第三十一話 朝の風
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寝起きの体を左右に揺らす。
肩を、腰を、背中を気持ち良くなるまで伸ばし、
全身に血が行き届く感覚で悦に浸る。
カーテンを開ければ気持ちの良い陽光。
差す光と流れる風で全身を洗っていると、
タイミングを見計らったようにトーストが焼けた。
漂うコーヒーの香り。サクッと鳴る小気味良い音。
塗りたくられたマーマレードの程よい苦みと共に
邪気が払われるような幸福感が頬を落とす。
思わず緩んだ唇の汚れを指で拭い、
女は高ぶる感情を吐息と共に吐き出した。
「美味っしぃ~~~~!」
「いや……それ私の朝食なんだけど……アリス。」
寝癖で荒れた髪を掻きながら、
部屋の主である朝霧は呆れたように声を出す。
少し乱れた寝間着姿で眠気混じりの顔を向けた。
「あり? わたし用に出してくれたんじゃ?」
「違ーう! なんで当然みたいな顔でいられるの!
スムーズに口に運ばれたからビックリしちゃったよ!」
「えへへ。御馳走様です!」
ニコリと見せられた無垢なる笑顔。
寝起きということも重なり、
本気で怒るような気分にはなれなかった。
自分用の朝食を改めて用意すると、
テーブルを挟んでアリスと向かいの席に付く。
此処は封魔局本部、朝霧の部屋。
本堂道場が焼失してから既に四日が経過し、
六番隊員たちは全員、調査から撤退していた。
それはアランたち入院組も同じ。
丁度昨日、彼らは無事退院を果たしたので、
夜遅くまで退院祝いのプチパーティーも開かれた。
アリスがこの部屋にいるのはそのためだ。
アランたちは自分の足で帰ったが、
彼女のみは酔い潰れてそのまま寝泊まりした。
「昨夜は楽しかったですねー!
酔ったエレノアちゃんは可愛かったですし。」
(何かアリスに対抗意識燃やしてたけどね……)
「シアナちゃんもテンション上がって踊り出して!」
(急に脱ぎだした時はびっくりしたけどね……)
「あ、でもアラン君はテンション低かったですね?
酔うと逆に無口になるタイプなんですかね?」
(そりゃほぼ女子会だったからね、あの空間……)
肩身が狭そうな当時のアランを思い浮かべ、
朝霧は深い同情の念を抱いた。
もう少し男性陣にも声をかけるべきだったかと
今後に活かすために反省する。
「次やる時にはグレンやリーヌスあたりも呼ぼっか。」
「いいですね! ハウンドさん……は所帯持ちですし、
あと呼ぶとしたらジャックさんとかですかね?」
アリスは何の気も無しにジャックの名を上げる。
すると、その名に反応して朝霧の顔は硬直した。
口に掌を押し当て肘を付くと、
窓の外をぼんやりと眺めながら小さく頷く。
「うん……そうだね。」
「? どうしたんです?」
「いや……その……そういえば無いなって思って……」
歯切れの悪い回答。
アリスは聞かない方が無難と考え引き下がろうとした。
しかし朝霧はそれに気付かず言葉を続ける。
「私最近、ジャックさんと会話して無いなって……」
朝霧の顔にうっすらと掛かる黒い靄。
アリスの瞳はその変化を見逃さなかった。
しかし何と声を掛ければいいのか分からない。
すっかり戸惑ってしまっていると、
暗くなった場の空気を察知し朝霧は取り繕う。
そして話題を別のものへと変えてしまった。
「そういえば、アリスの用事は何なの?」
「え?」
「何か話したい事があってワザと残ったんでしょ?
でなきゃ朝食を奪ってまで居座らないって。」
「……流石ですね。まぁ大した話じゃ無いんですが。」
そう言うとアリスは数日前の出来事を話す。
それは悪魔サマエルと遭遇した際の問答。
当時のアリスは答える義理も無いと判断し、
明確な回答を出さずにいた問いである。
「朝霧さんは人間の本質って何だと思います?」
正確には、その答えをアリスは大昔に出していた。
だからこれは質問というよりむしろ確認。
尊敬する朝霧桃香が何と答えるのか、
聞く側に回って確かめてみたかったのだ、が――
「え、分かんない。」
――朝霧の答えは分からないだった。
より正確には「考えた事が無い」であった。
判断を下せるだけの材料が手元に無い。
素直にそう答えられアリスは面を食らう。
「じゃ、じゃあ! 善と悪、どっちだと思いますか?」
「うーん? それなら善かな?」
「何故です?」
「だってさ――」
――部屋の固定電話が鳴った。
手に付いたトーストで汚れを拭き取りながら、
朝霧は席を立ち上がり電話を取る。
相手は恐らくマクスウェル局長だろう。
アリスは引き際だと判断し席を立つ。
丁度部屋から出ていこうとドアノブに手を掛けた時、
通話を終えた朝霧に止められた。
彼女の目は既に六番隊隊長としての鋭さを有していた。
「アリス、出撃準備。アランたちにも連絡しといて。」
「――! 了解です!」
――都市アンブラ――
人斬り事件は犯人であるハリスを逮捕し終幕。
表向きにはそのように報じられた。
しかし完全に解決した訳では無いのも事実。
魔王軍は撤退したと見て良いが、
鬼の一族はまだ徒党を組み鋭い牙を有している。
魔王軍とも敵対しているようだが、
切れすぎるナイフとは存在そのものが危険物。
目撃者を抹殺しかねない彼らを野放しには出来ない。
加えて人斬り犯の一人であるイブキが脱走。
此処、都市アンブラの支部で目撃されたのを最後に、
その消息を完全に断ってしまった。
「直前の会話から、目的地はユグドレイヤだと推定。
サマエルとやらの追跡も兼ね、全て五番隊が対処する。
……って話じゃなかったっすか? 朝霧隊長?」
バイクの調整を行いながら、
グレンは自分の聞いていた状況を伝える。
認識は隊員たちの中で共有されていたらしく、
誰もが突然の出撃要請に疑問を抱いていた。
「つまり俺たちの目的は……援軍か?」
「えぇ、そうですハウンドさん。
……といっても、ただの加勢では無さそうですが。」
頭に疑問符を浮かべるハウンド。
そんな彼の横を通り抜け朝霧は隊員たちを招集した。
彼女の下に集うのは六番隊のフルメンバー。
彼らに向けて朝霧は最新の状況を伝達する。
「さっきも話に上がったけど五番隊は四日前から、
絶対不可侵聖域『ユグドレイヤ』へ向かっていた。」
「……」
「けど昨日――その五番隊との連絡が途絶えました。」




