第十七話 渦中の人
――デガルタンス・とある花畑――
一陣の風が花びらを攫う。
ヒュルリと小気味良い音を奏でて香りを運ぶ。
彩り豊かな模様と共に、風は青い空へと飛び跳ねた。
オメグラフ海岸を一望出来る丘の上。
風の荒ぶ美しき花畑の中で男はムクリと顔を上げる。
手にした一輪の花びらをゆっくりと胸元に寄せながら。
刹那、彼の背後で魔方陣と共に一人のシスターが現れた。
「大司教。至急お耳にいれたいことが。」
「……あの仔が見つかったので?」
「いえ……その捜索中に、エヴァが行方不明に。」
大司教。そう呼ばれた男は目を見開き振り返った。
歳はかなりの高齢のようで髪も髭も白い。
だがその目は決して鋭さを捨てていなかった。
鷹のような威厳と品性を備えた碧眼がギラリと輝く。
「大至急捜索を。私は封魔局に連絡をしてきます。」
祭服を翻し大司教は指示を飛ばす。
するとそこへ新たにもう一人のシスターが現れた。
礼も適当に、酷く慌てた様子で報告を上げる。
「大司教! ディマ海峡にて――異端の眷属が!」
――ディマ海峡――
海が荒れる。渦は更に加速する。
陸の生物を呑み込もうと海は人に牙を剥く。
荒波と海洋の怪物の咆吼とが交わり轟いた。
落雷でもあったのかと誤認するほどの爆音の中、
朝霧は化け物の口中に見える姿を凝視する。
(見えにくいけど……多分あれは人の手だ……!)
怪異の体液らしき粘体に包まれて、
だらりと脱力しきった白い腕が見えた。
その細さから恐らく女性だと推測出来るが、
生きているかどうかまでは判別出来ない。
(けど血や怪我は見えない……! なら見捨てられない!)
波に乗るサーファーのように、
朝霧は結晶体の上に立ち化け物の口に接近した。
うねる触腕を斬り刻み、一直線で道を開く。
がしかし、朝霧の目的を悟り海魔は海の中へと逃れた。
「っ!? 潜水した……しかもこの速度……!」
朝霧は海中に浮かぶ黒い影を目で追った。
それまでの化け物は海流に逆らい駐留していたが、
今度は渦潮の流れを使って一気に移動する。
その行動にはやはり知性のような物が感じ取れた。
(っ、速い! それにこの方向!)
朝霧は海魔の捕捉した目標を悟りゾッとした。
黒い影はユノたちを乗せた船に向かっていたのだ。
結晶では追いつけないと悟ると、
朝霧は無線に向けて力強く怒鳴りつける。
「アラン! 敵がそっちに! 早く離脱して!」
『っ! ダメだ! 多分……船底を掴まれた!』
吸盤を接着させ渦潮へと引き戻そうと海魔は止まる。
船は全速力でその脅威からの逃亡を計った。
そして朝霧も海魔を背中から討とうと急接近した。
――その時、化け物の黒い瞳が朝霧に向く。
『カカッタ。』
「「――ッ!?」」
一同は「これが罠である」と瞬時に察知した。
魔法使いたちの直感を裏付けるように、
巨大な軟体生物は渦潮の中から空へと跳ねる。
渦に引き戻した船も、追跡する朝霧も見下す高さにまで。
そして――彼らの脳に念波を送りつけた。
『キィ……ク、キィ……。』
(これは、マズい……!)
数秒後の未来を予測し、ユノは飛び出した。
手を伸ばした先にはしゃがみ込むキアラ。
彼女の頭に振りかけるように光の魔術を行使した。
「ユノのん?」
何をされたのか分からずキアラは呆ける。
彼女の目に映ったのはユノの微笑みだった。
直後――
『■■■・■■■・■■■■■■!!』
――禍々しい魔力が、渦巻き逆巻き、暴発した。
それは無防備な脳に直接送りつけられた獣の言葉。
意味は理解出来ない。出来ないのに翻訳された。
決して聞いてはいけない異端の呪文が人を襲う。
「「ヅッ!? がぁぁああああああ!!!?」」
船の上にいたキアラ以外の人間が狂う。
頭が割れるような痛みに苦しみながら、
甲板で、船内で、操舵室で人が発狂した。
そしてそれは空中にいた朝霧も同じ。
キアラは渦潮の中へと落ちる彼女の姿を見た。
「っ!? モッキー!!」
悲痛な叫びが船内から響く。
朝霧は朦朧とする意識の中で必死に動くキアラを見た。
彼女は、甲板に向け自身の荷物を投げていた。
(何を……して……?)
やがて朝霧の頭部が水に浸かる。
生身でこの渦潮に入るのは流石の朝霧でも危険。
今の状態では十字架による転移も不可能だ。
朝霧は自らの死期を悟りゆっくり目を閉じた。
「――祝福、発動!」
直後、朝霧の脳天を痛みが襲う。
一瞬海中の岩肌にぶつかったのかと錯覚したが、
それにしてはやけに平たい地面であった。
加えて、水中特有の息苦しさも無い。
朝霧がいたその場所は大量の空気があった。
「ここ……は?」
「船の上だよ……! モッキー……!」
つい数秒前まで遠くにいたはずのキアラが
今にもはち切れそうな泣き顔で朝霧の視界に入る。
彼女言う通り、其処は紛れも無く船上であった。
「貴女の……祝福、なの? キアラ?」
「うん、そうだよ……!」
「効果は? ……どんな能力なの?」
「え……? えと……『交換』、とか?
物と物との位置を入れ替える的な……?」
涙のせいかキアラは煮え切らない返事をした。
だが決して嘘は言っていないようだ。
朝霧は自分が今いる場所が、
先ほどキアラが荷物を投げた落下地点だと悟る。
「そんなことよりもモッキー! 今は!」
「えぇそうね……行かなくちゃ……!」
「そう逃げ――え? 行く? 行くって何処に?」
朝霧は大剣を杖に立ち上がった。
引き留めるキアラにも構わず、
海中に落ちたはずの朝霧を探す海魔を睨んだ。
「以前はよく狂ってたからかな? 私だけ効きが悪い。」
「それは良かった。なら今のうちに逃げましょ!
別にあの化け物は倒す必要は無いんですよね!?」
「さっきまで、はね? けど状況が変わった。
仲間が苦しんでいるし、何より女性が中にいる!」
震える手足に鞭を打ち、
朝霧は重すぎるはずの大剣の刃先を海中に向けた。
その背には決意や義務というような責任感は存在せず、
ただ「それが当然だから」という感情のみがいた。
「いや……気持ちは分かるけど冷静になって!
仲間は後で適切な解呪をすれば多分治せますって!
そ、それに……女の人だってきっともう死んで――」
そこまで口走った直後、キアラは口をつぐむ。
視線を逸らす彼女の顔を朝霧は静かに見つめていた。
そして淀む意識の中で彼女に投げ掛ける言葉を選ぶ。
「例えそうだとしても……私は行くよ?
もしかしたら……帰りを待つ遺族の方がいるかもだし?」
「……」
「あとね……? 私ってば『誰かを護る』のが苦手みたい。
護りたかった大切な物は……皆どっかいっちゃうの……」
尊敬した隊長も、共に戦った戦友も、
救いたかった子供たちも皆、彼女の前から消えた。
だがそれでも――
「それでも……やっぱり『護りたい』から……
私の大切な人たちには……笑ってて欲しいから……!」
「――!」
突き抜けるような衝撃がキアラを襲う。
肉体から抜けでそうなほど精神が揺らいだ。
対して朝霧は船の手すりに自重を乗せ、
渦潮の方へと足を引きずりながら歩き始める。
「……さっきの『交換』で私と女の人を入れ替えて。
タイミングは化け物が私に気付いて浮上した瞬間ね?」
出来る?と質問されキアラ思わず了承してしまう。
すぐに危険であると訴えようとするも、
それより早く海魔が朝霧に気付き触腕を突き出した。
操舵手も失い、波に攫われ大きく揺れる船体。
そんな不安定な足場では立つことさえままならない。
がしかし、既に殺意を固めた朝霧は全く動じなかった。
それどころか忘れ物でも思い出したように
小さく「あっ」と声を上げ、
座り込むキアラに振り返り人差し指を立てた。
「今の護るのが苦手って話。ユノさんにはナイショね?」
――直後、海魔が再び跳躍する。
再び呪文を唱えるか、或いはそのまま喰らうつもりか、
とかく人を丸々飲み込むほどの大口を開けた。
それによりキアラにも女の姿がはっきり視認出来た。
「……今だっ! キアラ!」
「っ……! 必ず戻って来てください!」
キアラが全力の魔力を放った。
その直後、朝霧の視界は一瞬で暗転する。
船上に転がり女性の体。キアラが抱き止め確保した。
(奪還完了……! そして……口内なら撃てる!)
朝霧の殺意に呼応し赫岩の牙は姿を変えた。
海魔のオーラなど比では無いほどの
禍々しい赤黒い魔力を解き放ち刀身から大筒を開放する。
『コレハ……! アカキリュウ!』
「真体、開放――」
『オ、オオ……! マダ、ダ……! キズヲナオサネバ!』
荒ぶる触腕生物。しかし口中には意味が無い。
口の中から体内に向け、朝霧は引き金を引いた。
「――『赫焉』ッ!!」
赤くて黒い、一本の極太な光が海上に線を引いた。
異質な化け物の肉を灼き、海中の岩肌を抉り抜き、
尚も止まらず大気を揺るがすほどの火力が爆ぜた。
吹き飛び落下する異形の肉片。
朝霧は最後の力を振り絞り、それらを足場に船に戻る。
帰還した直後、号泣するキアラに抱きつかれた。
――デガルタンス近海、ディマ海峡。
謎の触腕生物と対峙するも、これを撃破する。
「キュ? キュウ!?」
「ん? どうしたの、どんぐり?」
小動物は濡れた床を必死に駆け抜け
怪物の中に眠っていた女のもとに向かった。
化け物の粘膜で汚れているが、息はあるようだ。
「キュウ! キューウ!」
女の姿はまるでシスター。
小動物はそんな彼女に心配するかのように駆け寄った。
彼女の肩をその小さな手で叩き、頬を優しく舐める。
「どんぐり? ……ま、まさかこの人が!?」
問い掛けるキアラたちに向けて、
小動物は全身を使って大きく返答をした。
朝霧はその動きが「イエス」を意味すると直感する。
「貴方の、飼い主なのね?」
小動物はいつもの鳴き声で答えた。




