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セグウェイの限界を振り切った駆動音が、それに比例して増す風切り音に溶ける。
「くそっ、間に合え」
本来はあり得ない速度で走るツーホイール型セグウェイの上に、エルクは稀有なバランス力でしがみ付いていた。――それにしても、足掛けベルトが無ければとっくに落とされていただろう。
電子決済時に潜り込ませたウイルスは、どうやら上手く作用してくれたようだ。
システムの制御を外れたモーターが、じゃじゃ馬の如し加速を生み出していた。そのせいで、これ以上姿勢を上げると風に体が持っていかれそうになる。
体で速度を感じるごとに、相手を示す赤点との距離も縮まっていく。
だが、そう話は上手く進まない。
『まずいです。向こうの速度も上がり始めましたよ』
「……まじか」
都心部での自家用車両の走行は原則禁止されている。バスや路面電車にしても、移動場所の予測は容易な上、最短ルートを選べない。今の状況下、この速度で考えられるのはセグウェイしかない。
エルクと同じく、セグウェイの制御システムを改変したか。
速度が同じなら追いつけない。時間が経てば、自動修復でネットワーク遮断が解消され、エルクを特定するIPアドレスがバックアップに移される。そうなれば十中八九、詰みだ。
『ここは《ドミニオン》を動かすしか無いですよ。自宅のデータサーバーに――』
「いや……必要ない」
『ですが、どうやって』
「……」
エルクは今一度冷静に、思考の中でここまでの状況を再構築する。
ふと、ある予測が打ち上がる。
「もしかして……」
その瞬間から、エルクの頭の中で雑音が消えた。
構想する。どんな状況でも冷静な思考が、五感と切り離され、静寂へと移行する。
エルクは、手の甲を二回叩いた。そのジェスチャーを合図として現れたホログラフィック・キーボードに手を添えた。
「なんだ。もしかしたら、そう難しい問題じゃないかもな」
/*――――――*/
東京の街並み。どこまで走っても、立ち並ぶのはビルと広告塔。それに近年だと、上空を覆うように、3Dインジェクターから映し出される極彩色の数々。
つい最近出来た車両通行の禁止条例によって、店が立ち並ぶビルとビルの間を通るのは、大勢の歩行者とセグウェイ、それとバス、路面電車しかない。とは言えそれも、一般道と区分された一定区間だけだが。
自動車から解放され、そのスペースは、完全に東京の若者のものとなっていた。路上ライブやバイク・パフォーマンス、フリーマーケットにダンサー集団……自由ではあるが、その様子は想像以上に混沌としている。
そんな混沌の街の道路を、人並みを縫いながら爆走するのは、異様なスピードを出す一台のセグウェイと、それに乗る青年。
「なんだよ、全然繋がらねぇじゃんか!」
彼は片や暴走しかけているセグウェイにしがみ付くような体勢で乗っていた。さらに危なっかしいことに、片方の手ではインジェクターの点灯した携帯機器を操作していた。
彼は何度も人差し指でクリックのジェスチャーを繰り返している。前方の人混みを避けつつも、横目ではインジェクターに移されたウィンドウを覗いていた。
それでも、現れるのは何度やっても消えない、『エラー』の文字。
「くそう‼︎」
時間が経てば解消されるのは分かっているが、焦る気持ちが先行してどうしても目の前のタスクが疎かになる。――死角から現れた人影に気づけず、寸前になって辛うじて避け切った。
(危ねぇ、冷静になれ!《beast》なんてご大層な名前も貰ったんだ)
滑り落ちてくる冷や汗を背に感じながらも、一度は狂った呼吸のリズムを整えた。せっかく大きな仕事を貰えたっていうのに、こんな場所で自爆は笑えない。
ただ、ネットが復帰すればいいだけだ。それまでは、追っ手から遠ざかる最短ルートを選べさえすれば問題ない。――マップに示された相手の位置から離れさえできればいい。簡単なことだ。
(……ん?)
その時、とあることに気がついた。
遠ざかることに夢中で気にも留めていなかった、彼が今走っている道の人数が減っていることに。やけに静かだと思ったら、それが原因だ。
道路脇に表示板を見つけ、ようやくその疑問は解決した。彼は今、一般道の方へ進んでいたらしい。そう。人が少ないのは、歩道にしか人がいないから。もう少し進むと予想通り、列を成す車の波と合流した。
「なんだ、これなら一本道だし楽勝――うおっ?!」
その瞬間、頭に付けたヘッドフォンから爆音が流れ始めた。
突然のことでパニックになり、頭から急いでヘッドフォンをはたき落とす。足元がぐらつき落ちそうになる。
「なんなんだよ一体……んなっ?!」
さらに彼を動揺させる。インジェクターのマップに映された、追っ手の赤い点が、
自分の目の前まで、差し迫っていた。
元よりままならない思考は完全に混乱する。
複数のタスクが絡まり、狂い、崩壊。混濁に陥る。
辛うじて立っていた脚が今、大事なピースが抜かれたジェンガのように、落ちて崩れた。
/*――――――*/
「最初から、上から指示を貰っただけのシロウトだったって事だ」
地図の上に、動かないままの赤点を確認して、エルクが言った。
一時的に改変させていたセグウェイの制御を元に戻して、正常なスピードのままそこに辿り着いた。その頃には、事故に気づいた通行人や写真を撮る野次馬などで、《beast》、もとい潰された死体の周りには、人だかりが出来つつあった。
元より人間は、そんな沢山のタスクを一片にこなせる程できた生き物ではない。況してや、ハッキングに関して素人であるなら尚更、考えが追いつかなかっただろう。
電気屋での一件で、あの時停電が起きたのも彼のハッキングとしての腕の無さが原因だ。あの停電は、不正アクセスを防ぐための再起動だった。
それがあったから、エルクは相手の力量を打算して、撹乱させた。
突如爆音が鳴ったことやマップに映った相手の位置が変わったことも、全てヘッドフォンへのハッキングによるものだと気付けたはずだ。
彼の大きなミスは、相手に力量を悟られたこと。腕の無さが露呈したことが敗因だった。
大型トラックが覆いかぶさった彼の横には、腕から外れた携帯機器が落ちている。エルクは自分の端末から、アクセスした携帯機器のデータを消し去った。あとはログを残さないように細工を施して、接続を断つ。
「問題は全部なくなった。あとは――」
――後ろ盾を調べるだけだと、口に出す直前。
転がった携帯機器のインジェクターがふと、前触れもなく点灯する。
(あれ……)
エルクは最後の細工の後、接続を切ると同時に機器のシャットダウンもしたつもりだった。接続を切った後に無駄にエラーを吐かれても困る、という理由でいつもそうしているのだが。
ハード側の接触不良で再起動したのだろうか。としても、インジェクターの映像は、普通の再起動にしては妙だ。画面はノイズやジャギーが乱れ、文字のようが描写されている。
そんな時、不意に、吸い寄せられるように目が留まった。
『C L O NE R』
C、L、O……と、エルクは頭の中で反復した。何度目か、分からなくなるほどに読み直す。また、反復。
理解は出来ているはずだが、理解できない。ここに来て、そのアルファベッドの並びが分からなかった。
「Cloner……なんで」
あの時から、半年も追いかけ続けた相手が、そこに居た。
文字だけが、絶対に捉えられない事象の上で、浮遊していた。
匂いに辿られた記憶のように、思い出すのは彼女との記憶。
エルクはその時、《Cloner》と奇妙な対面を果たした。
要するに《beast》は雑魚でしたってこと。多分。