第二十六話 箱庭姫への期待・下
岩肌を擦り、洞窟を抜け、外へと飛び立つ。
そこは夜空。冷たい風。白い月が遠くに沈む。
「外だぜ、ミストリナ? 戻っていいぞ。」
ジャックの呼び掛けに応じ、
ミストリナは元のサイズへと肉体を戻す。
と、同時に彼の背中に飛び移った。
「ぐお!?」
「重いと言ったら怒るからな? しかし、まぁ。」
ミストリナは心地良い夜風に髪を揺らす。
影のような夜の雲。心まで透き通る大気。
外は想像以上に気持ちの良い場所だった。
「ところでジャック、これからどうするつもりだ?」
「うっ……! えーと……」
「はぁ、ノープランか。まぁそうだと思ったよ。」
期待など無かった。行動の全てはその場の勢い。
計画など無い。打算など無い。希望など無い。
――だが、だが今はこれで良い。
そっとジャックの首に手を回す。
高ぶる鼓動。寒空を暖める人肌の温もり。
その行く末に希望は無い。だが未来はある。
例えそれがどれほど茨の道でも、二人でなら。
「お、おい! ミストリナ!」
「何だ、レディの抱擁に動じたかな?」
「いや、そうじゃ無くて! あれを見てみろ!」
む、と不貞腐れながらミストリナは顔を上げた。
そこにあったのは何の変哲も無いもの。
しかし――彼らにとっては始めて目にした物。
「……夜明け、か? あれが太陽。」
かたや貧民街で生まれた青年。
今を生きるのに精一杯の空に憧れた男。
かたや中心街に閉じ込められた女性。
知識は豊富でも経験の足りない箱庭の姫。
そんな彼らを朝日が照らす。
不安の夜空を明るく切り開き、
眼下には手をふるような草原が広がった。
「ふふ、どうやら青い鳥はいたようだ。」
――数ヶ月後――
ミストリナは幸せだった。
二人は無事に新たな職につくことに成功する。
場所は中央都市ゴエティア。魔法連合の総本山。
後から聞いた話では、領主クレマリア公は
ミストリナの捜索を私兵のみに任せ、
その捜索自体も早々に切り上げたとのこと。
「実質的な勘当だろうな。後腐れが無くて良い。」
そのため新たな職につく上で父親からの妨害は無く、
周囲の人間から向けられた距離の感じる態度を除けば
彼女たちの新たな人生を阻む物は無かった。
「しかし、こうも簡単に入隊出来るとはな。」
「まぁ時期を考えれば納得も行く。
なにせ今の世界は――戦争へと向かっているのだから。」
これは現在から見て九年前。
彼らが入隊した封魔局は正に戦力を欲していた。
果たして時期は良かったのか、悪かったのか。
既存の秩序を守らんとする『魔法連合』と
新たな革命を望む『アビスフィア帝国』との
ここから先、四年に渡る魔法世界全土を巻き込んだ大戦。
その凄惨な戦いの火蓋が切って落とされた年である。
「それでも守ってくれるのだろ? ジャック?」
ミストリナは幸せだった。
ミストリナの方は、幸せそのものだった。
「もちろんだ、ミストリナ! 必ず、俺が――」
――――
……誰かが言った。
社会に出るとは、己が無力さを知ることだと。
……また、誰かが言った。
希望を抱く者ほど、自分が平凡だと理解していないと。
世界は広かった。確かに広かった。
それは彼らに希望を与えた。前に進む意志を与えた。
だがやはり、世界は広かった。
入隊してすぐにジャックたちは戦地へと赴いた。
任務の内容は補給班。後方支援だけしていればいい。
その中でジャックは偵察の役割を持ち始める。
「ハーレー隊員! 本隊との連絡が遮断された!
急ぎ本隊の位置を見つけ、状況を報告しろ!」
「了解!!」
「ジャック、気をつけて。」
「あ……あぁ! 待っててくれ、ミストリナ!」
目線を合わせずジャックは本隊の捜索に飛び立った。
未開領域の樹海を、敵に見つからないように低空で。
(……! 血だ! 血の匂いが濃くなった!)
当時は戦争初期。敵も味方も主力が健在。
百年単位で研鑽が積まれた魔術を、
容易く扱う大魔法使いたちが本気で殺し合った時代。
(見えた、煙! あそこで戦闘が起きている!)
それは疲弊しきった現在とは違う。
正真正銘、魔法に溢れた異世界だった。
「悪魔の章ッ! 第三十五節『マルコシアス』!!」
「祝福発動! 『月読・影打』!!」
「『デウス』、『エクス』、『マキナ』。詠唱破棄。」
規模が違った。そこは極一部の強者のみが暴れ、
平凡なその他大勢が塵のように飛ばされる世界。
……いや、強者といえども死んでいる。
口を動かせば人が死ぬ。指を向ければ人が死ぬ。
目を合わせれば人が死ぬ。何もしなくても人が死ぬ。
この時、ジャックは既に痛感していた。
自分は平凡……むしろ弱者側の人間なのだと。
「退避ぃいい!! 退避ぃいい!!
上空より熱源! ――アビスフィアの衛星兵器だ!!」
(ッ! まずっ――)
――真っ赤な閃光。地面を抉る。
樹々を圧し折る風圧から身を守りながら、
ジャックは人々が吹き飛び消える様を見た。
その中には見知った顔もいくつかあった。
入隊前から名前は知っていた隊長。
ミストリナよりも強かった同期。
それよりも更に一枚上だった先輩たち。
それらが悲痛な顔を最期にこの世から消えた。
(……俺に……ミストリナが守れるのか?)
――――
さらに月日は流れ、戦争は末期。
補給班だった彼らは運良く生き残っていた。
だが既に、何度も何度も直視させられた現実に、
ジャックの心はすっかり虚ろとなっていた。
最前線で無いとはいえ危険はある。
彼にとっては自分の身を守ることで精一杯。
愛するミストリナを守る余裕など無かったのだ。
明日も生き抜く保証は無い。
今日を生き抜くことで精一杯。
今を生き抜くことで精一杯。
(これじゃあ……貧民街にいた時と変わんねぇ……!)
彼にとっての不幸はもう一つだけあった。
それこそが――ミストリナの存在である。
足枷、という意味では無い。その方がまだマシだ。
「なぁおい、聞いたか?
ミストリナが補給班に迫った危機を救ったそうだ。」
「あぁ! 知ってる、知ってる!
襲撃してきた敵を返り討ちにしたんだってな!」
「その功績が認められてよ、昇進だとよ。
近々、最前線での戦闘に加わるらしい。」
ミストリナがジャックに守られる存在なら、
彼の足を引っ張るような存在ならどれほど良かったか。
だが彼女は賢い女性だった。強い女性だった。
皮肉にも、彼女を長年苦しめていた極天魔術が
その戦果と生存率の高さを生み出していた。
即ち――彼女は一人で十分な戦力だったのだ。
(彼女にとって俺は必要なのか? 本当に……本当に?)
「……い。……ぉい?」
(俺はミストリナの……何だ? 俺は……俺は……!)
「……ぉい? おーい? 聞いているのか?」
「ッ! あ、あぁ悪いミストリナ。どうした?」
我に帰ったジャックの顔を愛した女性が覗き込む。
その顔は凛々しくもあり、それでいて可愛らしかった。
成長しているのだ。ミストリナは一人で逞しく。
「全く。本当に私の昇進を祝う気があるのか?
私は前線、ジャックは補給班。離れてしまうんだぞ?」
「も、もちろんだ!」
今は二人だけの時間。なのにどうして、居心地が悪い。
ほとんど会話も続かず時間だけが過ぎていった。
数日後、ミストリナは大規模な作戦への参加が決まる。
その作戦には……ジャックは招集されなかった。
「じゃあ行ってくるよ、ジャック。」
「あぁ……気を付けて……」
「はぁ、全く仕方が無いな。」
そう言うとミストリナはジャックへ近づく。
彼の頭に手を伸ばすと顔の元まで引き寄せた。
「!」
「ふふ、行ってらっしゃいの、という奴だ。
少しは元気が出たかな? 私は元気が出たぞ?」
意地の悪そうな笑顔を見せると彼女は身を翻した。
見送る背中は小さく華奢。
その小さな背中は、見る見る内に遠退いた。
「待って……くれよ……! 行かないで……!」
――一週間後――
「凱旋だー! 精鋭部隊が戻って来たぞー!」
「勝ちは勝ちだが……かなり人が減ったな。」
ゴエティアの街にボロボロの戦士たちが帰還する。
その様子を封魔局本部から二人の隊長が眺めていた。
一人は現在では局長となっているマクスウェル。
そしてもう一人は金髪の黒人、シルバだった。
「勝利か……! よくやってくれた!」
「だが隊長格はほぼ死亡したらしい。
マクスウェルよ。次世代は育っているのか?」
「う、む。今回の生存者の中から選出するしかあるまい。
五体満足で帰還した者たちから、有望な者を。」
「まぁそうなるか。だが時代は変わるぞ。
選出基準は一度見直した方がいいのでは無いのか?」
戦争は終結へと向かっていた。
既に天帝は死亡し、残るは残党処理のみ。
世界が再び平和に戻って行く過程で、
これから隊長に求められる素質は『優秀さ』と――
「――『愛嬌』だな。市民からの人気や話題性。
不安定となった人心を纏めるには『英雄』が必要だ。」
やがて新たな隊長たちが選ばれる。
純粋に戦力として見込まれたのは劉雷とエヴァンス。
そして封魔局の新たな英雄として三人の男女。
高い火力とホストのような顔立ちを持つドレイク。
魔術を極め人々の希望たらんとするアーサー。
最後に、顔の良さと貴族の娘という話題性から――
「――ミストリナ・クレマリア。
彼女を封魔局魔導戦闘部隊六番隊の隊長に任命する。」
戦後、魔導戦闘部隊は再編成された。
そしてジャックはミストリナの部下となった。
「お疲れ様です、ミストリナ隊長!」
「ハウンドさん……確かに少し疲れました。」
「止めてください。今の隊長は立場のある身。
目上に対しての敬意も大事ですが、今は面子が大事だ。」
「ではハウンド! …………うぅ……慣れないな。」
少々気恥ずかしそうにミストリナは頬を掻く。
この時の彼女の正装は愛らしく仕上げられており、
その仕草は周りの隊員たちの心を和ませていた。
ただ一人、遠巻きで傍観するジャックを除き。
「! ねぇジャック……どうかな? この服?」
ミストリナはジャックに気付いて駆け寄った。
少しの照れを見せながら彼の答えを楽しみにした。
しかし――
「……とても似合っています。ミストリナ隊長。」
(え……)
「隊長! 間もなくパレードの開始時刻です!
戦後を照らす希望の星としてバシッと決めてください!」
「あ、あぁ。分かった。」
ミストリナは民衆たちの前に乗り出した。
巨大な車の周囲を黄色い歓声が埋め尽くす。
「きゃー! ミストリナ隊長ー!」
「可愛い! ねぇ新しい隊長さん可愛くない?」
「そう! まるで……お人形さんみたい!」
(私は……これが欲しかったのか?)
民衆たちは期待した。下から、彼女に向けて。
それはあのときから『向き』が変わっただけ。
幸せを求めていたはずなのに青い鳥は死んでいた。
「きゃー! ミストリナちゃーん! 手振ってー!」
「…………は、はは。」
やっていることは求められた役割をこなすこと。
これでは地下都市にいた時と変わらない。
此処でも彼女は箱庭姫。まるで――お人形さんみたい。
――現在・貧民街――
「ハァハァ……!」
ジャックとハウンドは背中を合わせ呼吸を荒げる。
彼らの周囲には武装した貧民街の人間が数名。
逃げ場を無くすように二人の封魔局員を囲んでいた。
「おいジャック! 大丈夫か!? ぼーっとするな!」
「悪い……昔の事を思い出していた。
なにせ、当時の顔馴染みが見えたんでな……!」
そう言うと彼は集団の頭目を見上げた。
それは彼の古き友人、ホーネウス。
カチカチとライターを鳴らし余裕を見せていた。
「よぉジャック。どうだ、その後は?
惚れた女とは上手くいってんのかよ?」