第二話 あまりにもあっけなく
私が屋敷に帰ると、妹が玄関ホールで心配そうに待っていた。
「ねえ、私が言ったことは本当だったでしょう?」
自信ありげに妹は私を見上げてくる。
「ああ。そのようだ。私はティーアとの婚約を解消することにした」
一瞬妹の顔が曇ったが、すぐに笑顔になる。
「そうよね。その方がいいわ。お兄様なら、きっと素敵な結婚相手が見つかるはずだもの」
私はもう二十二歳になる。結婚相手を見つけるのにはかなり出遅れている歳だ。それに、しばらくは結婚のことなど考えたくはなかった。
婚約者として信頼していたティーアに裏切られたことは、自分で思っている以上の衝撃を私に与えたらしい。
妻に私の知らない恋人がいるなど、受け入れられるはずもなかった。新しい婚約者が私を裏切らないと誰が保証できるのだろうか?
「私のことはどうでもいい。マリッカはどうなんだ? 忙しさにかまけて、お前の結婚相手を見つけてやっていないが、どうにかなりそうか?」
父が急逝してからの半年間、私は領地を運営していくことに必死だった。
それまで父はずっと健在だと油断してしまっていたのだ。私なりに努力はしてきたつもりだが、父には遠く及ばない。爵位を継いでから様々なことに忙殺されて、妹のことまで手が及ばなかった。
娘の婚姻を取り仕切るはずの母は、父が死んでから気が弱ってしまい、領地へと帰ってしまっていた。
十六歳の妹は結婚相手を見つけるために王都に残ったが、一人では思うようにいかないらしい。
「王太子殿下のことや、ティーアさんのことを思うと、私も結婚を躊躇ってしまいそうよ」
「何を言っているんだ。マリッカには幸せになってもらわないと、私は父に顔向けができないだろう」
父は妹のことを案じながらあの世へ召されたのだ。私は妹を絶対に幸せにしなくてはならない。
「でもね。昨夜の夜会に行ったのは間違いだったのかもしれないわ。まずはティーアさんが来ていたことに驚いたの。エスコートをしていたのはティーアさんの二番目のお兄様だったけど、いつもより派手な赤いドレスを着ていたのよ。私たちのお父様が亡くなってまだ半年なのに」
「それは、私が夜会に連れても行かず、放っておいたからだな」
父が死んでから、私はティーアと会う機会を殆ど作らなかった。もちろん夜会などには連れて行っていない。妻となるティーアならば、私の立場をわかってくれていると安心していた。それは私の勝手な思い込みだったようだ。
他の男を恋人にするほどに、彼女は寂しかったのだろうか?
「それにね、王太子殿下は新しい婚約者のライラさんとべたべたしているの。何だか気持ち悪い感じだったのよ」
「それは不敬になる。外でそんなことを言っては駄目だぞ」
「安心して。ここだけの話だから。それにしても、ユスティーナ様を投獄しているのに、自分たちだけ楽しむなんて酷いじゃない。だって、王太子殿下が心変わりしなければ、こんなことにならなかったのに」
妹くらいの年の娘はとても噂好きだ。私より社交界には詳しいほどだと思う。しかし、このような話を外ですれば、それこそ投獄されかねない。女性のここだけの話は信用しては駄目だ。
「本当にそれくらいで止めておけ。ティーアとは明日にも正式に婚約を解消するつもりだ。彼女とはそれで他人となる。だから、昨夜見たことは誰にも言うなよ」
婚約者以外の男と密会していたのがばれて婚約が立ち消えとなったと社交界で噂されるようなことになれば、十九歳になったティーアはもう結婚できないかもしれない。それは私の本意ではない。
ティーアに意趣返しをしたいわけではなく、純粋に彼女と生涯を共にする気持ちが消えてしまっただけだ。
「わかっているわよ。だって、婚約者に恋人がいたなんて知られると、お兄様の恥にもなるもの。そんなことを言いふらさないわ。安心して。でもね。私は想い想われて結ばれたいのに、何だか不実な人ばかりだから、夢が壊れそうなの」
妹は不満そうに口を尖らせた。その幼い仕草に年の離れた妹を甘やかせすぎたかと少し不安になる。
「大丈夫だ。きっとマリッカだけを愛してくれる男が見つかるはずだ」
それでも妹に希望を持ってほしくて、自分でも信じられなくなっているようなことを口にした。
そんな心がこもっていない言葉でも、少し安心したように妹は頷いた。
私は早いうちにティーアとのことを決着させたいと思い、翌日にナルヴァネン子爵邸を訪れることにした。
応接室で待っていると、ナルヴァネン子爵とティーアが現われる。彼女の目は腫れているが、私を見る目は思った以上に冷静だと感じた。
「ティーアとの婚約を白紙に戻したい」
そう切り出すと、ナルヴァネン子爵は苦渋の表情でティーアを見た。
「ティーアはそれでいいのか?」
「はい」
ティーアは泣くことも喚くこともしない。私に縋ることもなくただ震える声で肯定の言葉を口にした。
「この婚約はなかったこととしよう。今まで世話になった」
苦渋の表情のままナルヴァネン子爵はそう言って、ドアの方に顔を向けた。もう用はないから出て行けとのことらしい。
「こちらこそ、今までお世話になりました」
こうして、私たちの六年の時間はなかったことになった。それほど軽かったことに言い出した私の方が驚く。
婚約解消を決めた昨日から、ティーアにもう浮気はしないと泣いて縋られるのではないかと恐れていた。
今更謝られても許すことなどできないと思っていたのだ。
しかし、あまりにもあっけない結末に、私は彼女に縋って欲しかったのかもしれないと思ってしまう。
しかし、もう全ては終わってしまった。
私は通いなれたナルヴァネン子爵邸の庭を一瞥して、もうここに来ることはないと思っていた。