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幻のストーカー~幻シリーズ第1弾~

作者: サン・レイン


                     1


 創作初期の時代だから,もう数年も前のことです。


当時,私は「幻の美女」という小説を書き,何人かの読者の方からお褒めのコトバをいただいたものです。


 そのうちの一人の方に言われて嬉しかったのは,「幻の美女」では,何の変哲もない朝の通勤列車風景の中に,濃縮された人生ドラマを感知することができたというものです。


 毎朝,同じ時間,同じホームの一角に現れるという噂がたった幻の美女と,その正体は・・・。


 まあ,あれは私的にも奇想天外さの点では満足している作品の一つなのですが,これから話す,新都市

伝説「幻のストーカー」においては,あれに勝るとも劣らぬ朝の通勤列車風景の濃縮さを味わってもらえれば幸いです。


 それではさっそく話をすすめます。


 由利子は今年で25歳になるOLだ。


 渋谷の道玄坂から少し歩いた先にあるワンルームマンションで一人暮らしをしている。


 生来の美貌とグラマラスな肢体は多くの男を虜にするものがあるものの、独身で今は恋人もいない。


 大学時代は東京郊外の親元で生活していたものの,少女時代からの憧憬の地であった渋谷の街並み・・・。


 渋谷に住み,渋谷の駅を使って通勤するという夢にまでみた生活が2年前から実現できるようになった。


 しかし,渋谷駅周辺の朝陽の燭光にはすさまじいものがある。


 他の繁華街に比しても,ハチ公周辺から大交差点にかけては人口密度がせまく,その分,エネルギーが全体として無声の叫びをあげているような気もします。


 エネルギー,それは朝のエネルギーとでも言ったらいいのかな。


 これから始まる都会の息吹という感じでしょうか。


 彼女の場合,通勤経路は井の頭線であって,ハチ公側ではない。


 線路下の大きな横断歩道を渡り,駅ビルへ続く長いエスカレーターを使って,井の頭線の改札口までへとすすむ。


 淡い色彩のドレス姿は、白い肌によく調和している。


 朝の7時半頃でしょうか。無言の人波をかき分け,エスカレーターに足をすすめたときです。


 「まただわ・・。」


 彼女は眉間にしわをよせた。


 横断歩道とは反対側の商店街の方から,最近よく見かける中年男性が,チラリと彼女に一瞥をくれてから,気づかぬように先行するのに気づいたのです。


 眉をひそめたのは、こういうことです。


 偶然なのかどうか、最近少し気になっているのは,毎朝その中年男性が彼女と同じホーム,同じ時間帯で吉祥寺方面に向かうことです。


 最初は全然気づかなかったものの,一月前辺りからだろうか,どうも彼女の周囲に彼女自身その中年男性の視線を感じるようになったのです。


 なんというのでしょうかね,普通に背広姿ではあるが,決してオシャレな清潔感はない。


 年齢は30代後半というところか。


 その特徴を一言でいえば,職業不詳・・・。


 得体の知れない不気味なオーラを発しているような印象をあたえる。


 銀縁の眼鏡の底に浮かぶ双眸には,何かに取り憑かれた宗教家のようなものを感じさせた。


 だから,何度も朝に見かけ,ねっとりとした熱い視線を感じるようになってからというもの、すぐに乗

車時間をひとつずらしてみた彼女です。


 乗車時間を変えればね、そうすると,もうその不気味な男性に遭遇することは皆無になるわけで問題はなかった。


 しかし,不思議だなと思ったのは,たった数分時間をかえるだけで,この無数の人波は,一変し、まるで別世界を展開することである。


 なんだか朝の渋谷駅前って,大海の波みたいね,由利子はそんなふうに心中呟いては苦笑した。


 ゲシュタルト心理学の本質というのは,心理現象全体の特性として,諸要素に還元できないことの指摘にあります。


 諸要素の積み重ねというのは確かに事実であるが,積み重なって出来上がった全体にはそこに新たな視覚上,聴覚上の生命が生まれるということなんでしょうかね。


 渋谷の駅前の人波の風景にしても,その風景が無数の人々の積み重ねとは独立した全体の絵を浮かび上がらせているのはもっともなことなのかもしれませんね。


 それはさておき,一月ほど前に得体の知れぬ宗教家のような男と同じ時間に乗車することを意識しだした彼女は,それからしばらくして,乗車時間をずらすようになった。


 しかし,今朝はどうしても早くに出勤しなければならない事情があったゆえ,以前通りに渋谷駅に着いたら,やはり,またあの不気味な中年男性を見かけてしまった。


 その中年男性、改札口を彼女よりも前に歩き,ふと斜め後ろにいる若い男性に一瞥をくれたときです。


 ちょうど,後ろに位置していた彼女はあらっという声なき声をあげた。


 あらっ,この横顔どこかで見たことがあるような気がするわ・・・。


 そうよ,この顔・・・。どこかで見たことがあるわ・・・。


 今まで殆ど,その男性を注視することがなかったゆえのことか,思えば思うほど,過去に見たことのある人物に思えてならない彼女です。


 しかし,どうしても思い出せない。


 電車はやがて下北沢駅に到着し、男は降車する。


 それから,明大前まで通勤する彼女ですが,その日は1日中,夜に帰宅してから後も眠りにつくまで,その男性のことで頭がいっぱいだったものです。


 こういうのって,人間にはよくあることですよね。私にもありますが,たいていは長くても2,3日でどこで見た顔かは思い出せるものです。


 それにホンの些細な、無限なる人間社会における一点であることに苦笑してしまうことが多いものです。


 しかし,その晩,彼女はどうしても思い出せなかった。


 ただ一つ,非常に奇妙な気分になったとのことです。


 妙に懐かしい,遠い昔にどこか遠い国で見かけたことがあるような気がする・・・。


 誰だったかしら・・・。


 それに・・・。


 それに,なんとなく,彼もまた見知らぬふりをするものの、アタシの事に気づいているような気がするわ。


 翌朝,彼女は,乗車時間と乗車位置を元に戻した。


 やはり,その男は彼女と同じようにエスカレーターの登り口からホーム最後尾まで,あまり機敏とも言えないような疲れた風情で現れた。


 どういうわけか,以前に会ったことがあるような気がしてからというもの,その男に対する気味の悪さというものが薄らいできたような感じがした。


 決して,好みのタイプではないものの,何よりも普通の人とは違った雰囲気と過去に見かけたような感情に,変な言い方ですが魂が妙な親近感を抱くようになったのです。


 何をしている人なのかしら,それが不思議な邂逅的記憶の糸口になるような気がした由利子です。


 普通の会社員には見えないけれど,この時間帯に毎朝渋谷から下北沢まで通勤しているのだから,何らかの仕事はしているのでしょう。


 車内で心中反芻する彼女です。

 

 翌朝も,またその翌朝も・・・???


 あまりやる気のない小学校か中学校の先生かしら,強いて言えば,そんなイメージがあるが,そうだとしたら,過去に自分と何らかの形で接点があったことは想定しにくい。


 どこかの店やらクリニックで働いていて,過去に自分がそこに客として赴いたか。


 しかし,いつまで経っても思い出せない彼女は下北沢にあるその手の類の場所を想像してみた。


 下北沢では,確かに時折友人と夜ワインを呑んだり食事をしたりする。


 それに昨年はエアロビクススタジオに通っていたことがあり,そこで見かけた顔というのが一番ありそうな話かしらと思った。


 しかし、エアロビクススタジオでの一年間を思いだしてみるのだが,どうも釈然としない。


                    2


 他者に対する人間の感情ほど移ろいやすくていい加減なものはないと思います。


 これが異性間にあってはなおさらそうで、まあ、それは男女で微妙に食い違うところもあり、それはまた後で話したいところです。


 いずれにしろ、一月と少しくらい前から、朝の通勤列車で頻繁に見かけるようになった得体の知れぬ中年男性、なんだか気のせいか自分に注目しているような気がした彼女は、薄気味悪くなって乗車時間をずらすようにした。


 しかし、ふとした偶然で、その男性を以前にどこかで見かけたことがあるような気がしてからというもの、妙に気になりだした。


 乗車時間をもとに戻したが、その男性が彼女を注視していたというのは錯覚だったようにも思われ、彼女はしばらくの間、毎朝のゲームのような感じで、その男性と同じ車両に乗り合わす状態に戻った。


 よくみるとそんなに怖そうなタイプじゃない。確かに不思議なオーラを有しているが、身なりも態度にも常識的な空気が漂っている。


 しかし、思い出せないわ・・・。


 過去の思い出しごっこを始めて約一週間後のことだ。下北沢で降りる男の後ろ姿を一瞥しながら、由利子は昨夜親友と道玄坂で飲んだワインの回想を得た。


 アタシもね、昔、そんな事あるわよ。饒舌に語った親友である。ほら、スポーツジムに通っていた中年の女性ね、どこかで見た顔だと思ったんだけど、ずっとわからなかったのよね。それがある時、駅の売店でハンカチを買ったとき、その中年女性がお金を受け取るのを見て、あっと気づいたってわけ。


 なるほどね、そんな日常の些事のなかに、あの男性はいたということなのかな、なんだかそう考えると変哲のない日常というのもオモシロイな、親友の体験談に妙に納得した由利子だった。


 しかしです。


 昨夜、親友が語った次の台詞をですね、離れゆく下北沢駅に思い出しては、どうしたわけか瞬間にパニック症候群のように全身の血の気がおちていくのを感じた由利子です。


 でもさ、由利子、ストーカーなんかじゃなくてよかったわね。


 ストーカー・・・。


 えっ、まさか・・・。


 そういえば・・・。


 似ているんじゃないかしら、あのときの男に・・・・。


 しかし、そんなわけはない、理屈の上でもありえない話だけど。


 彼女は、朝の通勤列車の中で、7年前の恐怖のストーカー事件をフラッシュバックのように思い起こし、慄然としたのです。


 幻のストーカー・・・・。


                   3 


 大都会の朝、渋谷のプラットフォームに何度も打ち寄せる大海は、水しぶきをあげては、その刹那、白い波頭を一瞬浮かび上がらせたものです。


 その朝、由利子がふと、その謎の中年男性の背景に過去のストーカー被害事件を思い起こしたというのはこういうことです。


 由利子は東京郊外八王子市内で生まれ育った。


 両親と弟の4人家族、県境の典型的な建て売り住宅において数年前社会人になるまで生活していた。


 彼女は少女時代からその美しい容貌に加え学業に秀で、学区内では一番優秀な公立高校に進学した。


 なんで、アタシは男性から一目惚れされることが多いのかしら・・・。


 そんな疑問というものが、やがて口端に自然上るようになったのは高校生になってからである。


 高い鼻梁に彫りの深い黒髪の美少女・・・。


 やがて、都内の一流大学に浪人することもなく進学する。


 大学一年生の晩秋であった。


 郊外の住宅街にあっても、かなり寂れた地にあった彼女の実家に事件が起きた。


 深夜に猫の額のような庭地ではあるが人の気配を感じる、2階のベランダによじ登るかのような足音が・・・。


 そして、母や自分の下着が盗まれるという事件が起きた。


 所轄署に相談して・・・・。


 2週間ばかりの捜査で犯人が捕まった。


 下着泥棒という窃盗罪に加え、住居侵入罪。


 しかし、由利子たち家族を凝然とさせたのは、所轄署の刑事から犯人の名を告げられ顔写真を見せられたときだ。


 犯人の名は佐々木某・・・。


 昨年まで、彼女と同じ高校に通う隣町に住む学生だった。


 佐々木某については、よく記憶がなかった。同級というわけではなく、隣のクラスであり、3年間に一度も口をきいたことがない。


 ただ、顔だけは見知っており、確か、現役で一流大学の理学部に進学した最優秀なおとなしい高校生だったはずだ。


 卒業アルバムを見比べながら、祖父の代から父親までが有名な生物学者だという噂を新たに聞き出し、周囲の仲間から博士というニックネームで呼ばれていたことも併せて聞き出した由利子です。


 しかし、そんなことは関係ない、由利子家族は怒り、佐々木某は逮捕された。


 しかしですね、由利子家族を恐怖の底に陥れたのは、彼が逮捕されてから後のこと。


 年配の刑事が二人、彼女の父親を訪ね、そこで聞かされた話である。


 自らがまったく知らぬうち、まったく知らぬ人間が・・・。


 忍び寄る影・・・。


                   4


 その晩,彼女は渋谷のワンルームマンションでひとり考えた。


  白い瀟洒なデスクの上には,最近離ればなれになった両親と弟,最後に4人で写した記念撮影が微笑みかける。


 忌まわしい7年前のストーカー被害事件,あのときは両親と弟がいた,だからあの恐怖も乗り越えられたんだわ,しかし,今あんな事件が起きたら,たった一人のアタシはどうしたらいいのかしら。


 コワイ・・・。


 不安と寂寞に入り乱れた感情が、その狂発を抑えるがために、誰か自分の支柱になる人間を求めているような、そんな気がしたものです。


 しかし,どうして最近見かけるようになったあの中年男性から,忘れかけていた忌まわしいストーカー事件を思い起こしたのか。


 博士というニックネームの佐々木何某,そもそも彼女の意には存しない男だったから,当時自体も卒業アルバムやらでぼんやりとした意識しかなかった。


 だから,当然,今は覚えていない。


 ただ,インパクトのある事件だったゆえ,銀縁の眼鏡と広いおでこになんとなくの記憶がある。


 過去と今とが彼女の心中に交錯する。


 所轄署の刑事は,直接,彼女には話さなかった。


 土曜日の昼,長い間,両親と話し合っており,その晩,父から聞かされた。


 その年の夏休み,彼女は親友3人で伊豆の海岸に泊まりがけで出かけた。


 3泊四日の楽しい夏の思い出だったのだが,父を通して聞いたのは,その3泊四日の間,佐々木何某はずっと尾行していたのだという。


 それは警察で押収した写真からもわかるよう,彼女の歩いている後ろ姿や海辺の水着姿を一生の宝物にしており,取調では更なる盗撮に一命を賭すつもりだった,彼女の一つ一つの毛穴から何から全てを知りたかったと語ったらしい。


 彼の部屋からは意味不明な彼女の行動に関する統計的グラフのようなものも見つかったという。


 住居侵入,窃盗に加え,ストーカー規制法で追送致すれば実刑にすることも可能だ,なんとか被害届を出してほしいと刑事たちは説得にきたという。


 もちろん,彼女は被害届を出した。


 その後,佐々木何某がどうなったかは知らぬが,大学教員でもあった彼の父から毛筆で書かれた巻物のような詫び状が届いた。


 反省の意も込め,彼にはいったん大学をやめさせ,アメリカの大学に編入学させて,家庭を持つまで向こうで生活させると約束した。


 だから,その後,佐々木何某が彼女の前に現れることはなかったが,どうして,あの中年男性をみて,急に幻のような存在であったストーカー男を思いだしたのか。


 もちろん,あの中年男性が佐々木何某のわけはない。佐々木何某は由利子と同い年だったのだから,一回りも歳が違う。


 似てる・・?


 いや,あの中年男性,確かに何かに取り憑かれた宗教家のような目つきをしており,その一点で当時の佐々木何某に対する潜在的記憶がよみがえったのかもしれない。


 しかし,宗教家というのはそんなに腹に邪悪を持っているものじゃない。


 得体の知れぬ男ではあるが,性的変質者とは少し違うような気もする。


 でも何か嫌だわ。


 由利子は二度とあの中年男性と顔を合わせないようにしようと考えた。


 その三日後のことである。会社の創立記念日で休日となった平日のことである。


 由利子は以前から復活したいと思っていた下北沢のエアロビクススタジオに再度申し込みにいく予定を立てていた。


 初日から汗を流し,そして昼過ぎには下北沢で評判のカレー屋にカオを出そうと思ったのです。


 朝の9時も半ばを過ぎた時間帯,井の頭線渋谷駅に立ったときです。毎朝の乗車位置とは正反対の前方側に足を進めたときです。


 あっ・・!


 声なき悲鳴をあげた彼女です。


 右手に鞄を抱えたあの謎の中年男性が電車を待っていたからです。


 途端,身動きができなくなった彼女は,そのまま離れた位置から彼をみつめた。


 彼の方は気づかないようだ。


 朝の9時も半ば過ぎといえば,通勤ラッシュも殆ど終息を遂げた頃合いであり,だいぶ人波もうすらいでいる。


 今日は,彼も仕事の関係で時間がずれたのかしら・・・。


 偶然だわ。


 下北沢で先に降車したのは,彼の方で,ずいぶん後からまるで尾行するかのように歩を進める彼女です。


 改札口を出るや,その男,意外な場所に向かうのに気づいた。


 えっ・・・。


 立ち食いそば屋・・・・。


 再び,彼女の脳裏には,もどかしい記憶がよみがえった。


 誰かしら,やっぱりどこかで見たことのある顔よ。


 出っ歯・・・。


 近くで見ると,ビーバーのように前歯が突き出ており,どうもそれが印象の源だったような気がしてきた彼女でした。


 どうしようかしら,彼女はエアロビクススタジオに向かう足を止め,ロータリーの喫煙所近くのベンチに腰掛けた。


 今日は休みだし,ちょっとあの男性を追ってみようかしら,どうしようもない好奇心が湧き上がってくるのが、自分でも不思議だった。


 そして,何がここまで自分を駆り立てるのか,自分でも説明できなかった。


 ベンチから,立ち食いそば屋はよく見える。


 しばらくするうち,男は出てきたのだが,次の行動を見たときだった。


 愕然として,そしてこのうえない不思議な世界が自分の身辺に起こりつつあることに気づいた彼女です。


 男はもう一度階段を上り,下北沢駅に向かったのです。


 慌てて後をつける彼女・・・。


 男の方はまったく彼女の存在に気づいていないようです。


 下北沢にはいつもそばを食べるために降車していたのか,一瞬そう思った彼女ですが,男がもと来た道を再び渋谷駅に向こうのには何と解釈していいのかわからない。


 男は渋谷駅で降り,まさにもと来た道,エスカレーターを降り渋谷の商店街に消えていった。


 家に帰ったのか・・・。


 そこで見失った彼女です。


 職業は,そばを食べること・・・?


 腕時計に目をやると針は午前の11時にならんとしている。


 その晩も,彼女は思い悩んだ。


 どういうことなのかしら,まったく理解ができない彼女です。


 人間にはいくら考えても結論が出ないことがあります。


 宇宙の果てを考えるのに似て,彼女もまた諦めを感じたようでした。


 しかし,諦めるには一つの満足いく仮説というか推理をもって終わりにしたい。


 あの男性は,どこかの大学の社会学や心理学を研究している人間じゃないかしら,朝の通勤実態を何らかの方法で調査している。それをあちこちでやっており,だからどこかでカオを見たことがある,そういう推理が一番もっともらしいわ。


 自分なりの結論は出た,これでもうあの男性の事を思い起こすのは終わりにしよう。


 そう考えると、なんだかすっきりとしたものを全身に感じたものです。


 それから3日後の朝です。


 ふとした偶然で、その中年男性の実情と自分との関係を知ることになるのだから、人生というのは面白いものです。


                   5


 それから3日後のことです。


 乗車位置は少しずらすようになったものの、あの男性の事については自然徐々に意識しなくなっていく彼女でして,いつものように朝の渋谷駅に一歩踏み入れたときです。


 長いエスカレーターを上がりきらんとしたときです。


 背後で激しい音がした。


 えっ・・?


 慌てて振り返る由利子を押しのけんと若いジーンズの男性が凄まじいスピードで駆け上がった。


 それに続いて,待てぇという絶叫が・・・。


 あっ・・!


 3日ぶりに見かける、あの謎の中年男性が,その若者を追っているのに気づいたのです。


 いつの間にやら,改札付近にいた体躯のよい若者が二人に近づいてきては,その中年男性と二人してその若者を取り押さえる。


 「お前,今盗撮しただろう。」


 中年男性が大声で怒鳴り,周囲に野次馬が集まる。


 「誰ですか,あなた達は・・・。」


 震えながら、二人に声をかける若者です。


 「警視庁だ!」


 警視庁・・・。


 私服警官・・・。


 唖然としたままの由利子でして,駅員と中年男性が若者を抱え,事務室へと向かう。


 それに対して,体躯のよい方の若い私服警官が由利子に近づいた。


 「あなたのスカートの中をエスカレーターの下からですね,あの男は携帯で盗撮していたんです。とんでもない話です。現行犯逮捕したんですが,調書を取りたいんでご都合よろしければ派出所までご足労願えないでしょうか。そんなに時間はとりませんので・・・。」


 その日,彼女は署から職場に電話をかけ,見知らぬ男に盗撮をされ,警察で被害届を出すことになった、今日はショックで働く気になれないと告げ休暇をもらった。


 署では,刑事の言うとおりに誘導され絶対に犯人を許すことが出来ませんと最後に書いてもらい,調書にサインした。


 署を出てしばらく、彼女はワンルームマンションに帰宅することもなく、渋谷界隈をブラついては、夕方,スペイン料理店で一人早い夕食をとることにした。


 そして,ワインを一本注文した。


 すぐに頬が桜色に染まった。


 いい酔い心地だった。


 ほんのりとした女ひとりの酔い心地で、今日一日の出来事を一人反芻してみる。


 日本列島盗撮現象,日本の男はどうしたんだ。


 とりわけ,簡易な携帯電話を使ってエスカレーターや階段下からスカート内を狙うものが多い。


 渋谷署では,盗撮対策専門チームを作り,私服警官を点在させているという。


 今年になって,あのエスカレーター付近で7件,電車内でも何件か発生しているという。


 由利子を狙った若者には前科がいくつかあり,魅力的な女性を見つけだし,そっと尾行しては顔写真と合わせてスカート下を狙うのを常習としていたという。


 そうだとすると,あの謎の中年男性の行動もすべてに納得いくではないか。


 電車の中で見せていた取り憑かれたかのような眼差しも,盗撮犯人に対する執念のようなものといえば理解できる。


 ストーカーのような男に真剣に対峙するにはストーカーのような心意気をもった男じゃないと務まらないのかな。


 しかしです,被害届を書くため署に入った瞬間,彼女の脳裏にはバラバラな部品が突然一挙に組み立てられ,あの中年男性との不思議な再会が瞬時に思い起こされ、そして驚嘆したといいます。


 あの中年男性,確か7年前のストーカー被害事件のとき,八王子署にいなかったか。


 年配の刑事と一緒に,彼は確か制服姿のまま彼女の実家で実況見分の補助をしなかったか,そして,彼女自身が当時何度も八王子署に呼ばれたとき,一番格下だったからなのか,そのたびに最初に彼女に応対

してくれた警察官ではなかったか。


 あのビーバーのような出っ歯には確かに記憶があるわ。


 そうだとすると,アタシは同じ人に二度助けてもらったということになるのかしら。


 署内で、なんとなくの胸騒ぎがする彼女です。


 以前,テレビの奇跡体験で,少年時代,ビルから事故で落下したとき偶然その下を通りかかった人がいて抱きかかえてもらい九死に一生を得た。それから20年後,まったく別の場所でまたしても落下事故に遭ってしまう,そしてそのときも偶然20年前と同じ人が下を通っており九死に一生を得たという話を思いだした。


 それほどの偶然ではないにしろ,東京には人が多い。八王子と渋谷では全然距離が離れている。状況を考えても,やはり奇跡の再会のような気がするわ。


 最後に署を出る際,由利子は当然のことながらその中年男性にお礼の挨拶をさせてもらった。


 どうしたものか,言うべきか・・・。


 今朝の事はまるで意に介さないかのような笑顔の彼をみたとき、彼女としては、おとぎ話のような邂逅の話は何となく大事に心の中にしまっておきたいと思った。


 相手の中年男性はどう思っていたのだろうか,もちろん,毎朝見かける自分の事は知っていたはずだが,アタシが7年前のあのときの女性であるということはわかっていたか。


 挨拶をすませて表に向かうに彼女に,彼はこんなふうにいった。


 「もうお会いしたくないですよね。」


 もう,というのが7年前を意味しているのかどうかはわからなかったが,彼の屈託のない暖かい笑顔に彼女もつられて満面に笑みを浮かべた。


 「ありがとうございました。」


 たえてこよなく嬉しい心からの感謝のコトバでした。


 いつにもなく,ワインが進む彼女,ふと窓の向こうに振り返ってみた,


 窓のすぐ向こうに浮かぶ、大都会渋谷駅,既に帰宅のラッシュアワーが始まっている。


 大きな人波・・・。


 一秒ごとに一変する人波・・・。


 そういう繰り返す人波の中で人と人とが出くわすというのは,やはりそれだけでも奇跡なことであろう。


 しかし・・・。


 無数の人たち、無数の感動・・・。


 ちょっといい話,彼女はこの話,新聞社のエッセイ募集に応募してみようかと思ったそうです。


                    了 




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