第四十七話 降臨
バケットリストという物がある。
死ぬまでにやりたい事を記す、アレだ。
(ブーツ履いてみたいなぁ。ヒールの高いカッコいい奴。)
もし今までのエヴァがこれを作る機会があったのなら、
タイトルは「覚醒したらやりたい事」になるのだろう。
色欲のサギトとして覚醒すれば彼女の祝福は封印され、
忌々しい蟲の脚は本来の人間の足へと戻るのだから。
(案外美脚ね……タイツとかも似合うかな?
あぁでも蒸れが酷いんだっけ? それも今度試そ。)
エヴァは祭壇の上に腰掛けて、
久しぶりに見た己の素足を興味深そうに眺めた。
この足に似合うファッションは何だろうかと
撫で回し、ペチペチと叩いては妄想を膨らませる。
(オシャレしたら他の街にも行ってみたいなー。
綺麗なカフェで窮屈じゃない普通の座り方して、
パンケーキに大好きな蜂蜜をたっぷりと掛けて……)
いつの間にか目を閉じ、頬杖を突いていた。
それほどまでに彼女の心の中には
やりたい事がいくつも眠っていたようだ。
(あれ? 蟲成分消えたら味覚は変わるのかな?
蜂蜜を受け付けなくなったら、ちょっと嫌だなー。
ま、その辺りの心配は後回しでいっか!)
他愛の無い妄想に満足すると、
彼女はおもむろに冷たい岩肌に素足を乗せる。
彼女の最もやりたい事。それは依然変わらない。
邪神の降臨とその先にある現行社会の崩壊だ。
エヴァが今からバケットリストを作るのなら、
タイトルはきっと「世界を壊してからやりたい事」だ。
それまで全ては後回し。彼女の趣味を消化するのは――
「――全部壊してから!」
見える景色は瓦礫の世界。崩落した暗闇の洞。
蟲の感覚器も失った今では少々視界が悪すぎる。
しかし、今の彼女にはそんな事はどうでも良かった。
傀儡化や蟲の特性など、便利な能力と引き換えに、
彼女は己の悲願を達成する切り札を手に入れた。
それはまるで机の下に落ちたパズルの欠片。
今まで邪神召喚というパズルを不可能にしていた、
枠の外に隠れた最後の一ピースであった。
色欲のサギトは祭壇にて両手を広げる。
崩れ、歪んだ暗き天上に向けて、
誓いの言葉を述べるように詠唱した。
「我が純潔は邪神様のために。
私が捧げる色欲は、一滴残らず貴方の物。
ですからどうか、この悪辣な世界に救済を――」
其れは神にのみ捧げられた清廉潔白な色欲。
淫らに撒き散らすことの無い、一個体への異常な欲情。
「――権能『色魔の揺籃』。」
直後、エヴァの身体に変化が起きる。
恐ろしいほどの吐き気と、割れそうなほどの頭痛。
そして、腹の中に禍々しい気配が宿った。
罪人はその正体に感づき悶えながらも笑みを漏らす。
「あぁ……素敵……」
――闘技場――
地下から駆け巡る異様な振動は止み、
人々は這いつくばった大地から両手を離す。
彼らに広がるのは憂懼の念。不安が心に影を落とす。
(地下からの振動……隊長たちは大丈夫なの!?)
エレノアは額に汗を流しながら地面を睨む。
すると、彼女の真横でアランの体がピクリと動く。
「――っ! コイツ、まだ動く気か!」
判断が遅れてはならないと、
エレノアは咄嗟に莫大な磁力をアランに放った。
強力なエネルギーがアランの腰に直撃する。
「ぐぅぁ!!?? 痛ェ! 痛ェ! 痛ぇよ!!」
「待ってエレノアさん! それ多分正気ですよ!?」
「へ?」
リーヌスに止められて、彼女は周囲を見回した。
よく見れば蟲によって操られていた全ての人間が、
正気に戻り近くの者たちと状況を共有していた。
その光景に安堵すると共に、エレノアは青ざめる。
「えと……あの〜ぉ?」
「よぉエレノア。寝起きの先輩に随分じゃねぇか?」
「申し訳ありませんでしたぁ!!」
強い磁石に引っ張られるかのように、
エレノアは地面に頭を擦りつけた。
そんな彼女たちのもとに劉雷とアキレス、
そしてシアナに抱えられたアリスが駆け寄った。
「劉雷さん!? ……ぅっ!」
「そのまま横になっとけ。お前は特にダメージが酷い。」
(ごめんなさい。本当にごめんなさい。)
内心で何度も謝るエレノアの横で、
アランは厚意に甘え体の痛まない体勢を取る。
「……っ、そうだシスター・エヴァは!? 彼女が――」
「――邪神眷属の召喚者、だろ? 分かっている。
今は朝霧が地下に逃げた彼女を追跡している所だ。」
劉雷はそう告げると穴を見つめ目を細めた。
エヴァが逃げた地下へと繋がる大きな空洞。
その奥から大きな揺れが発生した意味を推測した。
すると劉雷の肩をアキレスが叩く。
「なぁレイ。彼らの傀儡化が解除されたという事は……」
「あぁそうだな、アキレス。
ウチのエースが素早く討伐したか、もしくは――」
――彼が言葉を繋げようとしたその時、
彼ら封魔局員全員の無線に朝霧の声が届いた。
『ジジ……全体通信……エヴァ……覚醒!』
「祝福が消えた。その理由は一つだけ。」
『色欲のサギトが出現しましたッ……!』
響く朝霧の言葉に人々は戦慄する。
傀儡解除直後で状況が飲み込めない者もいれば、
いち早く現状を理解し絶望する者もいた。
だがしかし、そんな中でも封魔局員だけは違った。
「一番隊隊長、劉雷より全体通信!
これより我々は対サギト出現時作戦に沿って行動する!
訓練を思い出せ! まずは避難範囲の拡大! 急げ!」
「「了解!」」
封魔局員たちだけは素早く行動を開始した。
外ではハウンドの指示で避難誘導が行われ、
支部では本部及び周辺都市への伝達が完了する。
そしてテネブラエ内部でも絶えず人が動く。
「朝霧! お前は今何処だ!?」
『瓦礫の下に……ジジッ……ドッ……』
(逃げ遅れたか……恐らくサギトも近くに……)
劉雷の脳裏には一つの作戦があった。
此処は入り組んだ迷宮の如き地下闘技場。
その最深部に敵がいるのであれば、
此処からわざわざ外に出してやる理由は無い。
「結界部隊を呼べ! 闘技場に封殺する!
他は全員今すぐ地上へと脱出しろ! 逮捕者もだ!」
「劉雷隊長、本部から連絡!
隊長格の増援は早くても二時間後となるそうです!」
「まぁ十分。耐久戦で殺る。お前らもさっさと出ろ!」
「レイ! お前はどうする気だ!?」
「朝霧たちを拾ってから行く!」
人々は動き始めていた。
速やかに行動する封魔局員に引っ張られ、
拳闘士たちや捕縛された観客たちも動き出す。
サギトという共通の脅威の前に、一丸となった。
が――
「「――――ッ!!!?」」
――人々の動きは止まった。
素早く動けていたはずの封魔局員たちはもちろん、
劉雷ですら体がピタリと止まって動かない。
だが何も世界の時間が止められた訳では無い。
人々は、突如現れた強大過ぎる魔力に硬直したのだ。
脳が理解を拒み、思考が停止し、体が止まった。
「……な、……え? なに……が?」
動揺という思考が思わず口を割いて出る。
本能という反射で冷や汗が流れ鳥肌が立つ。
やがて人々は察した。ソレという存在の誕生を。
「作、戦……変更……! 作戦変更だ! 戦力を集めろ!」
「レ、イ……?」
「直感だが耐久戦は……時間を与えるのはマズい!」
彼にはその存在に対する知識など無かった。
だがしかし長年の戦闘経験と最強を支える五感が、
突如出現したソレが『成長中』であると告げていた。
「援軍を急がせろ! 此処で討つ!!」
――邪神の祭壇――
「ね~んね〜、ね〜んね〜。」
穏やかな女の唄が祭壇に響く。
思わずウトウトしてしまいそうなほど安らかな、
それでいて何処か不気味なメロディの唄が。
「魔女の仔〜、ね~んね〜。」
女は修道服のベールをソレに巻き付け、
腕の中に抱きかかえ優しく揺すった。
しかしそれは人の子に非ず。まして動物の仔でも無い。
真っ白な肌をした、とても命とは思えない何かであった。
しかし、女はそれを抱きかかえ優しく微笑んだ。
「ふふ! 貴方の生誕を祝福します――『邪神ユーク』。」
憂懼――降臨。
それはとても静かで穏やかな生誕の瞬間。
しかし、コレを野放しにすれば、世界が終わる。




