第十七話 センター・ゲーム
チェスにおいて、ゲーム開始早々から
クイーンを前線に送るのは悪手とされている。
陣形も崩れていない最序盤では
結局取られてしまう可能性が高いからだ。
対局相手に一手ずつ適切な対応をされてしまうと、
最悪どう足掻いてもクイーンを失う結果となる。
だがこれは、相手が完璧に動くと想定した場合の話。
一手ずつ適切な対応をすれば防げるという事は、
裏を返せば『一手の無駄も許されない』という事である。
名人同士の対局ならそんな事は当然の話だろう。
しかしこれが知識の浅い初心者同士なら、
或いは中級者の早指し勝負ならば話は変わる。
最序盤で前線に現れた『女帝』という化け物は、
その前評判通り最強の駒として戦場を荒らし尽くす。
「女帝……!? あれが……!」
まるで道路に張り付くガムのように
満身創痍の朝霧は床に伏しながら声を発した。
まだグラグラと揺れる頭を必死に動かし、
神の如く天上に立つ敵の姿を視界に収める。
そんな朝霧の顔を覗きつつ、
女帝はフィーアの報告に耳を傾ける。
粗方聞き終えると氷のような凍てつく瞳で
朝霧と同様に倒れたオロバスの方へと向いた。
「無様ですね。ビショップ・オロバス?」
反応は無い。オロバスは既に気を失っていた。
「ふむ? 貴方がそんな状態になるとは……」
女帝はゆっくりと高度を落とす。
やがて初雪がコンクリートの大地と触れ合うように、
彼女は静かに管制室の中へと着地した。
「それだけ、敵が強かったという事ですね?」
女帝が降り立ったのは朝霧の眼前。
動けない彼女を救いだそうとケイルが動く。
それに対し女帝は目線も送らず指を立てた。
指先で小さく輪を描いたかと思うと、
ケイルの周囲を数個の黒い球が取り囲んだ。
「――『ベロネフォビア』。」
刹那、黒球からケイルに向けて棘が伸びる。
回避不能の刺突が数本、彼の身体を貫いた。
「どがぁ……!? っはぁ……!」
力無き身体は手すりとぶつかり滑り落ちる。
そんな彼の顛末にも一切興味を示す事無く、
女帝は朝霧に不敵な笑みを魅せていた。
「封魔局の、朝霧ですか。」
(ッ……!? なんて威圧感……! こんなの……)
まるでサギト。朝霧の身体はそう直感する。
だがすぐにそれは間違いだと脳が告げた。
過去に強欲、怠惰、色欲と遭遇した朝霧は、
彼らの放つ特殊な魔力の肌触りを覚えていた。
レーダーとは呼ぶにはあまりに漠然とした感覚。
だがそれでも眼前の女がサギトでは無いと
確信を得るのに十分な指標となる。
故に朝霧は戦慄した。
なぜなら女帝はまだサギトでは無いのだから。
(今の時点で私より……いや劉雷さんより強い!
もしこんなのがサギトに覚醒でもしたら……!)
その先の想像には絶望しか無かった。
そして朝霧の絶望をより掻き立てるかのように、
女帝は手を伸ばし魔力を集積し始めた。
「なんて若い芽。これは――摘んでおきましょう。」
死を直感させる冷たい魔力に
朝霧は思わず目を瞑る。
その時、管制室に一人の女が現れた。
「おや?」
女帝は少し驚いた表情を見せ手を止める。
そして女帝以上にフィーアが驚き声を上げた。
現れたのが、彼女の姉であったからだ。
「――ツヴァイ……姉……?」
眉を歪めたフィーアと、
肩で息をするツヴァイの目があった。
「フィーア!? 無事だったのね!
……フンフは!? あの子も一緒に戻れたの?」
ツヴァイは妹の姿を見つけ歓喜の表情を見せる。
デガルタンスで消息を絶ってからというもの、
心の片隅では常に妹たちの事を心配していたのだ。
思わず抱きしめたくなり手を伸ばす。
だが、そんなツヴァイの手をフィーアは弾いた。
「……嫌。」
「え?」
「近寄んないでよ……裏切り者……!」
怒るように、そして怯えるように、
フィーアはツヴァイの事を拒絶した。
――刹那、ツヴァイの脳裏に乱れた映像が流れる。
それは「やめて」と泣き叫ぶフィーアの腹を、
狂ったように刃を刺突する一人称視点の映像だった。
(な……!? 何……今の!?)
ツヴァイは顔を押さえ壁にもたれた。
大粒の汗が背中をじんわりと濡らしていくのが分かる。
そんな彼女に向けて今度は女帝が語り掛けた。
「よくぞ無事でしたね。アンドラス。」
「……!? 陛下、私は……!?」
狂いそうな理性をどうにか保ち、
ツヴァイは助けを求めるように女帝を見る。
だが女帝は静かに質問するのみだった。
「時にアンドラス。貴女は何故こんな所に居るのです?」
「はっ……! 封魔局と共にいたら、偶然遭遇し……」
気分の悪い汗を流し続けたまま、
ツヴァイは騎士のように跪きハキハキと答えた。
しかし彼女の態度に女帝は瞳を更に冷たく尖らせる。
「ですから……どうして封魔局と一緒にいるのです?」
「……え?」
意味が分からずツヴァイは固まった。
やがて答えが返って来ない事を悟った女帝は
小さく溜め息を吐き「まぁいいでしょう」と呟いた。
そして身体を退け、ツヴァイの視界に朝霧を入れる。
「朝霧を殺しなさい。それで証明とします。」
「な!?」
ツヴァイは思わず目を見開く。
そしてその表情のままフィーアへと振り向く。
すると彼女は両脇を抱えツヴァイへと敵意を向けた。
「どうしたの? 早くやりなさいよ!」
「フィーア……?」
「それとも……やっぱりアンタ……!」
ツヴァイは妹の口走った台詞を思い出した。
裏切り者。どういう訳かそうなっているらしい。
であれば隊長格である朝霧の殺害は
確かに身の潔白を示す丁度良い証明になる。
彼女がまだ女帝に仕える連邦側の悪魔である事の。
「っ……!」
ツヴァイは刃を取り出し朝霧の前に立つ。
彼女は既に虫の息であり、その身体はボロボロ。
ただ疲弊した虚ろな目でツヴァイの事を見上げている。
「ハァ……ッ、ハァ……ツヴァイ……」
命乞いを聞いてはいけない。剣を振り上げる。
死に際を見たくは無い。目を閉じた。
ただの兵器として悪魔は青白い刃を振り下ろす。
「……どうか……長生きしてね。」
「――!?」
刃は朝霧の寸前で停止した。
ゆっくりと目を開けると朝霧は既に気を失っていた。
殺してはいないし、殺せてもいない。
背後からフィーアの侮蔑と憤りの声も、
そして女帝が落胆する音も今の彼女には聞こえない。
刃を手に、ツヴァイはその場に座り込んだ。
「……仕方ありませんね。
証明はこの後、別の方法でしましょうか。」
ツヴァイからの返事は無い。彼女は放心している。
「ふむ。やはり兵器の感情は限定すべきですね。
まぁそれも後です。今は危険を排するのが先決。」
女帝は再び朝霧に向けて手を伸ばした。
(……あぁ、いやだ。)
ツヴァイの脳裏に思い出が浮かぶ。
デガルタンスでの出会いや始めての共闘、
そして雪山での戦いやリチャード家での会話。
全ての記憶が脈絡無く溢れかえる。
(いやだ。だめ……やめて……)
多くの会話が呼び起こされる。
多くの思い出が煌びやかに輝き出す。
だが何よりも嬉しかったのは、
人として接してくれる彼女の態度だった。
「朝霧だけは……やだ……!」
子供のような声を上げ、
ツヴァイは無我夢中で刃を振るう。
止めどない激しい感情が、彼女の中で氾濫した。
「……ふむ。」
斬撃は飛び退いた女帝の腕を掠める。
溜めた魔力の塊の保持に専念していたのもあり、
完全に避ける事は出来ず腕から血が流れた。
「これは流石に擁護出来ませんね。」
やってしまったとツヴァイは焦る。
既に過呼吸を引き起こしてもいた。
しかしそれでも彼女の身体は
自然と朝霧を護る位置に置かれていた。
「何か遺言はありますか、アンドラス?」
「違う……! 私はツヴァイ……!
朝霧と同じ――『人間』だぁ!」
ツヴァイは床と天井に斬撃を叩き込む。
無数の大きな破片を飛び散らせると、
朝霧を抱えて翼を広げ、亀裂から抜け出す。
「そうですか……残念です。」
逃れた元部下の背中を見つめ女帝は呟く。
そして静かに小さな水晶を取り出し、告げた。
「全軍に通達。アンドラス――
いえ……ツヴァイが裏切りました。」
――――
「朝霧! ねぇ朝霧!? ッ……ダメか!」
ツヴァイは朝霧を抱え拠点内を飛行する。
その道中彼女の目には凄惨な光景が映る。
「……っ!」
其処に転がっていたのは子供の死体。
見覚えのある彼らの亡骸を目撃し
ツヴァイの動きは一瞬だけ止まってしまう。
直後――放たれたのは極太の光線。
制御室に残る女帝からの攻撃が
拠点の内壁を貫通しながら、
逃れるツヴァイの片翼を掠めて焦がす。
「ぐっ! あぁッ……!?」
ツヴァイは地面を擦りながら不時着する。
思わず手放してしまった朝霧に近づくと、
彼女の無線が点灯している事に気付いた。
『――! 朝霧か!? 今どこにいる!?』
「騎士聖……! 私だ……」
『ツヴァイか!? 朝霧はどうした!?』
「生きている、けど重傷……
女帝たちにやられて……今逃げてるとこ……!」
『女帝!? それにお前、今どういう状況だ!?』
ツヴァイは無線を片手に朝霧を抱き寄せ、
少し焦げた翼を動かし移動を再開した。
そして睨むような目で彼女は告げる。
「私が女帝を裏切った……!
お願い騎士聖……朝霧が助かる道を教えて!」
無線の向こう側でアーサーは熟考する。
直後、ツヴァイは後方から迫る気配に気付いた。
女帝だ。女帝が彼女たちを追って来たのだ。
「急いで! 女帝が来てる……!」
『……分かった。』
やがて何かを決心したように吐息を漏らす。
そしていつもよりも低い声で
アーサーはツヴァイに向けて指示を出した。
『カセントラ市街まで後退してくれ。』
「でもそれじゃ……女帝も着いてくるだけだ!」
『あぁだから――女帝は俺が相手をする。』
場を荒す女帝には、一手の無駄も許されない。




