生きる…
時間がない。ワタシには時間が、もうない。もっと、生きたい……
数ヶ月前、医者に宣告された。
何やら『心臓』に欠陥があるとのことで、「いつ心臓発作で死に至っても不思議はない」とのことだった。
(これから先、何年くらい生きられるんだろう。ドナーさえ見つかれば、『心臓移植』の手術が可能との話だったが……)
若くして事業に成功して、財産は為し得た。だが、妻子や親兄弟には恵まれなかった。だから、自分と親しい者は居ない。なので、『自分に適合した心臓』のドナーのアテなど、無いに等しかった。
(金は有るんだ。コネだって有るには有る。地下マーケットでもいいから、心臓が欲しい。どうしても……)
グループ会社の役員に指示を送りながら、頭の中を駆け巡るのは、そんな思いばかりだ。
移植のために必要なこと──生体情報は、既に懇意の医者に伝えてある。手続き上、後は待つだけなのだが、果たして、運良くドナーが見つかるのと、寿命が尽きるのと、どちらが先なのか……。
日々、不安を抱えて過ごす中、遂に念願の知らせが入った。
「私です」
誰も入って来ないように厳重に閉ざした執務室で、スマートホンに答える。
<良いお話があります。遂に見つかりました>
彼の声は、少し震えているように感じた。だが、しばらくして気付く。震えているのは、自分の方だったと。
「見つかった、と言うと……、ど、ドナーか? 心臓の提供者が、見つかったんだな」
分かりきったこととはいえ、そう確認せざるを得なかった自分がいた。こちらの声は、確実に震えていたに違いない。
<はい、その通りです。ですが、……ですが、一つだけ、お断りしておきます>
医者は、そこで言葉を区切った。頭の隅を嫌な予感が過ぎった。<ゴクリ>と生唾を飲み込む音が、やけに大きく耳に響く。
<適合者は発見できました。ですが、その方は、未だ生存しているんです>
そうなのか。生きていると。未だ生きているんだな。
「なにせ心臓だからな。活きが良いに越したことはない。今のうちに押さえておいてくれ。死亡の確認がとれたら、すぐにでも手術ができるようにお願いする。ありがとう。何年先になるか分からないが、何とか生き永らえてみせるさ」
希望の光が見えたことで、そんな冗談も言えるようになった。良かった。望みは全くのゼロじゃなくなったんだ。
だが、少し明るくなった声に水を指すように、耳元のスピーカーから音声が漏れ出てきた。
<い、いえ……、そのぅ……。その方は、ピンピンしているんです。少なくとも、余命は十数年以上と思われます>
何だ? それって、どういうことだ?
「何て言った? 『健康な心臓』の提供者が見つかったんじゃないのか? 今、脳死状態で病院に居るのだと思ったんだが。……そうか、頭以外は、すこぶる健康体なのだな。であれば、ご家族の方々も、生命維持装置のスイッチを切るのを躊躇うだろう。金なら出そう。ご遺族……、いや、遺族になる方々には、充分な保証が得られるように配慮しよう。それから……」
電話に向かって語りながら、自分が何か見当違いの事を喋っているような気がしていた。本当は、違うと。
<そうではないのです。あのぅ、非常に言い難いのですが、……ドナーは、心身ともに全くの健康体です。今頃、広々とした草原を走り回っていることでしょう>
(やはり、そうだったか)
その時に鎌首をもたげたのは、果たして、思考の奥底──仄暗いドロドロした心の深淵に沈めて思い出さないようにしていた思いだった。
「成程な、……そういうことなのだな」
短く、それだけを伝える。分かっていた。最初から分かっていたんだ。
<御察しの通りです。手段を選ばなければ、すぐにも移植手術が可能です。後はタイミングと……>
彼がその先を言いたくないのは、痛いほど分かった。そして、その言葉の裏の意味も。
「幾らかかる? ドナーの確保……、『私の心臓』の値段は? 幾らなんだ」
思いの外、感情のこもっていない声が出た。人というものは、こうまで残酷になれるモノだったのか。
<あのですね、臓器の提供を待っているのは、あなただけではありません。それに、心臓以外の臓器や、血管・血液・骨髄細胞や生殖細胞等など。各方面に渡って、上手くブッキングをしなければなりません。それと、提供元の意向であるとか……>
今度こそ、その声は震えていた。初めてではないにしても、慣れているわけではないのだろう。いや、まともな人間ならば、こんな事に慣れるものではない。
「分かった。言い値を払おうじゃないか。移植用の『心臓』の代金、移植手術の費用、その後の入院費とリハビリ……。それから、『狩人』への報酬と遺族への保証金も、全てこちらで引き受けよう。全額だ。その代わり、『心臓移植』を最優先にしてくれたまえ。この言葉の意味は、分かるね」
これは破格の報酬だ。心臓以外にも、使える『部品』は幾多とある。それぞれに値段がついて──勿論、法外な値段だろうが──取り引きされるのだ。当然、提供者は骨までしゃぶられることとなろう。ならば、『前処理』のコストは、受益者達で等しく分担すべきものだ。ソレを、全てこちらで肩代わりしようと言うのだ。これで優先順位を一位にしてもらえなければ、話にならん。
「もう一度言うよ。用意が出来るまでの費用は、全額負担すると言っているんだ。だから、心臓の移植を最優先で頼む。よろしいか」
暗い、誰も居ない執務室に、自分の声がやけに大きく響いた。反響して戻ってきた声は、まるで他人が話しているようだった。
──本当の自分は、こんな声じゃなかったはずだ
そう思い込もうとして、諦めた。この声こそが、本来のものなのだ。人とは、自分の生命の為ならば、ここまで冷徹になれるものなのだろうか。
<わ、わか……承知しました。すぐに手配をします。では、いつでも来院できるように、ご準備をお願いします>
遂に彼も吹っ切れたのだろう。聞こえてきた口調は、慇懃ではあるものの、淡々としていた。
<それから、この件については、くれぐれもご内密に>
「当然だ。君へも、破格の報酬と待遇を用意しておくよ。では、後は全て任せた。信じているからな」
そう言ってスマートフォンを耳から離すと、近くのソファにソレを放り投げた。そのまま、執務机の前で柔らかい椅子の背に身体をあずける。
「ふぅ」
嘆息するも、それは喉からではなく、左胸から流れ出ているように感じた。
(こんな思いまでして、生きたいのか。いや、きっと、弱った心の所為に違いない)
そう思うと、少しだけ、気が晴れたような気がした。
来年には、元気になっているだろう。心も身体も。
再び連絡が入ったのは、数日後だった。三日後に入院できるようにして欲しいと。
最も信頼の置ける秘書と示し合わせて、早朝会議の半ばで、密かに『薬』を混入したお茶を口にした。目の裏に激痛が走り、一瞬のうちに気が遠のく。後は、秘書と医師が手筈通りに執り行うだろう……。
そして、意識を取り戻した時、視界に入ったのは、灰色の天井と蛍光灯の明かりだった。
(身体が重い。頭の動きも遅い……ような気がする)
「いしきがもどりました」
「せんせいにれんらくを」
「けつあつ、みゃくはく、せいじょうちないです」
周囲から声が聞こえるものの、はっきりと認識出来ない。
(……生きている……のか。成功したんだな……)
それだけで、精一杯だった。
パタパタと何かの音が聞こえるが、それが何なのかよく分からない。ただ、『生きている』、それだけが感慨深かった。再び、気が遠くなりそうになったが、強い光と誰かの声が、それを引き戻した。
「……えますか。聞こえていますか?」
やっと、意識がはっきりとしてきた。その声に答えるように、首を縦に振る。
「もう大丈夫だ。君、聴診器を。バイタルの記録、続けておくように。点滴、追加して。……無理はしないで。手術は成功です。念の為、診察させてください。……ふむ。ふむふむ」
布地がずれる感触の後に、胸に圧迫感が……。後で訊いたら、「計測器が進歩しても、触診とか聴診器とか。原始的ですが、自分には、こちらの方が分かりやすくて」と、彼は白衣の上の年季の入った器具を指差して、照れ笑いをしていた。こういう憎めないところが、信頼に繋がっているのであろう。
(なにはともあれ、命拾いをした。ドナーには悪いことをしたな。だが、自分を含めて何人もの人々が助かったんだ。退院したら、久し振りに故郷の寺にでも行くか)
成功したと聞いて、未だ生命があると分かって安心したのか、再び目を瞑る。意識はあるが、微睡み状態。今は、この生を感じよう
規則正しく脈打つ鼓動と流れる血液のリズム。これこそが、ワタシの求めていたものだ。生きている。それこそが、至高の幸せ。これからも、ワタシは生きる。
移植手術が成功してから以降、以前よりも更に勢力的に仕事に打ち込んだ。会社は更に大きくなり、医療分野にも進出した。地域でも類を見ないほどの大規模な総合医療施設をオープンし、そこの院長、兼、医療部門担当役員として、手術を引き受けてくれた医師を迎え入れた。
まさに順風満帆。生き長らえるとは、こういうことだったのだろう。
勿論、彼の供養は、毎年の節句に手厚く執り行っている。感謝してもし足りない。本当にありがとう。
それから三十年は経ったろうか。
今、自分の横たわっているのが、心臓移植手術を行ったあのベッドと同じように感じる。様々なパイプやケーブルが繋がった姿は、どの程度異なっているのだろうか。
「気分はどうでしょう?」
覗き込む顔は、皺と白髪に覆われていた。
「悪くはない、あの時と比べるとな」
出てきた声が、思いの外嗄れている。
「あの時は、手術の直後でしたから……」
そうか、そうだったな。
「状態はどうなんだ? 悪いのだな」
特に動揺は無かった。来るべき時が来ただけなのだ。
「脳内の各所に血栓が出来ています。どうして、こんなになるまで放っといたんです? 自覚症状はあったでしょう。頭痛とか、立ち眩みとか。年齢に比して身体自体は──勿論、心臓も、すこぶる健康なんですよ。あなたには、まだまだ生きてもらいたい」
眼鏡の向こうに透ける瞳が、潤んでいるように見える。
「君も老いたな。私は、他人の──彼の人生を奪って生き長らえたのだ。この辺りが潮時だよ」
執務室で倒れて、ここで目覚めた。死を自覚した今も、後悔はなかった。
「……本当に、良いんですね」
そう言う医師の顔は、苦渋に満ちていた。
「ああ、良いんだ。この身体は、心臓も含めて、使えるモノは全て使ってくれ。角膜、肝臓、腎臓……。待っている者が居るのだろう?」
自分で言葉にしておいて、「柄にもない」と思う。あの時は、『心臓』を手に入れるためにあらゆる事をしたというのに。
「罪滅ぼし……、なのですね」
問に対して、首を左右に振る。そんな志の高いものではない。
「何故だか分からないが、『こうすべきなのだ』と思ったんだ。何て言うのかな、……心に感じたんだ」
今、鏡を見たら、どんな表情だろうか。
「このまま意識を失って、もう目覚めなくても、……私は生き続けるのだ。様々な人の身体に宿って。そうは思わないかい?」
問への答えはなかったが、彼は大きく頷いた。
そう、これでいい。
「出来るだけの事はします。なるべく意識を保てるように」
「私も、可能な限り、お顔を拝見に参ります」
医師に続けて、秘書も、そう言ってくれた。
「そうか、ありがとう。弁護士へも伝えて欲しい。私の死んだ後──それは心停止ではなく、脳死だが──は、遺言書の通りに処理するようにと。君達も、脳波の停止を以って、死とするように。必ずだ。それだけは、守ってくれ。お願いだ」
法律的に微妙な部分で文句をつけられないようにする為だ。
「法廷闘争になって、移植が滞らないようにな。可能な限り、移植手術を優先してくれ。出来れば、事が全て終わってから、私の死を公表するのが望ましいな。やってもらえるな」
弁護士には申し訳ないが、彼もプロだ。遺言書と合わせて、自分の意向は伝えてある。それに、その時には、もういないのだ。勝ち逃げだ。そう思うと、気分が爽快になった。
「後は頼んだよ」
そう言って、目蓋を閉じる。そういえば、心臓移植の時以外は仕事三昧だった。こうやって、ゆっくりと横になっていられるのは、初めてだったかな。
(いいな、こういう時間も……)
「成功しました。今は、ゆっくりと身体を休めて、体力を取り戻しましょう。気分はどうです? 苦しくはないですか?」
問われる度に、首を縦に振った。手足の自由がきかない。だが、胸の奥の力強い鼓動が、自分を励ましているように感じた。「生きろ、生き延びろ」と。
「しばらくは違和感があるかも知れません。拒絶反応の様子は見られませんが、何かあったら必ず教えて下さい」
医師はそう言ったが、彼の顔は自信に満ちていた。きっと大丈夫だ。新しい心臓が、僕の生命をつないでくれた。ありがとう。
規則正しく脈打つ鼓動と流れる血液のリズム。ワタシは生き延びた、再び。
生きている。それこそが、至高の幸せ。
これからも、ワタシは生きる。
生き続ける……
(了)