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同居人はしゃべらない

作者: 三木詩絵

時計の針は12時を回っている。男は弁当とアルコールが入ったをコンビニ袋を手に深夜に帰宅した。こんな遅い時間に帰宅するのは今日に限ったことではない。いつものことだ。

へたった座布団に座り込み、買ってきた弁当を食べる。

アルコールの缶を開ける。

コンビニ袋が空になり、お腹は空いていないのに、まだ何か満たされない。立ち上がって冷蔵庫を開けると、酒のつまみの干からびたものが入っていた。他にあるものと言えば、わずかな調味料ばかり。

干からびた食べかけの肴の始末もせずに、そのまま冷蔵庫を閉める。そのまま、しばらく冷蔵庫の前でつっ立ったままボーッとする。

何か考え事をしているのではない。気力がなくてもう何もするのも考えられない。

食事は済んだ。あとはもう眠りたい。眠らなきゃいけないのに眠れない。

男はアルコールの缶を飲み干した。物足りずに、冷蔵庫をもう一度開ける。昨日残しておいたつもりだった酒は、残っていなかった。いつの間に飲んでしまったのだろう。

手に持った缶をふたたび煽って中身が空だった事を思い出す。

これで何度目だろう。飲む動作だけが、癖になっている。


古びた座布団に座り込む。

ふと、自分はもう若くないと思う。若い頃と同じ量しか食べていないのに鏡を見ると腹が少しばかり出てきた。中ぶらりんな年齢だ。青年ではないがまだ中年には差し掛かっていない、と自分では思っている。俺は本気を出せばまだまだやれるはずだ、と。毎日の生活は降り積もって歳だけとっていく。そうは言っても、この生活の先にゴールは見えてこない。こんな日々を積み重ねたところでなんの自慢にもならないのだが、1日をやり過ごすだけでいっぱいいっぱい。望んでこうなったつもりはないのだが、今の生活の他に何ができると言うのか。昨日も、その前もこんなことを考えていた気がする。でも、もう一口飲む頃にはそんなこともきっと忘れてしまう。これを毎日を繰り返してもうどれくらいになるのだろうか。

住んでいる二階建てのこのアパートは賃貸だ。はっきり言えば、誰が見たってオンボロだ。かまやしない、寝に帰るだけの空間なのだから。ここにはとりあえず職場が近くて家賃が安いと言う理由で住み込んだ。実家から出て初めて一人暮らしだった。最初の頃はこんな生活でもけっこう楽しかった。どんなあばら家だろうが俺は一国一城の主人なんだと。もちろん一生ここに住むつもりはない。近いうちにもっと良いところを借りようと思っている。あるいは、いつかお金が貯まって持ち家を構える前のいっときの住処だ。出ていく予定は今のところ決まってはいないが、このアパートが終の住処でないことだけは確かだ。引っ越すきっかけは、そうだな。いつか生活に大きな変化ができたら。例えば家に呼びたい彼女ができたら。あるいは給料が今よりもっとずっと上がったら、その時はきっと引っ越す。そう思いながらもう長いこと住み続けてしまった。いや、きっかけがなんかいらないかもしれない。ここはもう出たほうがいいだろう。いい加減潮時だろう。こんなアパートじゃ恋人を呼べないじゃないか。何せこのアパートはオンボロすぎるのだから。鍵だってセキュリティーがしっかりしたものとは言い難いし、隣の部屋だって前の住人が出ていったきりもう一年も空き部屋のままだ。

「部屋を替えよう」たまにそんなことを考える。考えるといっても、それはほんの数分。いや、数秒に満たないくらいの浮かんでは消えるアイディアだ。引っ越して環境を変えようとする思いはすぐに他の思考にとって代わる。次の休みこそは不動産屋に行こうと思う。なのに、気づけば勤務日の朝になっていて、空になったアルコールの缶がゴミ箱に溜まっている。今の生活は自分自身に向ける以外の何かに絡みとられていると心のどこかで思っている。でも、例えばノルマの達成とか、上司の叱責時間をいかにやり過ごすかとか、あるいは不意に訪れるクレームに時間を取られてといった具合に毎日は過ぎる。そうしてわずかに残った自由な時間は素面でいることの方が少ない。


その日も男はいつものように弁当片手に夜に帰宅した。ふらつきながら、無表情に玄関で靴を脱ぐ。その時ふと、部屋の奥に何やら気配を感じて動きを止めた。男は息を潜めて部屋の中を見回す。部屋は静かだ。灯りはつけていなかったが、窓越しに入り込む月明かりは家具のエッジを白いラインで浮き上がらせている。半分畳まれただけの布団、折り畳みの机の上には読みかけの雑誌。

朝出て行ったままの風景。

(気のせいかな?)。

そう思いかけたが目は暗闇に慣れてきた。よく見ると机の横の床に親指大ほどの小さな毛の塊が見えた。

(ネズミだ!)

男は近くにあった雑誌を丸めて素早くその小動物を叩き潰した。いや、実際には叩いていない。そうしようと頭の中で思っただけだ。代わりに、手の指でそっとその塊を撫でてやった。いや、触ってもない。触ろうかと思っただけだ。けれど得体の知れないものに素手で触れるのは気が引ける。小動物とおぼしき毛の塊は動かずじっとそこにいた。男は部屋の電気をつけて塊に近づいて見つめる。気のせいか毛の塊は光に少し反応したように見えた。しっぽはない。目も見つけられないし、逃げもしない。

(生きているのかな?本当にネズミだろうか?)

男はいつものように、取り敢えずアルコールの缶を開けた。持ち帰りの書類に目を通す。気づけば塊をそのまま放置して忘れてしまい、そのまま飲んだくれの世界へと落ちてゆく。疲れがどっと体の芯から登ってくるのを感じた。もう深夜だ。明日のためにシャワーを浴びると、あとはもうただ眠りたかった。



気がつけば朝になっていた。頭を振って目覚まし時計を止める。辺りを見回すと、いつもと同じ風景の中に昨夜の毛の塊がまだそこに落ちていることに気づいた。昨夜は小鼠くらいの大きさだと思ったそれはハムスターくらいの大きさだった。見たこともない塊だ。しっぽもなければ耳もないし目がどこにあるのか分からないが、毛はふさふさとして艶々と輝き、生きているように感じられる。

出勤時間が迫っていた男は塊を跨いで部屋を移動すると朝の身支度を素早く済ませて部屋を出た。すでに日は高い。町はもう動き出している。部屋を一歩出たところで、塊のことはもう忘れてしまった。


帰宅はその夜も深夜だった。毛の塊を見つけでギョッとしたのは、単にその存在を今しがたまで忘れていたからだけではない。塊はウサギくらいの大きさがあり、昨夜から場所を移動していないものの、明らかにサイズがでかくなっている。

(こいつ、成長してやがる)。

男は、ここへ来てようやく塊の存在を意識して見た。その毛は黒く、光を反射させた表面はシルバーに輝いている。近づいて見つめるとわずかに反応を示すが、動いて逃げる様子がない。

男は座布団を移動すると、その塊の隣にあぐらをかいて座り込む。考える振りをしながら、いつものように反射的にアルコールの缶の栓を開ける。側から見たらきっとシュールな光景だと思う。

(こいつは一体何を食べて成長したのだろう)。

アルコールが回ってきて、そんな事を考えた。

見慣れたはずの部屋を見回すが、部屋の食糧で無くなったものは思いつかない。冷蔵庫の中身も減っていないはずだ。だいたい、食糧を摂取するための口がこの毛むくじゃらについているのか?こんな短時間でどうやってここまで大きくなったのだろう。

(こいつは自分の意思で動けるんだろうか)。

この塊は最初に見た時から少しも移動していない。いったいどうやってこの部屋に入り込んだのだろうか。

配管のどこからか侵入したのか、壁に隙間でもあるのか。

ひょっとして俺が仕事に行っている間に、部屋を歩き回っているのだろうか。俺が帰る頃を見計らってこの場所に再び戻ってきて…

正体はなんだろう。生きているのかも曖昧だ。


男は食べかけのパンの白いところをちぎると、塊の前においてみた。ひょっとしてパンを食べる瞬間が見れるのではと見張ることにする。

何も起こらない。ここは我慢比べだ。

男はアルコールの缶を片手に塊を睨み続けた。



昨日はけっきょく寝てしまったらしい。次の日の朝目覚めると、ちぎったパンは干からびた状態で目の前に落ちていた。

塊はまだそこにいて、子猫ぐらいの大きさに成長している。どうやってこの大きさになったのか。少なくとも、パンはこいつの餌にならないようだが。

アルコールが身体にまだ残っていたのだろうか。男は変な事を考え始めた。


こいつが犬くらいの大きさになったら、ひょっとして脚が生えて、紐をつけてどこか散歩に連れて行けるようになるかもしれない。ペットとして飼ったら楽しいだろう。見たことのない動物だから、連れて行く先々できっと注目を浴びる。紐をつける首がどこにあるのかも、よく分からないけれど。


(そういえば、このアパートはペット禁止だったな)

入居時に不動産業者から言われたことを思い出す。

「犬、猫、鳥類、爬虫類の飼育は禁止です。」

男は舌打ちをした。

(どうせ帰って寝るためだけの部屋だ。こんな深夜まで仕事に追われる生活で、ペットなんて飼えるはずないではなか。金魚ですら、今のような生活リズムでは餌やりと水替えが疎かになって死滅するってものだ。)

やり場のない怒りが湧いてくる。


小さい頃は生き物がけっこう好きな方だった。

男は昔、犬が飼いたいと親に泣いてねだったことを思い出す。

「うちでは飼えないわ。」母親はいった。

それならばと、ザリガニを釣って家に持って帰ったこともあったが、長く飼っていた記憶がない。多分水が濁って死んだかで捨てられたのだろう。

友達とフナを釣ろうとして大きなナマズを見つけたこともある。散々遊んだ後、ナマズが持って帰るには大きすぎて、結局逃してやったんだっけ。

笑いがこみ上げてくる。楽しいかった思い出だ、子供の頃を思い出すのは久しぶりだ。楽しい夢を見たものだ。

そう、この毛むくじゃらもきっと全ては夢なんだ。

(夢から覚めた頃には、こいつもいなくなってるだろう。なんかちょっと寂しい気もするが)。


「俺は変な夢を見ていたんだ。それだけのことだ。」

そんな期待も虚しく、帰宅したとき毛の塊はさらに成長してそこにいた。

塊は、ちょうど昔、自分が飼いたいと思っていた犬くらいの大きさになっている。

「帰った時、もしまだ塊がそこにあったなら、今日こそは大家に電話しよう」。

朝にはそう考えながら家を出たはずだった。しかし、深夜帰宅した男には受話器を取る元気が残っていなかった。

塊はすでに中型犬くらいの大きさである。でも、もう深夜だ。不動産屋も保健所も閉まっている。

男は、塊が少し怖くなって来た。こいつの存在がだんだんと不気味になってくる。夜中にこいつが牙を剥いて、噛みつかれたらひとたまりも無いではないか。


次の日、早めに帰宅した男はいつもより少し豪華な夕食とアルコールの缶が沢山入った買い物袋を手にしていた。本当はもっと早くに帰る予定が、それでもすっかり夜になってしまったのだが。

塊はいよいよヒグマくらいの大きさで、目方は自分よりも重そうだ。

もうやけくそだ。どこまで行くのか見届けてやろうという気になっている。男はそのふさふさした毛の中に目や口を探して頭がどこなのか確認しようとしたが、諦めた。


割り箸を割って、弁当を食べる。刺身をしばらく塊の前に置いておいたが、やはり反応がないので自分で食べた。食べ終わると、アルコール缶の栓を開ける。なんだか気持ちが良くなってきた。

今朝はその存在に不気味さを感じて落ち着かなかったのに、今はその成長っぷりにいとおしさすら感じている。

明日は10日ぶりの休日だ。今夜はこいつと好きなだけ飲み明かして朝まで酔い潰れれるってものだ。

男は千鳥足で台所から茶碗を取ってくると、アルコールを碗に少し注いで塊の前に置いた。

一人酒には慣れている。今更一人で飲む酒に寂しさなんて感じない。でも、もしコイツが生きものなら、こうするだけで、一緒に飲んだ気になるってものだ。男は、酒を入れた茶碗と缶とで一人乾杯をすると、缶から直接ぐびぐびと飲み始めた。


それなりに長く生きてきて、こういった奇妙な生き物に遭遇するのは初めてのことである。動物園に行った時には、ガラス越しや柵越しに「奇妙」な生き物を目にする機会はあった。それらの動物は人々に見つめられ観察されながら命をつなぐ。その生き物の生息地では、仲間がまだ、ひっそりと暮らしているのだろう。彼らの故郷である、野生の世界。そこは、喰うか喰われるかの世界であり、テリトリーを巡って命をかけた戦いが繰り返される舞台であるに違いない。

そういえば、祖父と遊びに行った海で、鯨の死骸が打ち上がっているのを見たことがある。

海パンを履いて浮き輪に体を潜らせる当時小学生だった俺は、海岸に群がる大人たちの異様な集団を目にした。作業服を着た市の職員、ライフセーバーと思われる水着にTシャツを羽織った青年、海水浴場には場違いなスーツを着た男たち。みな、砂にまみれたその巨大な漂着物を見つめたり突いたりしている。

「じいちゃん、海に入っていい?」俺は尋ねた。

「あれは、ひげ鯨だな。」

祖父は質問には答えずに、漂着物を見ながら呟く。

「俺、泳ぎたいよ。」

わがままを言う俺。制服を着た警察官が近づいて話しかけてきた。

「鯨ですかな?」

祖父は警官に言った。

「ここらであがるのは、そんなに珍しいことじゃないですね。去年も隣町で漂着があったばかりです。」

警察官は人懐っこい笑顔を浮かべた。

「あれは、何日か前に海で死んで、ここまで流されて来たのでしょう。この有様です。海岸で泳ぐのはしばらく無理でしょうな。坊やには、せっかくの夏休みなのに残念だったね。」

警官は、海パン姿の俺を見て言った。

漂流物からはすでに液体が滲み出て砂に広がりつつあった。鯨とその残滓の処理を急がないといけない。

「鯨は何を食べるの?」

俺は祖父に聞いた。

「そりゃ、海の物さ。」

祖父は答える。

「鯨は人間と同じ哺乳類だからね。食べるものは、だいたい同じだ。」

祖父は説明した。

つまり、俺が朝食べた魚の干物や小魚の南蛮漬けはコイツが食べ損なったものであり、あの鯨の腹に収まっている海産物は人間の食卓に乗り損なった何かなわけだ。


鯨の処理はそれから二日間にわたって難航した。湾は浅過ぎて用意した船舶が接岸できず、埋立処理は土地所有者との間で折り合いがつかなかったらしい。鯨はいよいよ腐臭を放って、見物客との間に遠巻きに距離をつくる。

鯨が漂着してから三日目の早朝。鯨は、大潮のタイミングでロープで沖まで運ばれて、そこで海底沈下された。鯨はその形をかろうじて保つうちに生息場所に帰されたのだった。


男は目の前の現実に立ち返って、毛むくじゃらの塊を見つめる。人工物に囲まれたこの街は、未開の森林とも未知の深海とも、いかにも遠い。でも、自分が知らないだけで、塊は案外身近なところにいるありきたりな生き物なのかもしれない。

猪や犬の変種なのかも。一瞬そう思って、すぐにこの考えを捨てた。コイツの成長のスピードはどうにも異常に早すぎる。

もう一つ奇妙なことに気がついた。

男はこの生き物のことをまだ誰にも相談していなかったのだ。職場の同僚にも上司にも、不動産業者や大家、保健所にもまだ連絡していない。仕事に追われて疲れていたとはいえ、何故誰にも喋らなかったのか自分でも不思議である。


男にとって毛の塊は今や特別なものになっていた。職場の人間や表面的な付き合いのある他人よりも、よっぽど身近で親しみを感じる存在だ。

保健所に電話する気はすっかり失せていた。親しくもない人間にこの塊が強制的に連れ去られて、自分一人がこの場所に残されるのは我慢ならない。きっとコイツは新種だろう。動物園か研究所に連れて行って調べたならば、ちょっとしたニュースになると思う。新種の発見が人々の話題になれば、新聞社やテレビ局が取材にやってきて、美人なアナウンサーからインタビューを受けるかも知れない。

「いやいや。」

男は頭を振る。

取材を受けてメディアに取り上げられることがどれほどの事だというのか。彼らはズカズカと他人のうちにやってきて、ライトやフラッシュを焚きながら花火を散らすように周りをパッと明るくはする。でも、人々の注目など俺にはきっとあだ花だ。数日としないうちに人気という泡沫ははじけて、コイツのいなくなった部屋には期待の残骸だけが虚しく残される。

知りもしない他人からの注目になんの価値があると言うのか。コイツがうちにいてくれる、それだけでいい。俺には十分満足なんだ。男はどうにもこの塊が好きになっていた。コイツを失いたくないと思った。他の誰に知られることがなくとも、愛おしい自分だけの特別な生き物だ。実際コイツみたいな特別な存在は、世界中探したって見つけられないだろう。

「名前は、シルバーバックなんてどうだろう?」

意外な言葉が、自分の口から飛び出す。俺が飼うんだから、コイツに名前くらいは必要だろう。

シルバーバックは強いオスゴリラにつく名称だ。コイツがオスかメスなのか皆目見当もつかないが、体重は明日にでもゴリラをきっと超える。

そうだとも、コイツは自分からこの部屋にやってきた。そして、今でもここに居続けている。きっとここが気に入っているんだ。たぶん俺のことも満更嫌いではないだろう。

もし懐いたなら、俺に文句ばかり言う上司やクレーマーたちをぶっ飛ばしてくれる、力強い味方になるかも知れない。シルバーバックの背中に乗って馬みたいに出勤したならさぞかし愉快だろう。男は自分の妄想に夢中になる。

そして、ふと先ほどの茶碗を覗き込むと、さっき注いだ酒の量が明らかに減っていた。


男は狂喜のように嬉しくなって、酒を並々と茶碗に注ぎ足した。

「なんだ、お前いける口なのかい。」

親近感がどっと増した。シルバーバックと心が通じ合ったように錯覚した。

どうやって飲んでいるのか見つめてもさっぱりとわからないのだが、シルバーバックの近くで茶碗はピチャピチャと音を出してはその度に酒が減っていた。男はさらに酒を注ぎ足しては自分もグビグビと飲み、すっかり酔っ払ってしまった。

シルバーバックの浅くゆっくりとした呼吸の動きは今や速く大きくなり、息遣いが毛並みの動きを通してはっきりと見て取れる。やがて呼吸の動きはゆっくりになり、ぐうぐうと響く音を鳴らし始めた。どうやら眠ってしまったようだ。男はシルバーバックに向かって手を伸ばすと、初めてその毛に触れた。


ふわふわとして柔らかそうに見えたその毛は、思ったより硬くてゴワゴワしている。まるで猪かトドの毛のように丈夫でしっかりした毛だった。男はその毛を撫でて梳きながら何本か抜くと、なんとなしに読みかけの雑誌の間に挟んだ。

巨大なシルバーバックに半分もたれかかりながら、男は眠ってしまい、いっとき夢を見た。夢の中でこのアパートでのことを次々と思い出していた。



男がアパートに引っ越してきた当初、住人は今より多かった。もっとも、当時からすでにボロなアパートだったが。住人は自分も含めて誰も所帯を持っていない。独り身の男ばかりだ。若いもんが入ってきた時に、友達を呼んでどんちゃん騒ぎを起こしたこともあった。が、基本的に住民同士の交流はな少なく、お互いをなんとなく避けながら住み分けている。一つ隣の部屋の住人も、自分より少し若そうな独身の男だった。


もう一年以上前の話だ。あの日、男はその隣人の大声を初めて聞いた。それは声と言うより叫び声に近いものだった。

「ギャー!!」と言う悲鳴。同時に隣人が廊下に飛び出す音がした。

何事かと思い、つられて男も廊下に出る。怯える隣人と目があう。隣人はこちらを見ているのに目の焦点は合っていない。

「どうした?」と声をかけると。

「助けてくれ、助けてくれ、うあー。」

隣人はそう叫ぶと、その次の瞬間には。

「あの野郎、ぶっ殺してやる。」と、すごい剣幕で部屋に戻っていった。

この時は、隣人は気が触れたんだと思った。夜もふけていたので自分の他に部屋から出てきた者はなく、目撃者は他にいない。

次に隣人を見かけたのは、彼の引っ越しの時だ。

叫び声を聞いてから、わりとすぐの出来事だった。青白く生気の抜けた目をした彼を廊下で見かけたものの、異様な雰囲気に声をかけそびれてしまった。彼は引越し業者について、早々に出て行った。

男は、隣人がストレスか何かで一時的に疲れていたのだろうと思い、忘れることにした。

あの時彼は何かを見たのだろうか?その後、部屋に越してくる者はなく、部屋は空き家のままである。


男は、シルバーバックにもたれかかりながら、ぼんやりと当時のことを思い出す。だいぶ飲んだはずなのに、急に酔いが覚めてきた。

「なぜ、今までこの毛むくじゃらのことを誰にも話さずにいたのだろう?」

背中に冷たいものが走るのを感じて、男はゆっくり目を開ける。

最初に部屋で小さなコイツを見つけた時、俺は叩き潰して始末するつもりでいた。でもそうはしなかった。それから何日も、コイツのことを成長するままに放っておいた。この得体のしれない生き物について、職場の誰とも話さなかった。軽口を叩く機会なんていくらでもあるのに。上司に相談もしなかった。口調こそ厳しいが、いざと言うときには相談できる相手なのに。保健所にも不動産屋にも連絡を入れていない。俺は社会人なんだぞ。何かあった時の手順は、ちゃんと守る男なのに。

男は体を起こして、隣にいる生き物を見つめる。深い呼吸がゆっくりとしていて、眠っているように見える。


男は考えた。

「そもそも、この部屋は本当に俺のものなのか?」

この部屋の所有者は誰だろう。家賃を払っているのは自分であり、人間社会のルールの則ってこの部屋を借りているのは自分だ。

だが、自分はこの部屋に寝るためだけに帰っている。残りの時間、日中はずっとこの塊が部屋にいる。コイツはこの部屋をテリトリーにして、成長をつづけているのだ。

ひょっとして、俺は単にコイツの世話のために生かされているのではないか?コイツはどうも俺の頭の中を支配している。どうやっているのかわからないが、そんな気がする。コイツが酒に酔って寝たから俺の思考のコントロールを一時的に失ったのだろう。だから、今こうして考えが及ぶようになったのではないか?

男はここを抜け出さないと、と考えた。

求められるのが部屋の世話なら自分の命は大丈夫だろう。だが、この先も無事である保証はないではないか。今までは、たまたま生かされていて無事だっただけなのだ。もし、コイツが俺に部屋の世話以上のことを望んでいるのだとしたら?そもそも、酒以外に何を栄養としてここまで成長しているんだい…。

男は立ち上がろうとして腰が抜けているのに気づいた。飲みすぎたのかも知れない。いや、恐怖で力が入らないのだ。塊からそっと離れると震える手で上着を掴み、這うように廊下に出た。



外に出ると、周りの雰囲気が何やらおかしい。明かりがどこも点いて無くて、暗くて不気味な静けさが漂っている。周囲を見渡しても人が見当たらない。人だけじゃない。見慣れた風景がどこにもない。暗いのは停電のせいだろうか?人工の光がどこにもないのだ。幸い今夜は満月で、月光を隠す雲もなかった。夜空がとても近くに感じる。ゾッとするほど美しい月夜だ。

もっとも、月をめでる余裕はなかった。部屋は不気味で得体の知れない生き物に占拠され、外は目を凝らしても知らない風景だった。月光が十分な明かりとなって、足元を照らす。部屋に戻るわけにもいかず、階段を降りて、アパートを振り返った。

住み慣れた2階建てのボロアパートは、更に古く崩れかけて、階段の手すりは半分朽ちて錆び落ちていた。

「まるで、浦島太郎にでもなったみたい。そうじゃなきゃ、アパートごと知らない町まで運ばれてきたのだのだろうか?」

そんなことを思った。だが、この場所はやはり男の近所に違いないようなのだ。

辺一帯は瓦礫と崩れかけた建物ばかり。だが、足元に落ちているテラコッタの破片は向かいの新築だった戸建ての屋根瓦のようだし、廃墟みたいなビルには馴染みのスーパーの名前が入った看板がかかっている。

強いていうなら、新しいものほど荒廃がひどく、古いものの方が形を留めている様相だ。

「この世界にいる人間は自分だけだろうか?」

不安がよぎる。というより、パニックだ。

ちょうどその時、建物の向こうに何かの気配を感じた。

「きっと他にも人間がいるんだ!」

男はハッとして、気配のした方向に向かって走る。

瓦礫を避けながら道なき道を進むから、急ごうとしていても気ばかり焦って足元がおぼつかない。なんとか少し平らなところへ出ると、遠くに人影らしきものが揺れたのが見えた。

「誰かいるのか?」男は大声で呼びかける。人影は男の声が聞こえなかったのだろうか。こちらに反応してくれない。

「おーい、ここにいるぞ。」

慌てていたせいか、声がうわずっている。

人影は男と反対方向に向かって、どんどん歩きだす。しばらく進んだところで立ち止まると、今度は何かを投げ始めた。一瞬あたりが騒然とする。人間では無い生き物の声だろうか。3回くらい投げたところで、男がようやく人影に追いついた。


その顔は、知った顔だった。すでに暗がりに自分の目が慣れている。月明かりに照らされた口元は笑っている。人影の正体は、去年まで隣の部屋に住んでいた若い男だった。

「よう、あんただったか。」

男を認めた元隣人は、親しみのある声で言った。

元隣人のやつれた姿を知る男にはすこし意外だった。元隣人は随分と元気そうで、最後に見た時よりもいく分若そうに見える。

「まったくよ。こいつら気持ち悪いんだよ。」

言葉を失う男には構わず、隣人はそう言いながら足元の塊を拾うと、野球のボールでも投げるようにそれを思いっきり投げつけた。

塊は落ちた先で「キャイン」と声を出す。

その塊は、男の部屋にいた毛の塊と同じものだ。男は焦って、悲鳴をあげそうになった。よく見ると、瓦礫に紛れてそこかしこに毛の塊がいる。大きいものも小さなものも。毛の塊の声を聞いたのは初めてだった。

こいつらは、やはり生きていたのだ。


隣人は、塊を拾っては投げることを繰り返し続ける。ついには、バスケットボール大の塊を両手で持ち上げて、思いきり地面に叩きつけはじめた。叩きつけられた塊は叫び声を発して身をよじる。隣人はその塊を更に踏みつけてとどめを刺す。男は断末魔にビク付き、「やめろよ」と言おうとして、声にならなかった。

その光景にはまるで現実味がなくて、別世界のショーを見ているように感じられた。

隣人によって痛めつけられた塊は、どこからともなくあらわれたさらに大きな塊にバリバリと喰われ始める。

阿鼻叫喚が月夜にこだました。隣人は血走った目で、殺戮を繰り返しては、更に悦に入る。男は、この光景に胃がキリキリと締め付けられるような恐怖を感じた。それは、部屋でシルバーバックに感じた恐怖とは違ったものだった。

「おい、お前も投げてみろよ。」

隣人は、手頃な大きさの毛の塊を男の前に差し出した。男はそれを触るのすら躊躇って、一歩後ろに下がる。


ちょうどその時、男が目の端で何かを捉えた。

「明かりだ」無意識に言葉を発する。なんという安堵感。

それは、人がきっとそこにいるという安堵感であり。そして今この場から離れられる、両方の意味での安堵だった。

「あそこに明かりが見えるぞ。きっと誰かいるんだ。」男の指差す先には鳥居が月明かりに照らされていた。更にその奥の鎮守の森に、ぼうっと白く光るところがある。きっと本殿の明かりだ。人がそこにいるんだ。


新しいものほど古びているこの荒れ果てた世界でまともな場所があるのだとしたら、それは近隣で一番由緒ある場所「鎮守の森」に違いない。神社は人々の祈りの場でもある。そこに人が集まるのは自然なことだし、うまくいけば元の人間界に戻れるかも知れない。

男はそんなことを考えながら、隣人と一緒に森を目指して走った。石段の下で息が切れる、もう走れない。鳥居は石段の上にあり、本殿は更にその奥にある。月明かりにさらに目が慣れると森の周りには毛むくじゃらの塊がそこかしこに潜んでいることに気づいた。小さなものから猫ぐらいの大きさのものまで、ひしめき合ってうごめいている。隣人は塊に石を投げつける。2人して大きな枝で塊を払い除けながら道を作った。塊は高く薙ぎ払われるたびに高い音を出す。音を発した塊はより巨大な塊に捕らえられては飲み込まれていき、2人してその共食いシーンを見守った。それはまるで、ガラス板で隔たれた水槽の向こうの世界の風景のように思えた。塊がこちらに攻撃を仕掛けてくることはなかった。どうゆう訳だが、向こうからは男たちが見えないようなのだ。

隣人は若くて体力があるのだろう。自分を置いてさっさと階段を登ってしまう。男は遅れてなんとか鳥居までたどり着き、安堵のため息をついた。そこにあるのは、男が知る森そのままだった。知っている社と何も変わるところがない。先にたどり着いた隣人がチラリとこちらを振り返る。だがその向こうで光っているのは意外なものだった。

灯は本殿の中から漏れる光ではなかった。そこは牡丹の花がいくつも咲き誇る大木で、人の顔ほどもある白い大輪ひとつひとつが光を放っているのだ。

本殿の方はひっそりと静まりかえり、人のいる気配はどこにも無い。だが、「この風景は一度見たことがある。」と、男は思った。

隣人の様子にチラリと目をやる。思い当たる節がある。きっと隣人は今現在の彼の姿ではない。ここにいるのは最後に会った、つまり一年前の彼の姿だ。着ている服も雰囲気も見覚えているそれと同じだし、男を見るその目の焦点が今はもう合っていないのだ。隣人が奇声を発していたあの夜のように。

光る牡丹は花弁から芳香を放ちながら蜜を滴らせている。元隣人は振り返ると、牡丹に歩み寄り、その大輪を抱えるように両手で持って花弁ごと蜜をピチャピチャと舐め始めた。

「おい、何をしているんだ。」男は叫んだ。隣人に男の声は届かない。

「そんな得体の知らないものを口にしてはダメだ。」男は隣人と自分自身に言い聞かせるように言った。飲むのをやめさせようと彼の後を追いかける。途端に酔うように甘い香りに包まれて目眩がした。気がつけば男も牡丹の花を手に取ってその香りを芳いでいる。走り続けて喉がカラカラなのは自分も同じだ。男はそのまま花に顔を近づけると、隣人と同じように蜜を舐めはじめた。香りが痺れるように全身をみたし、爽やかな味は心まで満たしくれる。二人は我を忘れて満足するまで蜜をすすり続けた。

ふと足元を見ると、さっきまで無かったはずの毛の塊がいくつも落ちている。さっきまで大人しく自ら動かなかった塊は、「カリガリ」と嫌な音を立てて1匹また1匹と集まっては、2人に近寄りつつあった。


さっきまで蜜を舐めていた隣人は突然叫び声をあげた。毛の塊が隣人の足に噛み付いたのだ。

隣人はその塊を蹴飛ばしたが、今度は別の毛の塊が威嚇しながら隣人に襲い掛かろうとしていた。毛の塊は仲間の数を増し、低い音を出しながら執拗に体当たりしては隣人にまとわりつく。そして、攻撃は男にも向けられていた。先ほどとは違い、今の奴らには俺たち二人が「見えている」のだ。俺たちは今やこちらの世界に入り込んでしまっていたらしかった。アウェイな状態である。奴らの食べ物を口にしたせいかも知れない。この世界で繰り広げられる光景は、もう水槽の向こう側の世界ではなくなっていた。この世界は奴らのテリトリーなのだ。そこは喰うか喰われるれるかの世界であり、俺たちは捕食対象かもしれないのだ。

「アパートまで走れ。走って帰るんだ!」俺は隣人に向かって叫んだ。言うが早いが、隣人は走り出し、俺は全速力で後を追う。

道の途中、瓦礫に埋もれていた塊は1匹また1匹とこちらの存在に気づき、数を増してゆっくりとそして確実に追ってきた。襲われた足や腕の傷がキリキリと疼く。痛みよりも恐怖がまさっていて、火事場の馬鹿力でひたすら走り続けた。巨大な塊の横を素早く通り越し、小さなものは蹴飛ばしてアパートまでの道のりを急ぐ。アパートが安全という保証はどこにもなかった。しかし、2人とも正気を失っていて、他に行くあても無い。月明かりに照らされてアパートが見えてきた。一つだけ希望がある。隣人は一年前、ここからアパートを通って元の世界に戻った可能性があるのだ。


二人してアパートの前にたどり着いた。隣人は「助けてくれ、うわー」と叫びながら俺の隣の部屋、つまり元隣人の部屋の扉を開けた。俺は少しだけ出遅れた。無情にも俺の前で、その扉がバタンと閉じた。

「なんてことだ、開けてくれ。」ドアのノブを回すが、扉はびくとも開かない。トアを挟んだ向こう側で、隣人が叫ぶ声が聞こえた。

「あの野郎、ぶっ殺してやる。」扉の向こうで人の気配がふっと消えた。俺は膝をつく。隣人はひとり元の世界へと帰ってしまった。きっと一年前のあの時の世界にだ。俺はこの世界で、今度こそたった一人になってしまったのだ。

毛の塊はいよいよ集まり、襲いかかろうと迫ってくる。追い詰められた男は半狂乱になって、できる唯一のことをした。男は自分の部屋の扉を開けて中に入り込んだのだった。


シルバーバックは部屋にいた。サイズが小像ほどの大きさに膨れあがり、部屋の大部分を占領している。シルバーバックがワサワサとその体を大きく揺らして男の存在に気づく。すでにこいつは目が覚めている。男はなす術がなかった。絶望のうちに足の動かなくなっている男にシルバーバックはゆっくりと覆いかぶさる。飛びかかられると、あとはもう幾重にも重なる毛に埋もれて男は何も見えなくなった。

暖かな何かが滑るような感触がして首と鼻と覆う。

「俺はコイツに食べられているのかな。」と、意識が遠のく中で男は思った。

「コイツはやはり生きていたのだ。シルバーバックは意思を持った生き物だった。俺の心を操るほどにこいつは自分のことを知り尽くしている存在なのだ。」男はそのまま気を失った。



眩しい光の中で男は目を開けた。一瞬ここは天国かなと男は思う。

「苦しむ事なく一瞬でここまで来れたのだ。俺はきっと運がいい方だ。あるいは俺はまだあいつの腹の中にいるのだろうか?俺はあいつに闇ごと溶かし込まされて、やつの栄養分となるんだ。シルバーバックは俺を摂り込んでさらに大きくなる。それって俺にとって悪くない人生の終わらせ方だったんじゃないか。」

男は再び目を瞑る。しかしいくら待っても何も起こらない。痛みも何も感じないし、日の光で暖められた部屋が暑苦しくなってきた。目を瞑り何もしないこの状況に飽きてきた。

男のめちゃくちゃな考えは意識にのぼり、だんだん頭がさえて思考がはっきりしてきた。目の焦点が合うと、目の前に懐かしく見慣れた風景が現れた。

そこは男の住むアパートだった。相変わらず古いが、天井も落ちていないし床が朽ち果ててもいない。今までと何も変わらない、静かな昼下がりの退屈な我が家だった。よく見慣れた風景なのに、その眩しさに男は違和感を感じる。男は完全に目を覚ました。シルバーバックの姿はどこにも無かった。


男はこの1ヶ月間、いつも通りの生活を送りながら繰り返し繰り返しあの日の夜のことを思い出していた。酒はすっかりやめしまった。今は時たま嗜む程度にしか飲まない。

どこまでが夢だったのだろう?鎮守の森に一緒に行った元隣人はどこかで元気にしているのだろうか?そんなことも考えた。大家に隣人の行き先を尋ねることも出来たが、やめておいた。もし夢として全て忘れているのであれば、きっとその方が彼にとって幸いだろう。

あれから男の周囲もガラリと変わってしまった。あの夜以来、この世界が明るく輝いて見えるようになったのだ。もっとも、その変化は主観的なものだろう。この現実世界の住民とその関係性がなんら変わったわけではないからだ。けれどなんというか、男にはこの世界が以前よりも明るく見えていた。光の強度だけではない。職場の同僚とは心から笑い合って談笑するようになり、上司には信頼を寄せて尊敬するように変わっていった。男がよく笑う生活を続けているうちに、なんと自分に好意を寄せてくれる女性まで現れたのだ。

「どうせなら、私と一緒に住んでみませんか?」

冗談めかしたふりをして、彼女は男にささやいた。


男は先週引っ越しを決意した。彼女がもし本当に押しかけてきてもいいように、広めの新しい部屋を決めてきた。彼女のために引っ越しを決意したかって?いいやそうじゃない。そして、この部屋に恐怖を感じているからでもない。俺はこの部屋に住み続けることが、耐えられなくなったのだ。

家に帰るたびに、あいつが元いた場所にその姿を探してしまう。あの夜のあと、俺は鎮守の森を訪れ、あいつに再び会えるようにと願掛けをした。牡丹の木はどこにもなかった。部屋に帰ってシルバーバックがいないことに落胆する。そんな自分には、もう耐えられないのだ。シルバーバックのいないこの部屋にひとりでいることが堪え難かった。


男はその日、ポリ袋を片手に帰宅した。仕事は少し早めに切り上げた。彼女からのお誘いもあったのだが、今日は理由をつけて断った。今日であの日からちょうど1ヶ月になる。

男は読みかけの先月の雑誌のページをめくる。そこに挟んだはずのあいつの毛はやはりどこにも見つけられなかった。窓を開けて外の様子を伺う。今日は満月だ。あの日と同じように雲ひとつなく、美しい月が窓の外で光っている。ドアを開けて廊下に出て、階段を降りてからアパートに振り返る。そこにあるのはちょっとくたびれて古いアパート。目の前の戸建ての屋根にはテラコッタの屋根瓦が光っているし、ビルの一階に設置されたスーパーは人の出入りで賑わっていた。それはいつもと何も変わらない風景だった。男は、改めて自分の暮らす世界にかえってきたことを実感した。

男は再び部屋に戻り、茶碗とコップを用意すると、ポリ袋から2本のアルコールを取り出した。酒を買うのは久々だった。だが別に、酔いたいわけではない。茶碗とコップに並々とアルコールを注いで、男はコップの方を片手にチビチビと味わうように舐め始めた。茶碗に注いだ分はもちろんそのままで減ることはない。コップに酒を注ぎ足しながら、男はこみ上げるものをなんとかこらえる。こんな思いで生活し続けることは、もう終わりにしないといけない。


信じてもらえるだろうか?俺はシルバーバックに会いたくてたまらないのだ。あいつと似た毛むくじゃらの塊に興味があるんじゃない。今度こそあの変な生き物を捕まえて誰かに見せびらかしたいとかそうことを考えている訳じゃない。

今になってシルバーバックに感じるのは、恐怖よりも畏敬の念が勝っている。あいつは俺にとって、特別な存在なんだ。変な話、あいつに再び喰われて取り込まれてしまっても構わないとすら思っている。その巨体を抱え込むようにして頬擦りして親しみと尊敬の想いを伝えたい。あいつはどうしてか俺を元の世界へと帰してくれたのだ。俺が形を失うその前に。

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