First introduction.
エルク・リッチーにとって、そいつは魔術だった。
手に取らずとも、唱えるだけでモノを動かせる。知りたくば答えてくれる。教えてやれば覚えてくれる。言葉を一瞬で金銀に換える事ができ、複雑に言葉を積み重ねれば、それは自分に忠実な犬や猫になった。
AIの叛乱やシステムの崩壊、精神異常を来すウイルスアプリケーションによるパンデミック。子供の頃から、そう言う世界を間近で見てきた。そう、行き過ぎたテクノロジーが生んだ負の遺産。――そう言うものに、エルクは逆に興味を示した。
彼の考え方を理解しない人間を、特に『AI』を絶対悪と言って疑わない人間を、彼は一番嫌っていた。自分がそれらが生んだ恩恵の上に生活してる事も知らずに言う。「そんな危険なシロモノはいっそ無い方が良かった」と。大抵の人間はそうだ。
大人がそうであれば、それを聞いて育った子供も同じだ。
「やーいウイルス野郎」
「お前のパンチじゃキーボードしか打てないんだろ!」
煽り文句は……まあ色々だ。小学生の頃は、散々からかわれた。そりゃそうだ。喋りもしないし、おちょくられても何のアクションも返さない。ノートブックには延々と、頭の中に浮かんだプログラムコードを書き連ねている。こんな子供が居たとして、クラスで浮かない訳がない。若干小学生にしてエルクは、変人の烙印を皆に押されていた。
そうこうしている内にも中学生になり、その時にはすでに完全な孤独の中にいた。
時折、そんなエルクに寄ってきてアピールしてくる女子がいたが、それらは結局、彼の容姿が目当てなだけのものだけだった。彼の持つ人より綺麗な瞳や、プラチナ色の髪はどうしても人の目に止まってしまった。それ故に、陰口や嫌がらせは多かった。
他人の言葉はエルクの心を更に陰らせるばかりだった。たった、一人を除いて。
「チャイ、私の名前。あなたは?」
そう尋ねてきた少女は、たった一人、エルクに手を差し伸べてくれた人だった。
彼女はエルクの知っている他人とは違った。人の内面を一概に判断したりしない。誰にでも好意的で、それはエルクにも例外ではなかった。
それから何度も、彼女はエルクの側に寄り付くようになった。エルクがいつものように文字の羅列を書き連ねていると、彼女が横から聞いてくるのだ。
「んんーと……ここ『JOV』ってどう言う意味なんだろ?」
「え、うんと、それは――」
何か質問をされると、エルクはいつも出来るだけ分かるような言い方で答えた。丁寧に教えて、理解してくれるときはいいが大抵の場合は、
「う〜んとね、ワカンナイヤ」
で返ってくる。
ある日、エルクはチャイに聞いた。どうして分かりもしない事を聞いてくるのか。それはちょっと嫌みたらしい言い方で。裏を返せば、彼女の本当の気持ちを聞きたいがため。
どうしてチャイは、そんなに自分の事を気にかけてくれるのか。
「どうしてって、君が私に教えてくれるとき、すごく楽しそうなんだもん」
いたずらっぽく返された言葉は、エルクの心にどんな魔術を掛けたのだろうか。
彼の中でチャイという少女の存在は、その時に更に重要な物事の一つになったのだ。
エルクはその数日後、チャイに人生初の告白をした。
南風そよぐ春の日。そこには風車があって、一面チューリップの花が咲いていた。それをバックにして笑ったチャイの笑顔は、今も瞼に焼き付いて離れない。
笑顔がその返事だった。その日がエルクの記念碑で、人生で初めての幸福の日だった。
そう、その幸せが断絶された、その日まで。
外出先の街中、ビルの下の交差点で、彼女は鉄骨の下敷きになった。
原因は無人クレーンのシステムバグ。司令塔からの命令を無視して、鉄骨を保持したまま通行人のいる道路に放った。ちょうど、エルクが彼女を撮るために離れた時だった。
はみ出た鉄骨の影に気づいた頃には、すでに遅かった。
彼女は即死だった。下敷きになった後に救急隊がやって来たが、するべきことは何もなかった。
運ばれる遺体を呆然と眺めながら、エルクは必死に思い出していた。
あの時、彼女をカメラに写そうとした時。
モニタリングされたネットワーク上に現れたあの名前を。
一瞬だけ現れた、あの『clone』の文字を。
エルク・リッチーにとって、そいつは変わらず魔術だった。
変わったのは、彼自身だった。彼女を奪った魔術は呪いだった。
そして、呪いは今も彼を蝕んでいる。増殖するウイルスのように。