第六十六話 藍の鳥は届かない
成功体験は自信と共に、過信も与える。
逆に失敗体験は必要以上に自己評価を下げる。
故に客観視というのはとても困難な物とされてきた。
それは優秀なはずの彼女たちですら例外では無かった。
ミストリナの自己評価は低かった。
表面では無理に取り繕って生きてきたが、
彼女はそもそもの自己肯定感が低い。
フィオナも今だけは自身を卑下していた。
自らの注意不足で片目を失ったからだ。
故に今は彼女の方が有用だと判断した。
それは彼女……朝霧桃香も同じ。
これまで積み上げて来た戦いの経験と功績。
決して弱く無い悪を超克してきた成功体験。
自覚すら出来ないほどの心の片隅で、
彼女は今回も自分は成し遂げられると過信していた。
ボトッ……
静寂が支配した空間に不快な音が響く。
左腕が地面に墜ちた。その事実を視認する。
間違い無く二十年以上見てきた自分の腕だった。
「ハァ…………! ハァ…………!」
動悸が早くなる。鼓動が思考を急かす。
自らの左腕を眺めた。血飛沫より先が無い。
(これは幻覚? 空中都市の時のような……そうだよね?)
どんどんと弱々しくなる感情。眉間にシワが寄る。
だが都合の良い幻想を打ち砕くような痛みがあった。
(現実だ……! 私……わた、し……!!)
「極天魔術――ソフトアスペクト『セクスタイル』!!」
発狂寸前だった朝霧の元にミストリナが駆け寄った。
掛けた術は彼女の使える数少ない極天魔術。
その内の一つ。保存魔術の『セクスタイル』だった。
「これで止血は出来た……! しっかりしろ朝霧!!」
「――!! 隊、長……ッ、すみません……!」
朝霧はミストリナに顔を向ける。
発狂こそ免れたがその表情は憔悴しきっていた。
「フィオナは?」
「下で、敵の足止めを……」
「そうか……すまなかったな。」
短く状況確認を済ませると、
ミストリナは悔しそうに唇を噛んだ。
するとそんな彼女に厄災は嗤った。
「遅かったじゃないかァ、箱庭姫。
どうだ? 自慢の部下はゴミとなったぞォ?」
――瞬間、ミストリナは激昂の表情で睨みつけた。
鋭い眼光。ギリッと奥歯を食いしばる音が鳴った。
火傷の跡も相まってその表情は鬼気迫る物がある。
だがローデンヴァイツにとってはそれすらも笑いの種。
侮蔑と嘲笑の感情を全面に出し口角を上げた。
そんな彼の周囲を飛び回る物が一つ。
よく見ればそれは、鋭利な刃のような羽虫であった。
「それが君の祝福か? 特異点≪厄災≫ッ!」
「左様。これは私の意思で動く忠実な懐刀。
名を――『リベレ』。切断力は……見ての通りだァ。」
感情を逆撫でるためだけのような声が、
朝霧の腕を見て再び笑う。
会話をするだけで不快だ、とミストリナは苛立った。
「落とし前をつけて貰うぞ、ローデンヴァイツッ!」
「君では勝てないよ。ミストリナァッ!」
叫び声と共に羽虫は消える。
否、目にも止まらぬ速さで動き出したのだ。
それを見た直後ミストリナは動き出した。
見切った訳では無い。むしろ逆だ。全く見えない。
しかし……いやだからこそ、
自己評価の低い彼女は早々に見切る事を諦めた。
(! すぐ伏すことでギリギリ回避したか。)
(斬られて……無いな! なら次は――)
――ミストリナはポーチに手を伸ばす。
次の攻撃が来る前に速やかに反撃に出た。
「『収縮』解除!!」
天極の間に突如、大岩が出現した。
それはローデンヴァイツを潰そうと飛び掛かる。
しかしそんな物で厄災は倒せない。
「リベレ――砕け。」
ペットに話しかけるように彼は呟く。
直後、大岩は中心から粉々に砕け散った。
(な!? そんな威力も出るのか!?)
「そら、止まったぞ――切断しろ。」
羽音が鳴る。が、やはり見えない。
ミストリナは咄嗟に防御結界を展開した。
得意のバリアで自身の周囲を小さく囲み、
羽虫の侵入を完全に遮断する。
しかし、ミストリナの対応に
ローデンヴァイツは不敵な笑みを浮かべる。
「では目標変更だ、リベレ。――朝霧桃香の首を刎ねろ。」
「しまっ……!」
ミストリナは振り返った。朝霧は現在疲弊し動けない。
今すぐ彼女の元に走り出したかったが、
そのためにはさっき展開したばかりの結界が邪魔だ。
ミストリナは躊躇なくバリアを解いた。
目を見開き必死に朝霧の元に駆け出す。
その背後で、やはり厄災は笑っていた。
(――違う……! 真の狙いは!)
――刹那、ミストリナの足から血が吹き出した。
部位でいえば右足の……アキレス腱であった。
激しい痛みと共に彼女は地面と激突した。
「あぁっ!? ッッ!! ぁぁああああッッッ!!!!」
「そんな……!? ミストリナ隊長ッ!!」
「フフフ! フハハハ!! 騙されたなァ!
別にリベレは声による指示を必要とはしないのだよ!」
(ッ……! 不覚を取った……!
奴の指示は全てブラフ! まんまと踊らされた……!)
ミストリナたちの真上で羽虫は旋回する。
彼女たちを煽るように、同じ場所をクルクルと。
そしてローデンヴァイツは更なる悪意を魅せる。
「時にミストリナ? 私は君の首を刎ねる事も出来たが、
あえてそうせず足だけ斬ったのは何故だと思う?」
「――! まさか!」
「そのまさかだ。君は其処で――朝霧が死ぬ瞬間を見ろ。」
「朝霧ィッ!! 今すぐ逃げろッ!!」
ミストリナは絶叫した。
しかし朝霧はその場から動く事が出来ずにいた。
欠損による体力の消耗もあるのだが……
(ダメ……! 魔力の流れがおかしい!)
切断されたのは朝霧の左腕。
ローデンヴァイツがそこに狙ったのは偶然では無い。
その腕には魔力を制御するブレスレットがあったからだ。
それが無くなった今、
朝霧は揺らめく魔力の制御が困難となっていた。
(嫌だ……! やだ! こんな……!!)
羽虫の音が容赦無く鳴り響く。
震える手で大剣に手を伸ばすが既に羽虫はいない。
いつ来るか分からない死にただ怯えるしか無かった。
(こんな所で……!!)
朝霧の眼の前に凶刃が迫った。
その時――
――金属音と共に火花が煌めく。
何者かが、朝霧に迫る羽虫を打ち払ったのだ。
羽虫は驚いたようにローデンヴァイツの元に戻る。
(フィオナ……?)
朝霧はゆっくりと顔を上げる。
するとそこにいたのは朝霧の予期せぬ人物であった。
「…………これは? どういうつもりだァ、衛士長?」
そこにいたのはフィオナが足止めしていたはずの女。
ガーディアン衛士長のシーラであった。
「裏切り……という事で良いのだな?」
「構いません最高議長。いえ、厄災。
元より私は――貴方を殺すためにこの地位に就いた。」
「「――!?」」
――連合総本部・外部――
バハムートに対抗するため、
各地で勝利を収めた封魔局員たちが集結する。
その中には、フィオナの姿も混じっていた。
「フィオナ! お前コッチで良かったのか!?」
「問題ありません劉雷さん!
バハムートさえ撃破すれば覚醒は止まる!
隻眼になった私には大型の敵の方が安心ですしね。」
それに、と続けフィオナは総本部の方へと振り返る。
思い浮かべるのは、彼女を足止めする名目で
好機を待っていた我慢強い復讐者の顔であった。
「彼女の憤怒を信じてみようかと。」
――――
「私はある政治家の不貞の子。
しかし父の事は嫌いでは無く、むしろ好きでした。」
「私に殺された政敵の娘かァ?
その復讐なのだろうが……心当たりが多すぎるなァ。」
「政敵……だと?」
シーラから怒りの声が漏れ出た。
朝霧とミストリナは成り行きを見守る。
元より二人は動けない。見守るしか出来ない。
「父が殺されたのは二年前。公には事故死扱いだった。」
(…………?)
何故か、朝霧の脳裏に言葉が引っかかる。
どうしてかは全く分からなかったが、耳に残った。
そんな彼女の変化に気付かずシーラは続けた。
「思い出せないかローデンヴァイツ!?
父の名はライズ・カルマン。魔法連合前最高議長だ!」
「カルマン! そうか奴に娘なんていたのか!」
「ッ……! だが質問はここからだ!
父は二年前の時点で既に政界を退いていた!
なのに何故殺された!? 何故貴様は殺した!?」
シーラの言葉に怒気が乗る。
しかしそれと同時に朝霧の中でも
少しずつ靄が晴れていく。
(前最高議長……二年前……事故死……)
「しかも……殺されたのは父が心血を注いだイベント内!
戦後復興の成功を祝うためのサーカス会場の中でだ!」
(――!!)
朝霧の中で全てが繋がった。
二年前、前最高議長を事故死させてしまったサーカス。
その出来事は朝霧にとって忘れられるはずも無い。
(パオラの……!? あの事故は厄災の陰謀……!?)
「あァ……はっきり思い出したよ。
演者が使う火薬を弄って火災を起こしたんだったな。」
朝霧の瞳に真っ黒な力が宿った。
その事に気づいているのはたった一人。
彼女の安否を気にし続けたミストリナのみだった。
「何故という話だったな? ウザかったからだ。
一応奴は連合を勝利に導いた最高議長。
議会内にはまだまだシンパが多かったのでね。」
「ッ! 貴様は……! 貴様だけは……!!」
シーラは剣を抜きその場から消え去る。
朝霧をも仰天させた彼女独自の移動法だ。
しかし、勝負は無情にも一瞬で終わった。
「なるほど? その動きも私のリベレ対策だったか。
復讐に向け努力し続けた訳か。だが、残念だ――」
ローデンヴァイツが指を鳴らす。
瞬間、シーラの持つ西洋剣は粉々に砕けた。
――直後、彼女の胸に羽虫が風穴を開ける。
「ガハッ!? な……ぜ……!?」
吐血しながらシーラは数歩進む。
そしてローデンヴァイツが彼女の肩を掴み、
その耳元でいつもの不快な声を囁いた。
「私はねェ。元から誰も信用していないんだァ。」
「ゴボッ……! ボホッ! ゴッ。」
恨みの言葉すら発せずシーラは死亡した。
彼女の死体を乱雑に投げ捨てると
ローデンヴァイツは目線を戻した。
「さぁ。つまらん邪魔が入ったが続きをしよう。」
ローデンヴァイツはミストリナの元に歩み寄る。
対するミストリナも何とか立ち上がり厄災を睨み返す。
その時――
「「!?」」
――禍々しい魔力を放ち朝霧桃香が立ち上がった。
ローデンヴァイツは咄嗟に飛び退く。
溢れ出る魔力のドス黒さに畏怖したからだ。
しかし、一番朝霧を怖がったのは別の人物。
その禍々しい魔力を見たことのあるミストリナだ。
「朝霧……! 待て、それは!!」
「ぅ…………ゥァ!」
その瞳は赤に染まり、ボロボロの服と
漂うオーラが異形の生物のように錯覚させる。
まるで、手負いの化け物が目覚めるかのような
そんな恐怖を与えるほどの禍々しさだった。
「ウガシャァアァァァ!!」
「暴走している……!」
ミストリナはただ戦慄するしか出来なかった。
しかしローデンヴァイツは違った。
この『違い』が残酷な運命を決定付けた。
「フン、怒りで我を忘れたかァ? 理性も無いな?
であるならば……同士打ちさせるのが面白いなァ!」
「!?」
ミストリナが振り返った時には、
厄災は空間拡張魔術で遥か遠くに避難していた。
怪物の眼の前に残ったのは――足を負傷した彼女のみ。
「…………」
「ッ……! 朝霧?」
気づいていた。いつもの暴走とはまた違うと。
声が届く余地のある僅かな理性すら無いのだと。
今此処にいるのは、救いようの無い畜生なのだと。
でも、それでも……
ミストリナは可愛い自分の部下に呼び掛けた。
きっと届くと願い、怪物に呼び掛けてしまった。
――ドシュ
「…………グ……ゴボッ……ボッ!!」
しかし声は届かない。藍の鳥は届かない。
怪物の鋭い拳が……ミストリナの胸を貫いた。