。
対女帝の策もある。無謀でもやるしかないの。」
背中を押す仲間の言葉に、
リチャードは一瞬だけ喉を鳴らす。
そしてすぐに決意を固めた。
「分かった。行こう――」
リチャードは手に力を込め扉を開ける。
先にある部屋の名は玉座の間。
突入の怒声と共に革命軍本隊が流れ込んだ。
が――
「!? 女帝が……いない?」
――室内に人の気配は無かった。
それに気付くとメアリーら二番隊員は
リチャードを護るように彼の周りをぐるりと囲み、
密集陣形を取りながら室内の捜索を始めた。
その時、玉座の間を反響した声が響く。
『ようこそおいでくださいました。王権所有者。』
「っ! 周囲を警戒ッ! 最悪すぐに離脱するぞ!」
『ですが邪魔者も多いようで……仕方ありません。』
何処かで女帝が指を鳴らすと
リチャードの足元にだけ黒い穴が穿たれた。
「――は?」
『二人きりになりましょう? リチャード・フィロア。』
掴もうと伸ばされたメアリーの手も間に合わず、
リチャードだけが暗闇の中へと落下した。
やがてすぐに穴は塞がれ、女帝の声も消え失せた。
「リチャード! 無事か!? 応答しろ……!」
無線に叫ぶが返事は無い。
ただ部屋の中に虚しい声が響くのみだった。
(マズい、リチャードを……革命の旗頭を奪われた……!)




